懐かしい失せ物との邂逅に躍った心は、実家の玄関を開けるとさらに高ぶった。母と二人で十八年間も過ごした、お世辞にも立派とは言えないささやかな一軒家。靴を脱いで狭い廊下を進み、台所や居間を一つ一つ覗いていると、この家の中だけ時間が止まっていたかのような錯覚に陥ってしまう。部屋に漂う実家独特の匂いも、ドアノブや襖の手触りも、あの頃と少しも変わらない。

 ふと気になって階段を登り、二階の突き当たりのドアを開けた。この部屋はまだ私がこの家に住んでいた頃、自室として使っていた六畳の洋室だ。入ってすぐ左の壁にある照明スイッチを入れた私は、途端に目を見開いて棒立ちになった。ひどく熱いものが胸から込み上げてきて、それはやがて小さな唸り声となって固く閉じた口の端から少しずつ漏れた。

 何年も前に主を失った二階の洋室は、とうに片付けられて物置にでもなっていると思っていた。ところが目の前に現れた景色は、まるで私の帰りを待っていたかのように当時のままだった。しかも掃除が行き届いていて、チリ一つ落ちていない。どうやら私が出て行った後も、母がずっと手入れをしてくれていたようだ。一人娘の面影を残しておきたいと思ったのか。もしくは、私がいつ帰って来てもいいように残しておいたのか。

 母とは決して仲が良いとは言えなかったが、だからと言って決定的な衝突があったわけでもなかった。正確にいうと、母が私を嫌うようなことはなく、愛人の子という噂が囁かれ始めた頃から、私が一方的に母を毛嫌いしてきただけだ。それでも母は、娘の苦々しい態度をとがめるようなことは一切なかった。

 今ならわかる。おそらく母は、ずっと責任を感じていたのだ。私に無駄な苦労や悩みを与えてきたことに対して、今も贖罪のような気持ちを抱えているのかもしれない。だから私がいくら素っ気なくしても、相談もなしに実家を出てしまっても、盆も正月もまるで連絡をよこさなくても、少しも変わらず娘のことを案じ続けているのだろう。

 あれほど嫌いで、わかりたくもなかった母の気持ちが、するすると心地好く胸に滑り込んでくる。懐かしさのせい? 大怪我を負った母に同情している? 本当は私も、母と和解したかった? そうやって胸中に問うてみても、今はまだ思考が模糊としていて、原因をはっきりとは言い表せない。

 ──いいや、違う。よくよく考えてみれば、今さら母を許したところで何になる。学生時代に負った心の傷は取り返しがつかないし、身勝手で奔放な母に振り回された時間は、これからも永遠に失われたままだ。しかも今後に目を向けてみても、怪我を負った母にどれくらいの手間と時間を取られるか見当もつかない。やはり母は、温かい心を持った慈母などではない。昔も今も、私にとってはただの疫病神だ。

 ひとときの郷愁から我に返った私は、本来の目的を思い出して一階に降りた。病院に届ける母の荷物をキャリーバッグに詰め込み、ガスの元栓や、差し当たり必要のない電気のブレーカーなどを点検していく。

 ひと通り準備を終えた私は、最後に居間のタンスの引き出しを開けた。一番上の引き出しに、母の財布がしまってあるはずだ。母は普段、自分用と店用の財布を使い分けている。入院中に小銭が必要になったときのために、自分用の財布も持たせておいたほうがいいだろう。売店で細々とした物を買うたびに呼び出されるなんて、絶対に願い下げだ。

 引き出しを開けて覗き込むと、思いがけず珍しいものが目に入った。折り畳み式の古い携帯電話。見たことがない機種なので、私が生まれる前か、物心がつく前に使っていたのだろう。こんなもの、今さら使う機会なんてないはずだが、なぜ母はこんながらくたを後生大事に保管しているのか。

 何気なく手に取って、電源ボタンを長押ししてみる。やはり電源は入らない。諦めて携帯電話を元の場所に置きかけたとき、これまた珍しいものが目に止まった。引き出しの奥に、古い充電器らしきものが押し込んである。おそらくこの携帯電話の充電器だ。

 携帯電話を充電器に繋いでコンセントに差してみると、充電中の赤ランプが灯った。壊れてはいないようだ。ということは、このまましばらく待てば電源が入るようになるかもしれない。母はまだ意識を失ったままだろうし、病院には朝までに行けばいいことになっている。私は仮眠を兼ねて、携帯電話の充電を待つことにした。

 一時間ほどうたた寝をしたあとに電源ボタンを押してみると、携帯電話の画面が明るく光り、起動画面が立ち上がった。とはいえ、ボタンがたくさんついた携帯電話は、子供の頃見たことがあるだけで使ったことはない。

 四苦八苦しながらも操作を続け、携帯電話の中身をひと通り閲覧し終わるまでに三十分もかかった。何か面白い発見があるかと期待していたが、結局そういったものは見つからなかった。とんだ拍子抜けだ。今まで忘れていた疲れがどっと押し寄せてきて、すぐにでも自宅の布団にもぐり込みたくなった。

 だがその前に、母の荷物を届けておいたほうがいいだろう。後回しにして自宅で寝てしまうと、翌朝、荷物のために早起きをするのがひどく億劫になりそうだ。そうと決まれば、こんな骨董品を悠長にいじり続けているわけにはいかない。

 そう自分に言い聞かせ、電源ボタンに指をかけた矢先だった。不意に気になる文字面が目に飛び込んできて、思わず指が止まった。

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