第6話

結婚?

シルビオがベアトリスのことを幼い頃から好きでいるという話は知っていたが、結婚という単語に敏感になっている今、リネッタの脳内が混乱を極めた。


「……忘れたことはないよ」


シルビオのしみじみとした声が耳に通ってくる。

隣で一緒に屈み込んでいるナナがアワアワしながら声を出さないように必死に震えている。

リネッタは一周回って冷静になり、話を逃さないよう息をひそめて聞き耳を立てていた。


「私が国外で生きていた時、本当に辛くて死んでしまいたい時もあったけれど、この約束があったからもう一度ルナーラに戻ってくることができたの。シルビオにどうしても、もう一度会いたかったから」

「戻ってきたのは、俺のためなの…?」

「っ……そうだよ」

ベアトリスの声が震えている。

「私、シルビオの存在があったから頑張れたの。改めてお礼を言いたくて」


ベアトリスの国外での境遇をリネッタもシルビオも知らない。

二人がベアトリスと対面したのは国に帰って聖堂に保護され、ある程度身なりも整えられた美しい彼女の姿だった。第一印象では、苦労を窺うことはできない。

それを思うと、リネッタは罪悪感と同情を覚えた。今でこそ聖女として誰よりも大切にされる人物とされているが、国外にいた時は何者でもない国を追われて息を殺して生活するしかできない少女だったベアトリスは、普通の平民が得られた幸せすら遠いものだったのかもしれない。

姫としてソレイユ王国で苦労なく育ち、ルナーラ王国へ留学し、新しくできた学友や、好きな人のそばにいながら青春時代を過ごせた自分はなんて呑気で幸福だったことか。

リネッタの表情が陰る。


「少しだけ、シルビオに甘えてもいいかしら。昔みたいに…」

「………そうだね、今だけは」

「あの頃みたいに、頭を撫でてほしいわ。……でも、昔の一生懸命さはもう見れないね」

「身長もだいぶ差がついてしまったからね」


きっと、シルビオはベアトリスの透き通った水のような髪に手を置いて、彼女もその温もりに心を預けているだろう。

幼馴染の再会と、彼女の苦労を考えれば、嫉妬という感情はおきなかったが、虚しさを抱いた。

ここにリネッタの居場所はない。


「ふふっ元気が出たわ! なんだか、ドキドキしちゃった。すっかり大人の男性になったのね」


ガサガサっと草木の揺れる音がする。ベアトリスが立ち上がって移動したのだろう。

声色も明るくなった彼女はきっと笑顔だ。

「冷えてきたから部屋に戻ったほうがいい。送るよ」

「ありがとう」

シルビオも席を立ち、ベアトリスの後を追うように足跡が遠ざかっていく。

それを屈んで隠れながらリネッタとナナが距離感を測るように聞き耳を立てて、二人が左に曲がって建物の影に隠れただろうと確信したあたりでようやく立ち上がった。


「姫様……」

ナナが心配そうにリネッタを見つめる。

視線を合わせると、リネッタが力なく微笑む。

「私って本当に幸せね。ナナがこうして側にいてくれているもの」

「……ベアトリス様の境遇は、姫様には関係のないことです。そんな悲しい顔をなさらないでください」

「そんな顔してる?」

「なんだか苦しそうです。姫様、私姫様だから応援したくて言うんですけど、聖女様と殿下の関係に臆さないでいいんですからね」

瞳に炎を宿すかの勢いで、ナナがリネッタに詰め寄る。

「聖女様と殿下のお話は、姫様が心を砕くまでもないことです! 姫様が殿下の心を射止めるために必要なのは、姫様が真摯に殿下に向き合うことだけです! 恋愛小説をたくさん読んできた私が言うんだから間違いありません!」

「でも小説は小説なんじゃ…」

「いいえ、いいえ! バカにしちゃダメですよ! 噂だと、今度結婚式を挙げる環境大臣のお嬢様がとある小説の主人公の行動に即してアタックしたところ、名俳優のハートを射抜いたって話なんですから」

そしてその参考書になったのがこの小説です、と懐から文庫本を取り出した。

「環境大臣のお嬢様ってロマリア様のこと…? 参列するから話をしてみようかしら」

「ならばこれを持って是非真相を確かめてみてください!」

「わかったわ」

環境大臣となると水の浄化に関わる聖堂と密接にやりとりをする立場でもある。

今後ベアトリスと王家が関わる時に橋渡しになるのが環境大臣だ。娘の結婚式に王族のみならずベアトリスも参列することになるだろう。

(本当にこの国にとって欠かせないお方なんだな、ベアトリス様は)

一方自分は婚約者という立場の外国の姫。それも、ベアトリスが不在だったから締結された条約による条件。

ベアトリスが帰ってきた今、この条件は果たされるのだろうか。

そんな考えを頭の片隅に置き、リネッタとナナはその後恋愛小説の話をしながら部屋に戻った。



二日後、その疑問に答えるかのように、ソレイユ王国から王太子が聖女の再来を祝ってルナーラ王国に訪れた。

ソレイユ王国の王太子、つまりは、リネッタの二つ下の弟・ディノが、実に六年ぶりにリネッタと対面する。

聖女を交えての会食の前に、早朝にも関わらずリネッタはディノを大歓迎した。

「姉様、お久しぶりです!」

「ディノ、大きくなったわね…!」

「どうですか、シルビオ殿下より大きいのでは?」

「そうかも」

隣り合った時の顔の角度で差を測る。父のレオの身長が高いため、きっとディノも大きくなるだろうと予想していたが、まさかシルビオよりも大きくなるとは予想していなかった。

