第5話
冷めないうちに串を食べ終わり、ハンカチで丁寧に口元を拭うとベアトリスが一呼吸置いた。
「私とシルビオが出会ったのは、小さい頃…私が7歳、シルビオが5歳になったばかりの頃だったかな」
5歳のシルビオ……とついリネッタは想像を膨らませてしまう。
「私の父とアレハンドロ王が仲良しだったのもあって、私はシルビオの遊び相手にとよくお邪魔していたの。それが五年くらい続いたわ」
懐かしみながら話ベアトリスはとてもキラキラして楽しげだ。
「私とシルビオはすぐに仲良くなって、本当に色々なことを一緒に経験したわ。………幼かったから、それがどれだけ特別かわからないまましたことも…」
「ん?」
「あ、いや、なんでもないの」
頬に赤みがさしたベアトリスの違和感に眉を顰めるリネッタ。
誤魔化すように咳払いをして、ベアトリスが続ける。
「でもほら、私……身内に裏切られて、国外に逃げなくちゃいけなくなって…。家を捨ててもう帰ることはないだろうと言われていたから、12歳の夜、こっそりシルビオに会いに抜け出したの」
ベアトリスの表情に切なさが見える。
「私と、シルビオだけの、秘密の抜け道。そこを通れば彼のいる部屋が見えるから、私が会いに行ったらね、遅い時間だったのにシルビオも起きていて」
「珍しいですね…」
「そうなの、それでね、彼が部屋から抜け出してくれて……運良く、お別れの挨拶ができたの。………もう二度と、会えないかもしれないからって」
『もう二度と会えないかもしれないの。ごめんね。でも、私、シルビオと遊んだ日々をずっと忘れないわ』『……どうしても、行かなくちゃいけないの?』
『うん……』
今にも泣き出しそうになるベアトリスとシルビオ。
けれどお互い、我儘を言えないのだと理解していて、その気持ちが、涙を強く堪えさせていた。
シルビオがベアトリスに近づき、くっつくようにして抱きつく。
『ぼく、ベアトが大好きだよ』
その好きの意味が、ただの親愛だけでないことをベアトリスも気づいていた。
『……私も、だよ』
ドキドキと高鳴る胸の鼓動を感じながら、お別れで辛いのに、幸せに満ち溢れた気分になって、それがよりいっそうこの時間を尊いものにした。
ベアトリスは、鮮明に覚えている。
あの時、シルビオは………
「………」
ベアトリスは、この先を口にするをことをやめた。
少し黙り込んだベアトリスに、リネッタがどうしたのかと覗き込む。
「……ふふ、でもまたこうして出会えたんだもの。本当に嬉しかった」
ベアトリスの笑顔が可憐で、リネッタもどきりとしてしまうほどだった。
「素敵なお話をありがとうございます」
「いえ、私こそ聞いてくれてありがとうございます…!」
二人の思い出を共有してくれたことにリネッタは心から感謝した。
それと同時に、どこか陰りを覚えた。
幼い頃の思い出、シルビオの恋心、リネッタはそれが長くシルビオの中での宝物であったことを痛いほど知っている。
だからなのか、モヤモヤする。けれどもモヤモヤしたものの正体が嫉妬なのか、あるいは嫉妬とはまた別の何かなのか、明文化できないでいた。
「そうだ、私、串のゴミを屋台に持っていきますね」
リネッタはベアトリスの持つ串を取り、立ち上がる。
「そんな、姫様にそんな雑用みたいなことをさせられません!」
「ここでベアトリス様が行った方が目立っちゃって大変なことになりますから。それに、私が直接店主の方にお礼を言いに行きたいんです。行かせてください!」
「………それなら………」
リネッタが婚約者であることは王家や王立学園では周知の事実ではあったが、平民にとってはまだ公的なものではない。噂として知っていたり、公的な儀式の場で見かけてリネッタの顔を覚えている人がいる一方で、大多数の国民にとってはまだ、騎士を連れた良いところのお嬢様にしか見えないのだ。
リネッタが出かけることは度々あれど、騒ぎに発展するようなことはなかった。それはリネッタが街歩きをを得意とし、関わる人にも態度を変えず公平に接するという面も影響していた。
マテオをベアトリスの側に置き、リネッタはネルソンを連れて再び人混みの中へ向かった。
「おじさま、とても美味しかったですわ! 食べ終わった串はこちらで回収していらっしゃるのかしら」
「おや、こんな可愛いお嬢様に売ったっけな」
「先ほど彼と同じ格好をした騎士がこちらで買ってくれましたの」
「ああ、彼のとこのご主人様だったのか。これは丁寧にありがとう。預かるよ」
「こちらこそ、美味しい食べ物をありがとうございましたわ」
リネッタの笑顔に店主はつい口角を緩ませてしまう。
