第22話
王立学園の校舎は、屋上のある箱形の建物の他に、講堂や室内運動場の施設がある。どれも天井高く作られているので、生徒たちのはしゃぐ声が響くのが常だった。
箱形の建物も内部は一番下から最上階まで吹き抜けになっているので、誰もいない今は空気感が変わっているように感じられる。
二人きりの足音がコツンコツンと軽やかに反響する。
「まさか、シルビオから誘ってくれるなんて思っていなかったから…」
デートの誘いに未だ期待感と高揚感の拭えないリネッタは、それを隠すことなくシルビオに眼差しを向ける。
少しだけ照れくさそうにしてシルビオは言葉を紡いだ。
「夕食会、あまり一緒にいられなかっただろう? 片方に入れ込むのはフェアじゃないから。それに、学園の構造そのものにも興味があったからついでに観察しようかと思って」
「構造に? またどうしてですか?」
「実は、新しく学校を王都に作ろうという話があるんだ」
王・アレハンドロと共に進めている未来のための計画がいくつかあり、そのうちの一つが学校建設だった。
「通うのは貴族や金持ちの商家の子供だけじゃなくて、学びたい意欲のある民衆を対象とした公的な機関として活用できたらと考えているんだ」
「素敵ですわ…! 民衆の中でくすぶっている若者たちがのびのびと力を伸ばせる場所ができれば、きっと街ももっと発展いたしますわ」
「リネッタならそう言ってくれると思った」
シルビオはどこか安堵したように柔らかく笑った。
「それで校舎を参考にとのことでしたけれど、正直王立学園には権力誇示のための意図も含まれていますから余計な装飾も多いんですのよね。最低限必要な教室や設備をピックアップして、それの他に改めて庶民の皆様が好んでいる場所や行動からヒントを得たりして運動場の建設を考えたりした方が…」
「リネッタ、ちょっと待って」
シルビオの話を聞いて想像を膨らませながら歩みを進めるリネッタの腕を、シルビオが捕まえる。
突然の接触に「ひょ」と悲鳴になりかけた声を上げ、リネッタの動きが止まった。
「考えてくれるのは嬉しいが、メインはリネッタとの散策なんだから」
「あ、そ、そう……ですのね………あ、あはは」
リネッタと護衛騎士のマテオが図書館でベアトリスとのやりとりを見ていたことをシルビオは知らない。
シルビオがリネッタにどんな思いを抱いているのか、リネッタは言葉として耳にしてしまったので、少しの優しさに愛を感じて必要以上に胸が高鳴るのを感じていた。
一方リネッタは、この間シルビオに直接思いを告げたばかり。ならば、別にこのときめきを隠す必要はないんじゃないか、と考える。
———でも、ここで甘えすぎるのもなんだか違う気がする……第一、恋人同士ではないのだし。
本当は、手を繋いで歩きたいと言ってみたい。けれど、その言葉でせっかく近づいてくれたシルビオの想いが離れてしまうんじゃないかと考えてしまい、言い出せずにリネッタは両手を腹部の前で組んで、力を込め、そこに自分の言葉を押し込めるような気持ちで考えを落ち着かせた。
「それじゃあ、私たちの教室から見てまわりましょう!」
ぱっと華やいだ笑顔で、リネッタは提案し、踊るようなステップでかつて自分たちが通っていた教室に向かった。
「鍵は俺が持っているんだから、あまり先行しすぎないで」
笑い混じりでシルビオが言い、彼もそんなリネッタを追いかけるように駆け足になった。
「あ、この壁の絵ってまだ残ったままなのね」
「こんなところに絵? ………ああ、なるほど、悪い子がいたものだ」
運動場の裏手は裏門があり、その前の広場はティースペースとしても活用され、憩いの場になっていた。一通り見て回った二人は、よくここでお茶をしたものだという思い出に沿って裏門までやってきた。
そんな憩いの場から見える運動場の石壁には、引っ掻き傷で可愛らしい花の絵がいくつか落書きがされている。
「えへへ……当時1年生だったマリーが他のお友達と描いてるのが気になって……つい私も描き加えてしまいましたの」
「どれがリネッタの?」
「確かこれですわ」
リネッタが生まれたソレイユ王国の国花であるヒマワリを描いたものの、花びらの数と円がうまく噛み合わなくて少々歪である。
「じゃあ俺も共犯になろうかな」
と言って、シルビオはその場にしゃがみ込み、適当な石を手に取るとヒマワリの横に何かを描き始めた。
「もしかしてツキミソウ?」
「そう。ルナーラの国花。よくわかったね」
「シルビオって絵が上手いんですもの」
隣り合う自分たちの国の花を見て、これが将来の象徴的なものになればいいのにとリネッタは密かに思う。
すると、背後からガサッと草を踏み分ける音が聞こえた。
二人は同じ方向を振り返る。裏門の扉が半開きになっており、その前には衣服の汚れた少年が立っていた。
門には鍵がかかっていたはず、と目をやると、どうやら壊れていたようで、錠が地面に落ちていた。
「こんなところにどうしましたの…?」
リネッタが立ち上がって少年の元へ近寄ると、少年の衣服の汚れの正体に気づき足が止まった。
血だ。
そして少年の右手には、光る凶器がある。
