第9話
シルビオが決断するにあたって、ソレイユ王国からの提案書とそれについての見解をアレハンドロ王が語り、その後自ら書庫に赴いてもう一度歴史書を読み返した。
国民の士気や感情を優先するのであれば、聖女との婚姻はメリットになる。しかしそれはかつて戦争で荒れていた時代の話。比較的穏やかになった今ではルナーラ王国に戦火が広がることはない。
対岸のコモロ国のある大陸では未だ内紛と隣国との衝突が続き、その被害を受けた国民が流れ着いてルナーラ王国およびその周辺国の移民問題となっているのが現状である。今優先すべきは本当に国内の機運なのか、それともこうした時代だからこそ、かつてのように象徴として結婚を進めるべきなのか。
そう考えたが、一方でソレイユ王国との強い結びつきも無視できないものであった。
元々は聖女不在による不安定な情勢を立て直すために協力を要請した結果生まれた条約だが、安寧と現状維持を強く望む周辺諸国にとってもルナーラ・ソレイユ間の条約は希望と言えた。ソレイユの姫リネッタとの結婚が実現すれば、新たな時代の指針としてこちらもまた象徴的となり得る。しかしそうなると、今度は国民の期待を裏切ってしまう形になりかねない。新聞での一報がこんなにも厄介な事態を招くとは、シルビオは考えもしなかった。
つい書斎のデスクでシルビオは前髪をくしゃりと掴み、肘をついて脱力した。
「荷が重い……」
議案をまとめることは比較的得意だと自負していた。学園での委員長としての手腕は実際評価され、卒業してすぐに父王の補佐として法の改正に意見した時もシルビオの主張は色濃く反映された。
しかし今回のことは客観的なリスクや恩恵を列挙して決めるだけでは正しい答えになると思えず、考えがまとまる気配がない。
けれどこれが国を背負う者の責任なのかと、身に染みていく心地がする。
期限は一年。
長いようで時間のない期限設定に、とにかく焦りを覚える。
しかし今この瞬間決断するには早計であることも理解していた。
空が白んで鳥の鳴き声が聞こえ始めると、シルビオは体をぐっと伸ばして再び脱力した。
今日は久々に何もない日だということを思い出し、いっそのことゆっくり眠ろうとようやくベッドに潜ったのだった。
***
侍女の仕事着に着替える部屋には例のレイズリー社の新聞が広げられていた。
メイドたちは完全に衣服を整えることなく、少しだけ乱れた姿で新聞を覗き込んでいる。
まだ黒髪をまとめずに広げたままのナナが「恐れていたことになっちゃった…」と悲しげに呟いた。
「ネルソンさんが言ってたこと、今日にも姫様に伝えないと、また変なところでショック受けてしまうわよね」
赤髪ショートカットのメイド・ロエナがごくりと生唾を飲んで言う。
「うっうう、どうして姫様にこんな試練が降りかかるの〜」
目を潤ませ眉尻を下げて言うのは、金髪の癖っ毛が特徴のメイド・キャサリンだった。
三人で頭を悩ませながら会話をしていると、扉の方で「おほん」とわざとらしい咳払いが聞こえた。
「あなたたち、もうすぐ始業時間なんですが」
呆れて仁王立ちしているのは筆頭侍女のカロリーナである。三人は驚いて声を失った後、そそくさと着替えを進めた。
「これ、昨日の新聞ですよね。今日はどこの新聞社も同じことばっかりで酷いですよ」
カロリーナが広げられた新聞を丸めながら言うと、ナナたちは「そうなんですか?」と声を上げる。カロリーナがこの手の話題を振ってきたことが意外であった。
「報道っていうのはどこもかしこも新聞を売るために便乗しますからね」
嫌なものを見たかのように眉間に皺を寄せたロエナが言う。「そうね」と相槌を打った後に、カロリーナが続けた。
「王の使いからさっき連絡がありまして、姫様と聖女様にお伝えすることがあるから、西棟の客室まで連れて来い、と」
「ええ〜〜それって、絶対ネルソンさんがおっしゃってたことじゃないですかぁ!」
キャサリンの高い声が部屋に反響する。
「明日はロマリア嬢の結婚式も控えています。ショックで寝込むことがないようにサポートしますよ」
カロリーナの言葉に、すっかりメイド服に身を包んだ三人が強く首肯した。
リネッタが体を起こし、すぐさま意識を目覚めさせると、そこから準備は早かった。
異例の招集の件を伝えれば、約束の時間よりもずっと早くリネッタの姿が整う。
「西棟の客室って、アレハンドロ王がおもてなしに使われる部屋よね。私の他にも誰か呼ばれているの?」
「はい、聖女様も同じ時刻に召集されております」
「ベアトリス様が……」
リネッタがドキリと緊張し、動きを止める。カロリーナも表情には出さなかったが、リネッタがこれから伝えられる内容のことを思うと居た堪れない気持ちになっていた。
そして定刻になり、部屋で王と対面するようにリネッタとベアトリスが席につけば、単刀直入に要件は伝えられた。
「一年後、シルビオの伴侶として二人のどちらかが選ばれることになる。選ぶのはシルビオ本人だ」
リネッタの今まで感じていた嫌な予感はきっとこのことだったのだと、王の言葉を聞いて確信した。
ベアトリスが「婚約者はリネッタ様で確定していたんじゃないんですか!?」と声をあげる。リネッタにはその言葉が深く突き刺さった。
アレハンドロを恐々としながら見ると、リネッタと視線が合った。アレハンドロは申し訳なさそうに眉を顰めてリネッタを見ていた。