後ろに控えるネルソンが不埒な奴め、と警戒をしてしまうが、彼の隣で働く女性も同じように笑顔になっているので、リネッタの方を改めて見た。
(リネッタ様の態度が彼らを笑顔にさせるのだろうか)
ネルソンの視線に、リネッタが気づいて振り返ってくる。
どうかしたのかと問うように、首を傾けて微笑む彼女と目が合えば、ネルソンも少し動揺し、一重で切長な目を伏せて、首を横にふる。
「そうだお嬢様、お嬢様くらい高貴そうなお方だったら知らないかい?」
店主が気さくにリネッタに話しかけ、手招きをしている。
再びリネッタが屋台に近づけば、少しだけ声量を下げて店主が言った。
「王子様と聖女様が結婚するっていう話」
「………え?」
リネッタの声に色が失われる。
隣に立つネルソンも眉を顰め、店主を睨んだ。
「貴様、そのような噂はどこから聞いた」
態度の良いリネッタやマテオとは裏腹に凄みを効かせるネルソンに動揺した店主が、一気に顔を青ざめさせて低頭する。
「い、いいえ、あの、これは、ほら、聖女様が王子様と年齢が近い若いお方だったし、王子様も婚約者はいらっしゃるようだけどまだ確定ではないですし、この国の歴史的に王子様と聖女様が結婚した方が良いから王様もその方向で話を進めているんじゃないかって気になってるだけなんです、我々は!」
ドクンドクンと心臓の鼓動が大きくなるのを感じる。
リネッタの体温がサァッと冷める心地がする。
式典で聞いた言葉も、聞き間違いではなく確かに誰かが噂していたのだ。今店主が言ったことが民衆の関心の中心なのだろう。
リネッタは、あるかもしれない可能性に不安を感じていたのだと、ようやく気がついた。
「王族への侮辱と捉えられてもおかしくないぞ」
「いえいえいえいえそんな! 滅相も無い…!」
「ネルソン」
怯える店主に凄むネルソンを抑え、リネッタが前に出た。
「店主のおじさま、ごめんなさい、私は何も知りませんわ」
ただそれだけを伝えて、リネッタが微笑む。
ネルソンの覇気とはうらはらに、再び優しい空気を運んできたリネッタの態度に、店主も思わず脱力して「そ、そうかい…」と言葉を絞り出した。
「それではごきげんよう」
リネッタがワンピースを広げて礼をすれば、ネルソンの腕を叩いて彼と共にその場を後にした。
「ひゃー怖かったなあ…」
「迫力のある騎士様だったわねえ。あんた大丈夫かい」
夫婦で生きた心地がしなかったと労いあっていると、「ちょっとお父さん、何してくれてんの!」と、店の後ろにある家の窓から娘が声を張り上げた。
「何って、噂話を聞いたら騎士様が怒り出してなあ…」
「噂話って王子様と聖女様のやつでしょ、そんなの怒って当たり前よ!」
娘は自分ごとのように顔を青ざめさせて、汗をダラダラとかき、頭を抱えていた。
「あのお嬢様が王子様の婚約者なんだから!」
娘の言葉に、夫婦は再び血の気を引かせたのだった。
その後、ベアトリスと合流したリネッタは先ほどの噂話を頭の片隅に追いやり、ひとまずはお忍びをしつつ祭りを堪能した。
リネッタが人懐こいこともあり、ベアトリスも早々に心を開いて、二人はすっかり仲良くなった。
日が沈む前に切り上げて、四人で王宮に戻る頃、リネッタは「あ」と思い出す。
(シルビオへのお土産、買い忘れてしまったわ)
今までは、そんなことはなかったのに。
けれどもうここまで戻ってきてしまっては、再び騎士を伴って外に出るのも申し訳ない。
約束して意気込んでいたのにも関わらず手ぶらで帰ってきた状況に我ながら辟易し、ついため息が出る。
「リネッタ様? 疲れてしまいましたか…?」
「え!? あ、ううんそんなことないですわ! やっと着いた〜って思ったらつい出ちゃいましたの、お見苦しいところお見せしてごめんなさい!」
「いえいえ、全然見苦しくなんてないですよ! お互い早めに着替えて部屋で休みましょうか。借りた服も返さないといけないし」
「そうですね……」
せっかく楽しんでもらえたのに、自分のせいで表情を曇らせることがあっては余計に情けない、とリネッタが反省する。
マテオとネルソンが、リネッタの様子にお互い顔を合わせていた。ネルソンは事の原因を見ていたので、わかっている、というように小さく頷いている。
「あとでカロリーナが服を取りに向かうそうなので、お部屋に置いておいてください」
「わかりました。リネッタ様、今日は本当にありがとう! 私あなたと仲良くなれて嬉しかったです!」
「…ええ! こちらこそ!」
ベアトリスが楽しんでくれたのなら何よりだった。
ベアトリスの言葉に安心したリネッタは、満面の笑みを彼女に向けて両手で握手する。
