第29話

文書複製のためにホセは早速家に帰ることとなった。来た時も慎重だったホセは、薄いコートを羽織り、目を隠すように深く帽子を被って、さらにはストールで口元を覆って、わざとらしいくらいに容姿を隠した姿に変身する。

しかしシルビオが「念には念を」と言って、ホセに女装することを提案した。


「なんで女装?」

嫌だ、という意思を隠すことなく、帽子を少し持ち上げると苦々しく目を細めたホセと視線が合った。

「女性ものの外套を羽織って欲しいだけだ。しっかり女装をする必要はないよ」

シルビオの言い分はこうである。

「警戒するのであれば、既に尾行をつけられていると考えた方が良い。ホセは今日レイズリー社から来ただろう?」

「はい」

「ならこのまま同じ格好の人間が王宮からレイズリー社に帰ったとなると、逆に怪しく見えないだろうか」

尾行をしている人間が恐喝犯だとした場合、ホセが密告したのではと真っ先に疑われてしまうだろう。ホセでないにしても、何かしらの報告をされた、と考えられれば、半信半疑だとしても恐喝犯は証拠隠滅のために行動に移す可能性はある。

「だから来た時とは別の格好で、一度別の場所に帰るんだ。格好は女装で……どこかレイズリー社や実家の他に唐突に訪問しても許される場所はあるか?」

シルビオの問いに、少し逡巡したホセは、間を置いた後に「彼女の家なら…」と呟いた。

「こ、恋人がいらっしゃるのですか?」

まさかの色恋の香りに思わずリネッタが恋の話に花咲かせる時の乙女の顔つきになって尋ねる。

「なんですか、いちゃおかしいですか?」

「い、いえ……でもてっきり仕事一筋でそういうのに時間を割く余裕がないのかと思ってしまって…」

「ボクにだって色々あるんですよ。色々」

ホセは大きなため息を吐いた。


「恋人を巻き込みたくないだろう」

「……」

ホセが言い淀んだ理由はそこにあった。シルビオは真剣な顔つきでホセを見つめた後に、続けた。

「そこ以外に行く宛がないのであれば、使用人の実家などをあたってみよう。王都内に居を構える者は少ないが……」

部屋の外にいる使いのものに言伝を頼もうとして扉に向かうシルビオに、ホセが「いいえ、構いません」と声を張った。

「でも、ホセ、恋人の家が万が一バレてしまうことになる可能性があるでしょう。私も反対です」

「いえリネッタ様、その時はボクが引越し代を出して良きところに住まわせますから」

「そんなことをしなくても…」

「王宮関係者の実家にご迷惑かけるわけにもいきませんし、ボクが向かうなら恋人の家の方が確実です。それに、彼女の家は奥まった変なところにあるので、追っ手がもしいたら撒けるかもしれませんし」

とはいえ、シルビオの提案に乗った方が確実に安全なのではないかとリネッタは考え、これに乗れないのであれば他に良い案はないのかと思い悩む。


「そもそも、ボクたちがこの文書とコインを受け取らずに中立を貫いていれば、こんな面倒なことも考える必要はなかったんです。苦労するのはボクだけで十分ですよ」

しゅるりとストールもほどき、帽子を脱いで鞄にしまった。

「女装用の衣服を貸していただけますか?」

とリネッタに言って、手を差し出した。


「いや、リネッタの服だと身分不相応で不自然だ」

「あっ、そう〜ですねえ……」

意気込んだわりにキッパリと言われたので、思わず緊張の糸が解けてしまうホセ。シルビオはやはり扉の方に向かい、外にいる誰かに声をかけた。彼に声をかけられて入室したのは、リネッタの筆頭侍女カロリーナであった。

「すまない、彼の変装用に女性物の外套を貸して欲しい。できれば平民らしいと良いのだが、あてはあるだろうか」

シルビオの要望に少し考え込んだカロリーナが、「あ」と声を漏らして何かに閃いた。

「すぐに戻ります。ここでお待ちください」


と、頭を下げて部屋を出てからほんの10分ほど、カロリーナは手に厳重に包み隠した衣装を持ち、リネッタのもつ三人の部屋付き侍女のうちの一人キャサリンを伴って戻ってきた。

