第30話

きっちり2日後、無事なにごともなかったホセが再び厳重に用意を重ねた女装姿で王宮を訪れて、書類の原本たちをシルビオに渡した。

シルビオ直々に部屋の金庫室にて保管をし、ひとまずの安堵を得たリネッタとホセとシルビオの三人は、シルビオの部屋の前の廊下で思わずハイタッチを交わした。

再び念入りにということで、ホセは手に持っていた大きな荷物から別の女性服を取り出し、その場で外套や帽子だけでなく、髪の色までを取り替えて変装する。

「どうやら尾行者もいなさそうですけど、念入りにね」

ホセはレイズリー社が懇意にしている探偵を使って、密かに調査していたのだが、それらしい影はないと報告を受けたという。今はなくとも、今後いつ尾行者が現れてもおかしくない状況で、慎重になることは間違いではない、という思いは、この場にいる全員に共通していた。



こういった警戒も徒労に終われば良いと思った翌日のこと。リネッタがソレイユ王国に宛てた手紙の返事がきた。

曇った空でいっぱいの窓を背景に、リネッタは自室のソファで手紙をカロリーナから受け取って広げた。


リネッタの三人の弟のうち、次男にあたるリクが聖堂で見習いをしているため、彼に現状を尋ねる内容を3日前に送っていた。万が一聖堂が内容をチェックしても怪しまれないように、世間話を装って書いたものだ。

リクからの返信はこうだった。


『リネッタ姉様


 お手紙ありがとうございます。直接会ったのはもう3年も前になりますね。

 優秀な聖職者になれるよう、僕も姉様に負けないくらい毎日頑張っています。

 ソレイユ王国の聖堂は、数ヶ月前から空気が変わったようにみえます。

 保守的だった聖堂長が積極的に父上に献言するようになりました。

 おかげで聖堂内でも新しい業務が増えたりして忙しさも増しています。

 ルナーラ王国で聖女様が見つかったと聞きましたので、そのおかげなのかもしれません。

 浄化の力を持つ聖女様がいれば我が国の浄水機械の稼働も、もう少し抑えられるのかと考えていましたが、前にも増して稼働率が上がっているように思えます。

 生活水が順調に生み出される一方で、汚染水の排水の問題も出てきている状態です。我が国の汚染水が原因で聖女様の負担が増えないことを祈るばかりですが、僕は不安をかかえております。

 どうか、姉様も注意して聖女様を見守ってください。

 また会える日を楽しみに励みます。お身体にお気を付けて。


 リク』


リクは、少し気は弱いが真面目で兄弟の中でもとびきり賢い。だからこそ聖職者としての素質を持っていると発覚したときに天職だと自負していた。

リネッタからの手紙の内容を読んで、聖堂の内情について気になっているということを察したのだろう、リネッタが欲しかった情報を、リクは記してくれた。


「汚染水……」

文章の中で特筆して不穏な単語をリネッタが呟く。


ベアトリスの持つ浄化の力は、歴代聖女同様特別なものである。聖女の主な仕事は水の浄化であるが、それはルナーラ王国にとどまらない。

それこそ、隣国の汚染水の浄化を、ルナーラ王国へ大金を支払い聖女に頼むことで成り立っている王国同士の上下関係や商売もあるのだ。

ルナーラ国王アレハンドロが日々国政として行なっているのも、現在は聖女を中心とした近隣諸国へのビジネスの取り決めが主である。たびたびシルビオがついていき、聖女の仕事を学んでいる。

彼らが近づくたびに、国民は期待を胸に噂話を広める。


———見守ってと言われても、私がベアトリス様と親しくすることは、もう……


ただの聖女と隣国からやってきた婚約者という立場だけであったら、きっと手を取り合えた。しかし今は婚約者の立場を争う相手。しかも隣国の姫という肩書きは、リネッタのルナーラ王国内での立場を狭めていることも事実。ソレイユ王国に住み聖堂に従事しているリクには、まだこの内容が伝わっていないのだろう。