一定の距離を取るようにして、リネッタは少年から少し離れた。シルビオも異変を感じて急いでリネッタの隣に立った。
「……さっき」
少年が枯れた声を絞り出すようにして言う。
「ぼくは頼んだのに、全然話を聞いてくれなくて」
顔を上げた少年の瞳は失望で黒く塗りつぶされている。
「この国の人は嘘つきだ!!!」
振りかぶった少年の右手に、シルビオは持っていた石を投げつけて、鋭い凶器は少年の手から離れて地面に落ちた。
意識が移った少年の体を、下手に身動きができないようにシルビオは抱き止める。栄養も行き届いていない細い体を止めるのは容易なことで、少年はすぐに抵抗する力を失った。
「何があったんですか」
リネッタが少年の視線に合わせてしゃがみ、話を促した。
声もなくぱくぱくと何か言いたげに口を動かしていたが、次第に少年は瞳に涙を浮かべて、唇を噛み締めた。
「誰も話を聞いてくれない。ぼくはただ水が欲しかっただけなのに」
「……この血は、あなたのものですか? それとも誰かを傷つけた時についたものですか?」
「うっ、うう、ごめんなさい、ごめんなさい。汚くてごめんなさい」
「……」
少年は、しゃくりあげて涙を流すだけ。体に力が入らないのか、表情以外は脱力してシルビオに預け切っていた。
シルビオはそんな少年を横に抱き上げる。
「ネルソンの元に向かおう。この子を保護しないと」
「詳しい話はそれからですね」
散策は強制的に中止となった。けれどそんなことよりも少年の存在が気がかりで、リネッタも早く王宮に戻らねばと歩き出した。
少年を抱えて門に向かうと、ネルソンが慌てて駆け寄り、少年を引き取った。事情を聞かれても、状況説明しかできず少年の正体も目的もわからない。
『僕はただ水が欲しかっただけなのに』
この言葉が妙にリネッタの脳裏に焼きついた。
少年は臨時的に王宮にある騎士団専用の診療所にて引き取られた。
シルビオとリネッタが様子を窺いに行くも、過度な栄養失調のせいでその晩目覚めることはなかった。
「彼自体に怪我がなかったのは良かったですけれど、あの血は一体……」
「さっきネルソンが学園に凶器の回収に向かった。もし切りつけられた人がいたら証拠になるからね」
「……」
もしもそんな相手がいたとしたら、あの少年は犯罪者になってしまう。そう思うとリネッタの表情は暗くなった。
「裏門の鍵が壊れていたのも直させておかないと……ひとまず報告書を作ってくるから、リネッタはもう休んでくれ」
「……シルビオ、ありがとう。あなたに助けられたわ」
もしも自分一人だったら、怪我をせずに少年を助けられたか自信がなかった。
落ち込むリネッタの頭を、シルビオがそっと撫でた。
「リネッタが無事で良かった」
真剣な眼差しで言われ、その瞬間初めてリネッタの体が震えた。凶器の鈍い光がフラッシュバックし、動悸が襲った。
「リネッタ…!?」
「大丈夫、大丈夫です。安心して力が抜けちゃったみたいで」
リネッタがシルビオの手を両手で握り、「少しだけこうさせてください」と祈るようにして深呼吸をした。
「………これで、本当に大丈夫。シルビオ、あなたも無理しないでください」
「何かあったらすぐに使用人や騎士に報告してくれ。俺も駆けつけるから」
シルビオの言葉が、なによりもリネッタを安心させる。
もう一度「ありがとうございます」と笑顔を向ければ、二人は診療所の前で別れた。
「結果的に怪我はなかったんだからそんなに気に病むな」
リネッタが寝静まった夜、騎士たちの寝室でマテオがネルソンを励ますようにして背中を叩いた。
「それにあの状況で責められるべきは王立学園のセキュリティ審査を怠った学校側だ。お前に処分が下ることはない」
マテオの言葉を聞いても、ネルソンの眉間の皺は取れないでいた。
まあ今は何を言っても自戒をやめないだろう、ということを理解しているマテオは、それ以上のことは言わず、話をずらした。
「あの少年、多分戦争孤児だ。顔立ちがコモロ国の人間に似ていた」
「………やはり、それで治安が悪化しているんだろうな」
「ああ。早めに制度や施設が整うといいけどなあ……」
マテオの言葉には憐憫があった。ネルソンもそれに頷き、しばらく考えた後立ち上がった。
「おいどこ行くんだ?」
「訓練だ。頭を冷やしてくる」
ネルソンが部屋を出ると、入れ違いでマテオの部下が入ってくる。出て行くネルソンを不思議がって「団長、また喧嘩したんですか?」と言ってくるものだから、マテオは苦笑して「そんなしょっちゅう喧嘩しないよ」と言うしかなかった。
「それにしても、あんな小さい子が刃物振り回すなんて悲しいこともありますよね」
「ああ、ちょうどそんな話をネルソンとしてた」
「……なんだか、変な事件の発端にならなきゃいいですけど……」
「おいおい怖いことを言うな」
そんなマテオの部下の予感が、最悪なことに的中した。
次の日リネッタがすっかり習慣になった新聞チェックを行なっていると、レイズリー社とは別の新聞社の一面記事に目を見開いた。
「ベアトリス様が襲撃に遭われた、ですって……!?」
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