「彼女の荷物置きに半年以上眠っていた外套がちょうどありました」

「あっカロリーナ様、それはご内密に…!」

キャサリンはくるくるとした金色の髪の毛を両手できゅっと掴んで、顔を髪で覆うように照れ隠しをした。

「それ、カビとか大丈夫なんですか?」

とホセは再び苦々しい表情を向けた。キャサリンは声にならないような声を押しつぶして呻いた。

「一応確認したところ大丈夫でした。簡易ですが手入れもしておきましたので、どうぞ羽織ってみてください」

有無を言わせないように羽織る手伝いの姿勢になったカロリーナは笑顔でホセに近づいた。

渋々袖を通し、動きを少し確認するように肩周りを動かす。

「オ、オーバーサイズなので男性の肩幅も隠れていいんじゃないかなって、思います」

キャサリンが小さい声で弁明するように言う。その言葉を受けてシルビオとリネッタも確認しつつ、問題なさそうだと頷きあった。


「念の為、他の侍女たちと一緒に王宮を出させましょうか」

カロリーナが提案をする。

「そうだわ、ちょうどナナたちも買い出しがあると言っていなかった?」

「はい。それに同行させられれば油断させられるかと」

「それでいこう。ホセ、問題ないな?」

ホセが頷き、万が一の目眩し作戦はこれにて決定した。



「遠目だと違和感なく見えますわ」

「よかった。ホセの女装が杞憂で終わることが何よりだけどね」

「はい……」

学園での後輩でもあり、今では戦友のような思いを抱くホセに、リネッタもひたすらに無事を祈ることしかできない。不安な思いはあれど、ここまで厳重にしたのであればきっと大丈夫だろうと、ひとまずの安心をする。

廊下の最奥にある窓から見える景色の中にホセたちの姿がなくなると、ようやくリネッタとシルビオはその場を後にした。

そろそろ夕飯の時間だが、本来夜に訪問する予定だったホセが早めにやってきたので時間にゆとりがある。

リネッタとシルビオは二人で肩を並べて王宮内を歩き、ゆっくりと食堂へ向かった。


「女装、改めて良いアイディアですわ」

「ああ、実は昔、俺が実際にやったんだ。だから効果的かと思って」

「えっ。え!?」

リネッタの歩みが思わず止まる。外気に触れる渡り廊下の真ん中で、夕風が頬を撫でる。


「ベアトの案で、二人で王宮の外で遊ぶためにね」

シルビオが振り返って言った。

幼い頃の記憶を掘り起こして、当時のスリルや高揚感が思い出されたのかキラキラした瞳をしている。

シルビオの美しい思い出を、リネッタはシルビオを通して見ている感覚になる。けれどもその思い出にシンクロして共有することができるのは自分ではないのだと改めて思い知る。

チクリと胸が傷む心地がしたが、シルビオは素直に出来事をリネッタに伝えているだけだ。彼の思い出を汚さないように、自分の感情は隠して、リネッタは話を聞き続ける。むしろ彼は今、自分の中にある大切な思い出をお裾分けしてくれているのだと考え直せば、どこか嬉しさが湧き上がるような気がした。


「ちょうど、アメリアやマリーを筆頭に、同い年の子供が王宮に来ることも多くあったから、子供の多い日に女の子の格好をして街へ出ようって」

「ベアトリス様が提案したのね」

「うん。当時あまり外に出る頻度が少なかった俺を気遣ってくれたんだ。まあいなくなったこと自体がすぐにバレてたくさん怒られたんだけど」

「アレハンドロ王に?」

「ううん、母上に。父上はむしろ笑ってくれたよ」

リネッタは時折見せるアレハンドロの豪快な笑いを思い出して、イメージを膨らませた。いつかシルビオもアレハンドロのように大きく笑うのだろうか、とふと見上げれば、懐かしそうに、愛おしく遠くの景色を見るシルビオの横顔があった。