聖女をもてはやす動きの不審さに腰を上げて調べているのも、側から見れば、婚約者という立場を追われた姫による滑稽な足掻きに見えるのかもしれない。


手紙から目を離して背もたれに頭を乗せると、リネッタは窓の向こうの空をぼーっと眺めながらため息を漏らした。

ベアトリスがやってきてから2ヶ月が経とうとしている。怒涛の2ヶ月をぼんやりと回想して、体が重くなる心地を覚えた。ソファに沈む。


「………? 姫様?」


動かないリネッタを不思議に思ったカロリーナが部屋の花瓶を手入れしている中声をかける。

リネッタの返事はない。

コトンと花瓶を置いてカロリーナが駆け寄ると、リネッタはソファの上で横になっていた。

「姫様…? どうなされ……」

リネッタの顔を覗き込んだカロリーナは、驚いて息を呑んだ後に「ナナ!」と寝具の整理をしていたメイドを慌ただしく呼びかけた。

「はい、なんでしょう」

「急いで医者の手配をして。姫様が高熱なの。あと休憩中の二人にも声をかけて部屋によこすように」

「わっわかりました!」

カロリーナはリネッタを横抱きにし、ナナが整えたばかりのベッドに移動させる。

リネッタの呼吸は荒く、いつの間にか首や頬が赤く火照っていた。意識は朦朧としているようで、カロリーナの呼びかけに瞳が反応するものの、返事はない。

リネッタたちが住む屋敷には従者たちも全員寝泊まりできる場所があるため、この騒ぎに従者たちはすぐ総動員で動くことができた。おかげで慌ただしい様子が外からもわかるほどで、王宮の人間も何事かと様子を窺いに来る。


足音や声を遠くに感じながら、リネッタはふわふわと意識を漂わせていた。

なんで寝てるんだろう。今日の予定はなんだったかしら。ホセのことは安心していいのよね。ベアトリス様の仕事のこと何も知らない。ソレイユ王国の聖堂は何を考えているのだろう。私にできることは。どうしてこんなことになったんだろう。ラルは元気になったのかな。私が国に帰ればいいのかな。国民が安心できる方法ってないのだろうか。もうベアトリス様とは仲良くなれないのかな。シルビオと離れたくない。

浮かんでは消える思考は、解決することなく溢れるばかり。

眠っているはずなのに、ずっと考えを止められず、リネッタはうなされた。カロリーナを筆頭にメイドたちも心配で見守る。


四半刻ほどで医者が訪れ、リネッタの容体を診る。その頃には王宮のメイドも何か手伝えないかとリネッタの住まう屋敷に押し寄せていた。

政務から戻ったシルビオが、リネッタの屋敷に集まる自分の従者たちを見つけて駆け寄ってくる。

「何事だ」

「殿下! お戻りになったのですね」

王宮メイド長である中年の女性が、ことの詳細をシルビオに伝える。

「!! それで、リネッタは大丈夫なのか?」

「今お医者様が診ておられます。万が一があってはいけませんので、殿下は屋敷に入らぬように」

「………」

もしも感染症だった場合、シルビオに感染ることを徹底的に避けねばならない。そのことはシルビオも重々承知しているが、入らぬようにと制されたメイド長の手に一線を引かれた寂しさと疎外感を覚えた。

