第32話

「シルビオ、お待たせ!」


そう言って部屋から出てきたベアトリスは、聖女として相応しい水色のローブをまとった姿になっていた。聖女の力を増幅させると言い伝えのあるアクアマリンの装飾がローブを覆うようにしてパラパラと配置され、慎ましやかに煌めいている。

ベアトリスの母であるネビアも聖職者同様白いローブを羽織ってベアトリスの後ろについた。

「今回の依頼って大きなものかしら?」

祈りの間に向かう最中、ベアトリスが問いかけた。

「大きい……。そうだな、ルナーラ王国からすれば恩返しのようなものだから、大きな仕事となるだろう」

「ならしっかりこなさなくてはいけないわね」

シルビオの返答に、ベアトリスはやる気に満ちた笑顔で頷いた。

先ほどよりも晴れやかな表情になったベアトリスを横目に、シルビオは言葉を続ける。

「ベアト、先ほどの再浄化の水についてだが、この仕事の前に作ってもらうことは可能だろうか」

「えっ、でもそれは……」

「リネッタのためだけじゃない。環境整備のため後手に回っていたが、再浄化した水を生成することも聖女としての国家業務なんだ」

規模の大きい言葉を使うことで、ベアトリスの関心を寄せる。

再浄化の水……もともと山奥で生まれた新鮮で美しく貴重な水に、改めて聖女の加護を与えることで効能を上げたもののことを言う。完全な治癒の力があるわけではないが、症状を和らげる効果を持ち、聖水ともてはやされることもある。

和らげると言っても、重篤患者にはほとんど意味のないものであり、それこそリネッタのように、ほんの少しの免疫力を求めている場合の後押しとしてはたらくので、再浄化の水の生成は最優先事項でないことは確かだった。

けれども、リネッタは政治的価値のある身分である。解決の糸口として再浄化の水が得られる手段があるというのに放っておくことは国家としても威信に関わるのだ。個人的な感情を持って助けてやりたいと思う一方で、シルビオは別側面からの緊張感を持ってベアトリスの説得に及んだ。