「…そういった環境から連れ出してくれたベアトリス様のこと、同じ状況なら私でも大好きになってしまうと思うわ」


自然と言葉が漏れ出た。

シルビオがようやく、ベアトリスの話題がリネッタにどんな気持ちを及ぼすのか理解し、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「申し訳ない、不躾に……」

「あ、えっと、ほんとに! 本当にそう思っていて」

リネッタが慌てて笑顔を向けて、弁明する。

「だってシルビオが昔ベアトリス様のことを好きだったのは事実だし、変えられないことだし、むしろその思い出はシルビオの大切なものだから、私に語ってくれて本当に嬉しいの」

「リネッタ…」

浅はかな話題の振り方を情けなく思うシルビオは、リネッタの言葉に少しだけ緊張を緩めた。

「どうせなら、当時のシルビオの恋心が具体的にどんなものだったのかしら、ってことを知れたら、大きなヒントになるかもしれないし聞きたいわ」

なんて、茶化して言ってみたりもする。言った後で、これはあざとさと下心が見え見えなのでは? と後悔しかけるが、一方でシルビオはリネッタの言葉に深く考え込んでしまっていた。

予想外の反応に、自分の言葉が話の流れとして不正解かどうかもわからず、冷や汗が流れる。


「……ベアトと離れて、王太子としての生活をしているうちに」

手繰り寄せるように、ゆっくりと自分の感覚を引き出すシルビオ。

「あの頃、強烈な憧れと恋心のようなものを抱いていた感覚があった、という事実は覚えていても、その時の心の動きはもう忘れてしまったんだ」

言葉にして、自分でも感覚の喪失に寂寥感を覚えたようで、切なげに視線を落とした。

「手を繋いで緊張したという思い出はあっても、実感はないから、具体的な感覚はもう思い出せない」

そこまで言って、シルビオは自身の右手を確かめるように握りしめた。

その手を見つめ、リネッタが「…あの」と、遠慮がちに声をかける。


「一回、私とも手を繋いでみない?」


ちょっとした嫉妬心もあったのだろうか。リネッタはシルビオの握った拳を両手で包み込むようにして触れる。

唐突な提案に少し動揺したシルビオが力を緩めて右手のてのひらを空気に晒すと、リネッタの指が滑り込んだ。

手を繋ぐ、というよりは、看病するときに病人の手を握るような、そんな形になるが、リネッタにとっては初めての触れ合いで、直接伝わる体温に胸が高鳴る。


心が動揺したとき、自分の両手をぎゅっと握る癖があるリネッタは、その時の感覚と今触れているシルビオの手の感触の差を如実に理解してドキドキと鼓動が速くなる心地を覚えた。

「ほ、ほら、こうして触れ合ってみて、その時の感覚が蘇っちゃったりし、て………」

そうであればいいのに、と思いつつも、その願い以上に、現状の触れ合いが思ったよりも自分の平静をかき乱していて、リネッタの顔はみるみる赤くなっていった。

思わず、シルビオはだんだんと赤くなるリネッタに見入った。

どうしようもなくなって顔を上げたリネッタと、シルビオの視線がかち合うと、沸騰寸前だったリネッタは手から熱と鼓動が伝わってしまうことを恐れてパッと両手を離した。


「あ、はは、ごめんなさい! シルビオのこと動揺させたかったのに、私の方がなんというか………ごめんなさい!!!」

「あっ……」


リネッタはドレスを持って、はしたないと理解しつつもシルビオの横を走り抜け、つきあたりの角を曲がった。顔の火照りを抑えたくて両手を顔に近づけようとするが、先ほど直接触れ合っていたのだという事実を意識して頬に触れ合わすことをやめた。



まるで突風が吹き抜けたかのような顛末の後、シルビオは渡り廊下の真ん中で動けずにいた。

直前の顔を赤くしたリネッタの反応が、シルビオの脳内をリフレインする。


「……………」


頬の紅潮は、夕日のせいなのだろうか。

シルビオは首の後ろから耳にかけて熱を持っているような感覚になり、それを冷ますために手で仰いでしまった。

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