メイド長たちの背後に続くリネッタの住まう屋敷の内装を目で追ってしまう。

「……リネッタの容体が安定したらすぐ知らせてほしい。それと、俺の部屋よりもこっちに人員を割くようにしてくれ」

「わかりました。早くリネッタ様がお元気になられるように我々も尽くさせていただきます」

名残惜しそうに屋敷を見上げたシルビオは、しばらくリネッタの部屋の窓を見つめた後に踵を返した。

シルビオの了承を得たメイド長は、屋敷に入って医者の話を聞きに部屋に向かった。



「疲労に加えて、誰かから風邪をもらったようですね。簡易な血液検査を行いましたが、感染症の恐れはなさそうです」

医者の答えにカロリーナたちはひとまずの安堵を得る。

「しかし風邪を侮ってはいけません。絶対安静の元逐一様子を見るようにしてください。何か変化があった際にはすぐに連絡を」

「はい」

「綺麗な水を与えて、三日間は過度な栄養を与えないようにしてください。それと、皆様も衛生面はお気を付けくださいね」

細かな道具をあっという間に片付け、医者は深くお辞儀をすると屋敷を去った。

うなされていたリネッタも、鎮静剤を打ってもらったおかげか、今は深い眠りについている。依然顔は赤いままであるが、呼吸に乱れはないようだった。

「綺麗な水……」

カロリーナがポツリと呟く。

リネッタの様子をナナに見守るよう言いつけると、部屋を出て屋敷の手伝いをしているシルビオ付きのメイド長の元へ向かった。



リネッタの屋敷を離れた後、シルビオは未だ療養中のラルの元に向かっていた。

騎士たちの診療所から王宮の客間に移動して世話をされていたラルは、シルビオたちに保護された時より動きも機敏になり、顔色が良くなっていた。

客間に入ると、シルビオとわかるや否やラルは突進するように抱きついた。

「こら! 殿下を危ない目にあわせないでください!」

ラルの世話をしている看護師が目を釣り上げてラルの首根っこを掴んだ。

「いやいいんだ。元気そうで何よりだ」

「うん、元気! 今日はお姫様は?」

ラルの言うお姫様とはリネッタのことである。

「今日は……具合を悪くして寝込んでしまっているんだ」

シルビオが不安に顔を曇らせながら告げると、看護師も「まあ」と心配そうに声を漏らし、ラルの顔からも笑顔が消えた。

「それ……ぼくのせいかも」

「え? どうしてラルのせいになるんだ?」

ラルはすっかり肩を落として続けた。

「ぼく、ずっと体が悪かったから。お姫様にうつっちゃったのかもしれない」

ラルの言葉を補足するように看護師が言う。

「運ばれていた時、どうやら軽い風邪をひいていたようで…。もちろん感染症ではないことがわかっていたのですが、治りかけだったのもあって気付くのが遅れてしまいました」

看護師も、ラルの言うように原因がラルにあると考えたのかもしれない。自分の監督不行届を反省して声のトーンを落としている。

シルビオは納得し、ラルの方に近寄った。ラルは自分のせいだと思っているためか、また風邪をうつさないようにというポーズで後退りをしてしまう。

そんなラルの手をシルビオがとって、優しく手を繋いだ。

「ラルが治ったのなら、リネッタもすぐに元気になるということだね」

「………そうかな?」

「そうだ。それにリネッタはいつも元気で栄養いっぱいのご飯を食べているから、ラルよりも早く元気になるだろう」

「そしたらぼく、お姫様にあやまりたい」

「それよりも元気になってよかったと一緒に伝えに行こう。ラルのせいとも限らないんだからね」

シルビオの言葉にラルが遠慮がちに頷く。いい子だとラルの頭を撫でれば、シルビオは看護師にラルの健康状態を聞いて客間を後にした。


部屋を出るとリネッタの騎士であるマテオがシルビオを待っていたようで、シルビオと目が合うと頭を下げた。

「リネッタは」

「姫様に感染症の様子はひとまずなく、疲労と風邪の併発のようでした」

「そうか……」

風邪の原因はラルかもしれないが、ここまで拗らせる原因となったのは日々の疲労であることを理解し、シルビオは情けなさでため息を漏らし、眉間に皺を寄せた。

「リネッタに無理をさせたのは俺だ」

俯いて、深い青の前髪がシルビオの目元にかかる。

「姫様にそう言ったら、弁解するために頑張っちゃうので言わないでくださいね」

「……そうだね……」

マテオの言葉で、リネッタの返答が容易に想像できたシルビオは思わず苦笑した。

「熱まで出した姫様の頑張りを褒めてやってください」

「主君相手にそんな言い方をしていいのか?」

「俺やカロリーナにとっては、可愛い妹みたいなもんですから」

シルビオの行く先をついていくようにしてマテオも歩き、淡々と会話が続けられる。

「可愛い妹分のことは何が何でも応援したいんです」

マテオは暗にシルビオにプレッシャーをかけるように、どこか含みを持たせて言った。シルビオもそれを不敬だと言い捨てる人間ではない。マテオの胸の内を言葉の端から察しながら、迂闊なことを言えないまま言葉を受け止めるだけだ。

「贔屓をしろとは言いません。ですが、姫様と聖女様のどちらが今後国のために動くか、それを改めて殿下を中心に国民の皆さんが理解してくれればと俺は思っちまうんですよ。そのやり方はわかりませんけど」

「……聖女としての役割を果たしているベアトと、国民に秘密裏に事件の真相を探るリネッタとでは、あまりにも差がありすぎる。でも俺はわかっているよ。だからこそリネッタに協力したいんだ」

あの日、リネッタとの婚約を取り止めろと主張する集団の前で頭を下げたリネッタの姿を思い返していた。

まだ誰も、リネッタそのものを知らない。知る術がないのだから仕方ない。あの瞬間一つで世論が大きく動くことがないことは、シルビオもマテオも理解している。

だからこそもどかしい。苦労して寝込んでしまったリネッタを無条件で心配する国民は誰もいないのだから。

シルビオが持つ歯痒さを、シルビオの表情から察したマテオは、少しだけ表情を柔らかくした。

「はい。俺もね、姫様と一緒にこっちの国に来てから貴方の人となりを見てきたつもりです。でも兄心からというか、念の為、余計なおせっかいが働いてしまいました。申し訳ありません」

無礼を詫びて頭を下げると、シルビオが「いや、いいんだ」と簡素に謝罪を受け流した。

「彼女が回復するまで専念してほしい。俺もそれまで自分のできることを進めていくよ」

ソレイユ王国の聖堂の思惑はまだまだわからないことだらけである。普段の政務もこなしつつ、シルビオは時間の合間を縫って調査を続けていた。今日のようにラルに会いにきて親交を深めているのも、事件の関連を確かめるための一手段だった。



リネッタが寝込んでから二日経った日、突如ルナーラ王国に訪問者が現れた。

彼らは神聖な白いローブをまとい、しかし簡素なその衣装に似つかわしくない黄金の装飾品を首や手に付けて、アレハンドロ王への謁見を申し出た。


「お初にお目にかかります。我々はソレイユ王国の聖堂に従事している者です。本日は、聖女様へ浄化の申し込みをしにこちらへ伺わせていただきました」


リネッタの意識はまだ朦朧としていた。

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