「ベアトリス様、我が国にはかつて聖女と王族が結ばれ、泰平を築いた歴史があるのだ。貴女が聖女として就任した今、国民は再びその時代が来るのではないかと、その象徴である聖女と王子の結婚を期待している。ここまで大きな騒ぎとなっては、無視できぬほどに」
ベアトリスに言い聞かせるように伝えているが、リネッタへの言い訳でもあると気づく。
そしてリネッタは弟ディノとの話や、祭りの時の国民の言葉を反芻し、再び現状を深く理解した。
「………」
ベアトリスは言葉を紡げずにいる。リネッタは彼女の顔を見ることができない。もはやこの部屋から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「聖女と結婚することも、ソレイユ王国の姫と結婚することも、我が国にとっては大きな意味を持つ。正直私にもどちらの方が良いという決定を下すことができないのだ。それにこれからの世を決定するのは私ではなく、シルビオである。それに……」
リネッタは俯かせた顔を少し上げた。
「結婚においては、息子の感情に任せることにした」
———感情……
それは、つまり
「シルビオが愛した方を選ぶということですか?」
リネッタが答える前に、ベアトリスの透き通った声がはっきりと耳に届いた。
彼女の声には希望を感じる。
そこでようやく初めてリネッタはベアトリスの顔を見る。
湧き立つ感情を抑えつつも、その瞳は期待に満ち溢れているようだった。
「……シルビオが何を以て愛すると判断するかは私にもわからない。けれど私はシルビオに、後悔しない決定を下すことを念押ししている」
アレハンドロの言葉は、暗にベアトリスの問いを肯定していた。
(ということは、シルビオに好きになってもらう作戦が公式になったっていうこと…!?)
五年前、シルビオがリネッタを好きになることはないかもしれないと告げてきた日にリネッタが決意した作戦は、アレハンドロによってゴールが設定されたということになる。
(そうよ、婚約が無効になったわけではない。むしろまだまだ望みはある…! でも……)
隣にいるベアトリスの表情には、リネッタも心当たりがあった。
それは、幼い頃ベアトリスとシルビオがした結婚の約束のこと。
そしてシルビオが、ベアトリスのことを今でも好きでいるかもしれないということ。
(でも、それは五年前と同じ条件。なら私がやることは何も変わらないわ)
リネッタの瞳に炎が宿った。
「話は以上だ。二人をこのような形で巻き込み、悩ませることになって申し訳ない。どうか良き結果になるよう、私は見守らせていただく」
リネッタとベアトリスは表情を固くして同時に立ち上がり、深く深く礼をした。
アレハンドロが先に部屋を出ると、静寂が部屋を支配する。
口火を切ったのはベアトリスの方だった。
「私、リネッタ様がシルビオの婚約者と知った時、本当にショックでした」
その言葉にリネッタがベアトリスの方へ顔を向ける。ベアトリスの視線は前に二人で祭りを散策した時と打って変わってほのかに敵意が含まれている。ぞくりと背筋が冷める。
「私
宣戦布告のように聞こえた。リネッタとベアトリスは完全に向き合う。
「事情は深くは知りませんが、このような形になった以上、リネッタ様は辞退した方がいいんじゃないかって思います」
「………」
「シルビオは、幼い頃に私をずっと好きでいると言ってくれたことは、前に話しましたよね。それに……言い忘れていましたけど、あの時、シルビオはこう言ってくれたんです。『大きくなって再会したら、結婚しよう』って」
盗み聞きをしていたリネッタはすでに知っている内容だったが、そうとも言えず、ただ真正面からベアトリスを見つめるしかできない。
意外と動揺しなかったリネッタを不思議に思いつつも、今度は同情するように微笑み、ベアトリスは続ける。
「せっかく仲良くなったリネッタ様を傷つけたくありません。彼に否定される前に、身を引くことを勧めます」
それは嘘偽りない心からくるものなのか、リネッタにはわかりかねる。
リネッタがろくな返事も紡げないままでいると、ベアトリスは少し気まずくなったのか、視線をそらし、慌てて礼をして部屋から立ち去った。
パタリと扉が閉まる音と、遠ざかる足音を耳にして、ようやくリネッタが呟く。
「幼い頃の約束なんて関係ないわ」
(大事なのは今、シルビオが何を思うか)
しかし具体的に何をしなければならないのか、見当はつかない。
それに、このように対立構造が定まった今、ベアトリスが何をしてくるのか予想がつかない。
リネッタは焦燥感にかられ、歯痒さを覚えた。
けれども、一つだけわかったことがある。
「今までのようにクヨクヨしてたら、シルビオに愛されるなんてあり得ない」
パアン!と両手で頬を弾いた。
扉の近くで控えていたカロリーナが、目をまんまるにした。
「カロリーナ、私がめげそうになったら喝を入れてちょうだい!」
「……はい。……はい、姫様」
それでこそリネッタだと、カロリーナは思わず口角を上げる。
手をぐっと握り、自らを奮い立たせたリネッタは、力強い足取りでようやく部屋を出るのであった。
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