タクシーが真夜中の実家に到着し、見慣れた二階建ての一軒家を目の当たりにすると、思わず苦い溜め息が漏れた。二度とここには戻りたくないと思っていただけに、外観を眺めるだけでもちょっとした嫌気を催してしまう。この家にまつわる思い出は、どれも陰気で殺伐としたものばかりだ。今はこの家に母がいないので、辛うじて門をくぐる気になれている。しかし普段なら、絶対に足を踏み入れることはないだろう。

 粗末な門を抜けて、ふと玄関横の小さな庭に目を移した。一本の鉄柱が、昔と少しも変わらない影を庭に落としている。この鉄柱は、母が中学、高校とバスケットボール部だった私のために、自力でしつらえてくれたバスケットゴールだ。そして庭のほとんどは、ドリブルシュートの練習もできるようにセメントで塗り固められている。なるべく安く上げるため、母が自分で買ってきて誰の手も借りずに敷き詰めたらしい。

 不意に母の笑顔を思い出し、何とも言えない気持ちになった。母は仕事で家を空けることが多く、遊んでもらった記憶はほとんどない。だから母は、せめて私の好きなことくらいは存分にやらせてあげようと、バスケットの練習ができる庭を作ってくれた。苦しい家計と相談した母が、突貫でこしらえた素人舗装の練習場ではあったけれど。

 おかげで私は、心無い噂のため友達は少なかったが、大好きなバスケットボールはかなり上手くなれた。周りの同級生が友達同士ではしゃいでいる間も、私はバスケットボールを追いかけるのに夢中で、特に寂しいと思ったことはなかった。しかも中学のときは県大会優勝まで経験できたし、同じバスケ部の先輩と付き合っていたこともある。なんだかんだ言いながらも、私が眩しい青春をひと通り味わうことができたのは、母の助力のおかげと言えなくもない。

 懐かしさに背中を押され、庭に入ってバスケットゴールに歩み寄ってみた。学生時代、一心不乱に汗を流していた庭を、街灯の薄明かりを頼りにしみじみと見渡す。足元のセメントはかなりひび割れていて、陥没してしまっている箇所も少なくない。

 所詮、母の素人仕事だ。本格的なコンクリートではなく、ホームセンターなどで売っている安いインスタントセメントを薄く敷いただけなのだろう。十年近く経てば、劣化してヒビが入ったり、弱い箇所に穴が開いてしまうのも無理もない。ただ、私がバスケットをやっていた数年間は何の問題もなかったので、これ以上の耐久性を求めるのは酷というものだ。この安普請も、私のバスケットの練習のためだけなら必要十分だったということだろう。

 しかし、このままでは荒廃したセメントの見た目が悪いので、私が母なら庭のセメントはこうなる前にすべて取っ払っていただろう。未だに母がそうしないのは、億劫で後回しになっているのか、日常が忙しくて劣化に気づいていないのか、それとも撤去を頼む金銭的余裕がないのか。

 ──まさか私のため? いや、そんなことは絶対にない。万が一、私が実家に戻ったとしても、私はもう学生でもなければバスケ部でもない。セメントが敷かれたバスケットゴールのある庭なんて、小指の先ほども必要ないのだ。こんなぼろぼろの庭、いつまでも残しておいたって何の意味もない。それでもあえて意味を見出すなら、私がたまに見てあの頃を懐かしむくらいのものだろう。あのがさつでいい加減な母が、そんなセンチメンタルな気配りを思いつくだろうか。いや、そんなことはありえない。きっと片付ける費用が惜しいだけだ。

 そのとき、私はいきなり足を取られてその場に膝をついてしまった。あまりに突然の出来事だったため、声を出す余裕もなかった。幸い異変の原因はすぐにわかった。右足の下のセメントが、私の重さに耐えきれず陥没したのだ。まさか、土から湧き出た死者に足を引っ張られた? なんて突飛な想像に縮み上がっていた私は、やれやれと胸を撫で下ろし、屈んだまま脱げた靴を履き直した。

 陥没した深さ二十センチほどの穴を何気なく覗くと、底に妙な違和感がある。さらに穴を覗き込んでみると、中は割れたセメントの欠片と黒い土ばかりだが、その中にひときわ鮮やかな蛍光色がちょっぴりだけ混じっていた。手を伸ばしてその蛍光色をつまみ上げてみると、それはずるずると土の中から姿を現し、どこまでも細長く続いている。その紐らしきピンク色の物体を見た私は、目を丸くせずにはいられなかった。

 庭に埋まっていたのは、可愛らしい装飾があしらわれた独特の形の布きれだった。この布には見覚えがある。これは中学生のとき、生まれて初めて自分で選んだ下着セットのブラだ。当時、初めての彼氏ができた私は、売り場で何時間も悩んでこの下着を選んだ。だからこの下着のことは、今でもよく覚えている。

 ただ私の記憶では、この下着は数えるほどしか使っていない。とても気に入っていたのだが、気がつくと見当たらなくなっていたからだ。私がこの下着のことを訊ねると、母は確か、干している間に風で飛ばされたのだろうと答えた。年に一度か二度、洗濯物のタオルなどが風で飛ばされることはあったので、当時の私はそれなら仕方がないと涙を呑んで諦めた。

 それがまさか、庭のセメントの下に埋まっていたとは。いつも適当に生きている母のことだ。風で飛ばされて庭に落ちていたにもかかわらず、気づかずにそのままセメントで埋めてしまったのだろう。あの母なら、そのくらいの失敗はいくらでもやりかねない。

 十年近く埋まっていた下着は、肌に触れる天然繊維の部分は真っ黒に変質してぽろぽろと崩れてしまうのに、それ以外の化繊部分は色も鮮やかで、ほとんど痛んでいない。土を払って間近で確認してみたが、やはり間違いなく私の下着だった。散々迷って買ったお気に入りのデザインだ。そう簡単に忘れるはずがない。

 まさか今になって、しかもこんなところから出てくるとは思わなかった。もちろんまた使おうなんて考えてはいないが、これはこれで思いがけない宝物を掘り当てたようで、妙に嬉しい。絶対に対面することのない過去の自分と鉢合わせたような気分、とでも言おうか。

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