リネッタと同じミルクティーヘアーをきっちりと整え、爽やかと形容するにふさわしい笑顔がよく見えるように前髪も真ん中でわけている。

手紙でのやり取りが頻繁だったため、思ったよりも懐かしさはなかったが、年月の進行を如実に感じてついリネッタは感慨深くなってしまう。

ディノが滞在する部屋に使いの者たちが荷物を運び入れる。二人と側近だけが窓際のソファに向かい、ディノはようやく旅の疲れを癒すようにくつろいだ。

「二日しかいないのに何を運んでいるんだかね。みんなも疲れているだろうに」

「今日は早めに寝ることで使用人の皆さんの仕事を早めに切り上げさせることね」

「そうする。ていうか多分そうなる」

リネッタの前でお茶を淹れているカロリーナは、「確かに上がりの時間は早いほうだったわ」と自分のこれまでの仕事を振り返っていた。リネッタは昼間エネルギッシュなのでとても寝つきが良い。


「姉様、ルナーラ王国での生活は楽しい?」

「楽しいわよ。手紙でもたくさんそう書いてるでしょう」

ディノは口元に微笑を携えているが、表情は硬い。

改まってどうしたのか、とリネッタが眉を顰めると「実は」とディノが続ける。

「姉様が国に帰ってきてもいいんじゃないかという話があがっている」

「———え?」

国に帰る、すなわち、婚約は果たされない。

「それは、おかしいでしょう。そもそも私がこの国にいる理由は、条約の締結に際して私がこの国の王妃となることが絶対条件なはず」

それが果たされなければそもそも条約を結んだ意味がない。

リネッタがルナーラの王妃となることで血脈が混ざり、半永久的にソレイユとの和平が実現する。そして何かあった時はどんな協力も惜しまない。聖女を失い国力に不安を持ったルナーラがどうしてもと結んだ条約の最大の効果はリネッタとシルビオの結婚が成された時に発揮する。

たとえリネッタとシルビオが不仲だったとしても、絶対に果たさなければならない。そのくらい強い力を持っている。だからこそこの婚約が無くなることはあり得ない。リネッタはそう認識していた。

「けれど僕らソレイユはあくまでルナーラの周辺諸国の一つにすぎない。こうして聖女が帰ってきた今、このまま姉様を王妃にと推し続ければ逆に反感を買ってしまうのではないかという意見がある」

「そ、それは結果論でしょう…聖女様が帰ってくる保証なんてなかったのだし、それにこの数年ソレイユがルナーラに施した支援の返礼はどうなるの? 私の結婚が無くなると言うのなら、我が国は返礼を放棄するつもりなの?」

「返礼自体は結婚の他にもあるし、聖女様が帰ってきた今、姉様の結婚よりも浄化された水の輸入の方が恩恵が大きい。それに僕らの国が欲しいのは『半永久の和平』それを実現するのは何も結婚だけじゃなくても良い。その話をするためにも僕は父様から提案書も貰ってきたんだ」

「………それは、そうだけれど…でも、結婚をしちゃいけない理由だってないでしょうし、効力だって結婚に劣るのでは……」

リネッタは頭では理解していても、どうしてもシルビオとの永遠の約束に縋り付いてしまう。口を開けば開くほど我儘を言う子供のようにも思えて、だんだんと情けなさを覚えて俯いた。

リネッタの恋心を知るディノもそれを理解している。

「何も、姉様の結婚を邪魔したいわけじゃない」

本心から、リネッタの恋を応援したい気持ちはある。しかし

「けれど聖女様とルナーラ王子の結婚がもし実現するのであれば、それを推進しないわけにいかない。この国の歴史を知った姉様ならわかるよね」

「………」

かつて、聖女とルナーラ王が番った時代は、ルナーラ王国は栄華を極め、国民はそれを堪能し、数々の文化や贅沢が生まれた。その時代の名残として、この王都の景色がある。王都の街が整備され美しくなったのも、その治世が繁栄したことの最大の功績の証明であった。

(国民が美しい聖女を見たのならなおさら、シルビオとの結婚を望む人も多いでしょう)

成功例があるのならば、もしかしたら今以上に平和で楽しい時代になるのかもしれない。

そう希望を持ってもおかしくない。

ルナーラが繁栄すれば、周辺諸国もその恩恵を賜れる。聖女と王子の結婚はそれほどまでに意味を持つということを理解している。

「それにこれは国力の問題だ。もし聖女と王子の結婚が決定したとして、条約を条件に出しても、果たして国民がそれをはいそうですかと許すだろうか。ルナーラ王国の発展を阻止したい叛逆国としてレッテルを貼られたら終わりだよ」

「でもまだ、決定したことじゃないわ」

「……そうだね、ごめん。でも大事なことだから」

「わかってる。教えてくれてありがとう」


もしも、聖女と王子の結婚をルナーラ王が決定したのならば、それに従うしか道がない。

シルビオとの結婚はなくなり、リネッタは別の高貴な身分の人間と結婚することになる。

ルナーラ王国から条約を反故にするような意見を出すことは難しいからこそ、ソレイユ王国から譲歩をするためにディノは提案書をわざわざ持ち出してきた。


「アレハンドロ王様が、もしも決定したのなら、その時は………大人しく帰るわ」


ただシルビオに恋をしただけなのに、そのせいでこんなに身を切られる思いになるとは、あの頃は想像もしていなかった。

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