「リネッタは確かにまだこの国の人間ではないが、大切な隣国からの預かり人なんだ。優先的に助ける義務がある」

「………」

「わかってくれるだろう?」

シルビオは立ち止まってベアトリスの方へ振り向き、まっすぐ視線を向ける。

ベアトリスはそんなシルビオの視線から逃れるように斜め下を見た。冷や汗が流れる。

「…………わかったわ」

ベアトリスの絞り出したような返事に、彼女の背後にいたネビアが眉間に皺を寄せた。

「もちろん、ベアトの体調に無理がないように配慮した数を検討しよう」

ネビアやベアトリスの苦々しい表情は、先ほど言っていたベアトリスの疲労からだろうと判断したシルビオが安心させるために言葉を付け足す。

しかし二人の表情は晴れなかった。

疑問を残しつつも、ベアトリスとネビアから特に続く言葉がなかったので、改めて祈りの間に足を進めた。



青いステンドグラスによって、まるで海の中のように揺蕩う祈りの間は、前の洗礼の儀式の時と違い浮かれた空気が支配していた。

ソレイユ王国から来た聖職者たちが談笑をし、よく響く祈りの間で話し声を反響させていたからだろう。

シルビオたちが扉から入って祭壇の辺りに来ると、聖職者たちはベアトリスの姿をとらえて「これはこれは」と一斉に振り向いた。

ぞろぞろと全員がベアトリスたちの元へ挨拶にと立ち上がって歩いてくる。

ベアトリスとネビアの二人は、ソレイユ王国の聖堂長の前に立って軽く会釈をした。

シルビオが両者を紹介しようとしたが、その必要がなさそうで眉を顰めた。


「聖女様がいらっしゃられたか。それでは早速浄化の依頼について話し合おう」

アレハンドロの声が祈りの間に響き渡る。

ソレイユ王国の聖職者たちも彼の声を聞けば自らの行動を中断して従った。ベアトリスとネビアも、先に集まっていたルナーラ王国の聖職者たちに続いて席に座る。

「依頼内容を説明させていただく」

アレハンドロが中心となり、話が始まった。



***



結論から言えば、ベアトリスは今回の依頼に同意し、ルナーラ王国とソレイユ王国の国境付近の村まで遠征して浄化を行うことに決定した。

遠征とはいっても往復で1日かかるくらいの距離である。準備は難しくなく、明日には早速発つことが決まった。

ソレイユ王国の聖堂の人々は浄化依頼の実現に笑顔を絶やせずにいる。その一方でベアトリスは気だるげな雰囲気をまとっていた。

そんな彼女に先ほど言った再浄化の水を依頼することは少し気が引けたが、言った手前やらぬわけにはいかないので、シルビオは「ベアト」と優しく彼女の背後から声をかける。

「先ほど聖堂長から清い水をいただいてきた。何本くらいならベアトの負担にならないかわからなくて…ひとまず三本くらいならどうだろうか」

シルビオの背後で台車を引くルナーラ王国の聖職者が、シルビオの言った通り三本取り出して渡してきた。

ベアトリスがどこか思い詰めた顔で台車の水を見つめる。

「………たくさん作ったら、シルビオは喜んでくれる?」

ベアトリスの美しい声は、弱々しく、子猫の鳴き声のようだった。

「俺がどうというよりも……たくさん作ってくれるのならそれ以上に国民が喜んでくれるよ。無理はしないでくれ」

「そう……。それじゃあ、5本くださる? あとは、浄化のために温存したいから」

「ありがとう」

追加の2本をシルビオが取り出して渡せば、ベアトリスはおずおずと受け取った。

5つの細いガラス瓶に入った水を持ち、再び祈りの間に向かうベアトリスを、シルビオも追う。

祈りの間には先にルナーラ王国の聖堂長も待っており、再浄化のための準備を整えていた。シルビオは感謝をもって聖堂長に頭を下げた。

ソレイユ王国の聖職者たちとアレハンドロ王及びその従者たちは、すでに明日の準備のために各々の持ち場に戻っている。祈りの間は洗礼式の日と同様に静寂に包まれていた。


「それでは聖女様、これより再浄化の儀式を執り行います」

「はい」


月桂樹の葉の上に並べられたガラス瓶は、青いステンドグラスの光を浴びて煌めく。

ベアトリスは正面から跪いて、ガラス瓶に向かって祈りを捧げるよう膝をついて両手を組んだ。

小さな声で、祝詞をあげる。なんと言っているのかは、シルビオの位置からは聞こえない。

しかし彼女の言葉に呼応するように、全身が薄い水色に光って纏う空気が変わるのを目視した。ガラス瓶もステンドグラスとは違う水色の光に包まれていく。

「………っ」

ベアトリスは少しだけ眉間に皺を寄せた。

光が収束していき、「ありがとうございました、これにて無事完了となります」という聖堂長の言葉がかけられれば、ベアトリスの力が抜けて深いため息がもれた。

「ベアト、ありがとう」

「はぁ……ううん、これが私の仕事だから」

聖女の祈りとは、こんなにも消耗するものなのかと、シルビオはベアトリスの疲労感を見て胸を痛めた。

「この水はもう持っていってもかまわないだろうか」

聖堂長に確認をとり、「はい大丈夫です」と返事を貰えば、シルビオは従者である女騎士を呼びつけて一つはリネッタの元に、残りの4つは大病院に持って行くよう指示した。

「シルビオも今回の遠征についてきてくれるんでしょう?」

指示を終えたシルビオにすかさずベアトリスが問いかける。

「うん。大事な政務だからね」

「ねえ、よかったら仕事が終わった後デートしない? 国境付近だと見るものはないだろうけど、景色が綺麗なところはきっとあると思うから」

浄化の儀式がどのくらい時間がかかるかシルビオには把握できない。ベアトリスの力次第では早くも遅くもなる。

「けれど、ベアトも儀式の後じゃ休んだ方がいいんじゃないか……?」

「そんなの、シルビオとのデートの約束があったらなんてことないわ。私のためにも、時間作ってくれたら嬉しいのだけど……」

控えめに、だけど確実に約束を取り付けようとベアトリスはシルビオを見つめた。頬に赤みがさしている。

彼女のやる気につながるのであればと「わかった」と言ってシルビオは頷いた。

「ただし無理だけはしないように」

「ええ…! 嬉しいわ! それじゃあ準備の続きに取り掛かるわね」

疲れた表情のままではあるが、見るからに笑顔が増えたベアトリスにシルビオは安心した。

祈りの間から出ていった後、片付けをしている聖堂長がベアトリスの出ていった扉を見つめているので、シルビオは不思議に思って声をかける。

「ベアトがどうかしたのだろうか」

「え! あ、いいえ………」

ルナーラ王国の聖堂長、レミーはまんまるのメガネの橋の部分を中指で持って掛け直し、こほんと居直った。

「不安なのです」

「不安…?」

レミーはひょろりと背が高いが少し猫背気味で、不安だと憂いた声色で話そうものならより一層気弱そうに見えた。

「聖女様のお力は、絶対無二のもの。それでいて強大なものです」

「そうだね」

「しかし……殿下もご覧になったように、聖女様は日に日に力を使うことで疲労を増しています」

「やはり、それは異常なことなのか?」

「はい。これまでの記録で、あのように力が弱ったと言う記述はありませんでしたから。聖女様に何か悪いことが起きていなければ良いのですが……」

ベアトリスの普段の振る舞いで身体の不調は見られていないようで、だからこそ不思議であり不安だとレミーは続けた。

「……わかった、俺も注意しておこう」

「助かります」

大きな任務となるためレミーも今回の遠征に参列する。彼の不安がシルビオにも伝わり、嫌な予感を抑えられずにいた。



そして悲しいことに、その予感は的中した。



「どうして、どうして………!? なんで、浄化できないの……!!」



ベアトリスの悲痛な叫びは、汚染水の水面を揺らすだけだった。

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