噂話はどうであれ、彼女との付き合いは今後長くなる。仲良くなれたことは喜ばしいことだった。
夕飯でシルビオへのお土産を忘れてお詫びし、「珍しいね」と不安にさせてしまったことはまた反省点だ。
昼間の噂が尾を引いて、不安の種が芽吹いてどんどん大きくなっているのを感じる。
うまく笑顔を作れているのかわからない。
このままではシルビオに好かれるなんてもってのほかだとリネッタは弱気になってしまった。
ベアトリスと仲良くなることができた、その情報だけ伝えて、リネッタは夕食では口数少なく終えてしまった。
シルビオとの貴重な交流の場なのに、今日のアピールはこれでおしまいだ。
「リネッタ、慣れないスケジュールで疲れたんだろう、今日は早めに休むといいよ」
「…そうかもしれないです。ありがとう、シルビオ」
「リネッタが元気でいてくれれば俺も嬉しいから」
そんなこと言われたら好きになってしまう。いやもうすでに好きだった。好きが更新された。
るんるんとした気持ちで自室に戻ったが、数時間すればまた噂話が頭の中をぐるぐるしたので、リネッタはくつろいでいたソファから勢いよく立ち上がった。
カロリーナが驚いて動きを硬くする。
「どうなされました?」
リネッタはまだ今日のことをカロリーナに相談できていない。けれど今吐き出してしまっては、せっかくのベアトリスとの楽しい思い出も苦いものになりそうな気がして、口に出すのを躊躇った。
「お散歩に、行くわ」
「……そうですか。ついていきますね」
「ダメ。一人で歩きたい気分なの」
「しかし、一人で出歩かせるわけにはいきませんよ…?」
「……じゃあ、ナナについてきてもらうわ」
「わ、私ですかぁ?」
ベッドを整えている二人のメイドのうち黒いおさげ髪のナナが素っ頓狂な声を上げた。
「私を選ばれなかった理由はなんですか?」
長年仕えているプライドが刺激されたのか、カロリーナの声が少しだけ低い。
リネッタが上目遣いでカロリーナを見ると、なんだか小動物みたいだなと感想を抱かれた。
「今は、なんだかカロリーナに甘えてしまいそうだから…ちょっと頼りたくないの」
「……」
真相は言わずとも、素直なリネッタの意見に、それならば仕方なしとカロリーナは納得してふうと息を吐いた。
「ではナナ、姫様をお願いいたしますね」
「は、はい!」
「お仕事中断させてごめんなさい。どうか付き合ってください…」
「いえいえ、光栄です。お散歩楽しみましょう!」
むしろお仕事中断されてラッキーと内心浮ついているナナが、笑顔でリネッタに答えた。明日のナナの仕事は二倍にしておこう、とその笑顔を見てカロリーナは考えるのだった。
すっかり月が上がった空の下、王宮の庭の向こうはまだまだ明るく、今日はいつもよりも見える星の数が少ないように思えた。
「こんなお祭り初めてですわ」
「はい、私もこんなに賑やかな王都初めてです!」
「そうなんだ…」
この賑やかさはいつまで続くのだろうかと思案しながら、庭を臨む廊下を二人で歩いていく。
海に向かって吹く風が、少し強く、リネッタの髪の毛を流していく。
「寒くないですか?」
「大丈夫よ。………あれ」
風の通る方向に視線を向けると、庭に人影が見えた気がした。
海を眺めるようにして作られた庭には、オリーブやローリエ、ローズマリーが庭師の手入れにより絵画的に配置されている。
そんな庭の中のベンチに、二人の男女が腰掛けているのを見つける。
(シルビオと、ベアトリス様だ)
「姫さ…」
「静かに!」
「えっ」
口に人差し指を当てて、ナナを自分と一緒に屈ませる。
突然どうしたのかと動揺するナナに、シルビオとベアトリスの姿が庭にあったと告げれば、何かを察したのかナナは自分の口を塞いでコクコクと頷いた。
この時間に二人で何をしているのか、リネッタはとにかく気になった。
じりじりと二人の会話が聞こえそうな距離まで、身を屈めて近づく。およそ姫がして良い姿勢ではないが、ナナも嬉々としてそれに倣っている。
「……で………ったけど………」
シルビオの声色は穏やかだ。時折ベアトリスの笑い声も聞こえる。談笑しているだけのように思えたが、「ねえ」とベアトリスの言葉がはっきり聞こえる距離になると、リネッタは足を止めた。
「シルビオがあの時、大きくなったら結婚しようって言ってくれたこと、私忘れていないの」
ベアトリスがリネッタに言わなかった、二人だけの思い出の続きだった。
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