第1話『朽草が舞い上がるまで』⑤

次の日。


朝一番に上司に報告。昨日の今日でミスをしたと言うこともあり、上司とは思えない発言が飛んできた。それを頭に浴びながらひたすら謝罪をし、出てこようとする後輩を手で止めてじっと石のように耐えた。耐えて耐えて耐えて。


やっと解放された時にはお昼を過ぎており、またお昼ご飯を食べる時間を削って自分のパソコンへと向かった。


夕方になり、周りのみんなが帰るのを見て自分自身も仕事が一区切りついたことを確認する。明日までの書類はないはず。頭の中ですでに次の日のことを考えながら帰路に着く。昨日部屋で待っていてくれた黎ちゃんに申し訳ないから、今日は帰らないと。いるかどうかもわからないけど。


「……あと、一週間かぁ」


ぼーっと線路を見つめた。あと一週間で死ぬ。寿命宣告を受けたのにも関わらず、自分のことだと実感することができない。どこかの国の誰かが死んでも何とも思わないように、自分の余命をどうでもいいと思ってしまう。それが、私の現実。


「このまま死んでも、別に……」


ざぁっと過ぎていく地下鉄。かき消された私の声。ざわつくホームと入れ替わりの激しい出入り口で人の波に体が攫われた。


帰った時には誰もいなかった。いると思って期待したから少しだけ沈んだ。でも、元の生活に戻っただけだと言えばその気持ちも浮かんできた。


明日も仕事だ。ボフッとベッドに飛び込んで、明日のことを考えた。来週締め切りの仕事があったから早めに終わらせよう。また失敗したら大変だ。あと、ゆりちゃんに教えてないことあったような。まぁまた思い出せるだろう。頭の中でグルグル巡る考えは、カシャンと聞こえた音により止まった。


「……ケイ、さん」


「本当、どこまでも情けないわね」


「はは……面目、ないです」


「別に、謝られても困るわよ。一言、助けてって言えばいいのに」


「大丈夫、です……まだ、私には、後輩、が……」


途切れ途切れの意識は、もうあと少しで落ちそうだった。彼の顔が、見えた気がする。時計の頭ではなく、困った表情をしている人間の彼が。私はまた、夢を見ているのだろうか。


誰も助けに来ないから、助けてくれるヒーローを勝手に思い浮かべてしまったのだろうか。


あぁ、死ぬ前に蛍を見に行きたかった。


毎年見ていた、近くで光る星を。


脳裏に浮かべようとした時、そのまま意識が途切れた。


また朝がやってきた。お風呂に入ってなかったことを思い出し、急いでシャワーを浴びで準備して家を出た。ゆっくり寝れたかは分からないけど、眠りにつく直前で聞こえた声が夢かと思っていた。しかし、体にかけられている毛布を見てやはり現実だと実感する。出社ギリギリの時間に入っていくと、空気が凍っていることに気がついた。


「おはよう、ございます……」


「おい、町田。ちょっと来い」


いつもに増して機嫌の悪い上司は私を一瞥してからクイッと顎を動かした。向かった先はよく打ち合わせで使われている会議室。こんなところに呼び出されるとは思ってもいなかったので、「は、はい」と声が裏返ってしまった。


開けっぱなしになっている扉を私が閉めると、「これ、お前だよなぁ?」とドスの低い声と鋭い目で私の動きを止めた。


「な、何のことでしょうか。それは、木村さんが担当しているもので……」


「いーや、違うね。これははじめから『お前が』担当していた客だ」


「一体、何を言って……」


足の力が、抜けそうだった。ねっとりとした目で、私を見上げている。座り心地の良さそうな椅子にどっかりと座り、通勤カバンを胸にぎゅっと抱えている私を嘲笑っているような。いつも怒鳴っている声が、こんなにも猫撫で声のように、露骨に媚を売られている声で私に話しかける。


「お前、今日でクビね」


「え」


「え、じゃないよ。クビだよ、クービ。あ、解雇って言った方が分かる? これ以上ミスされたら、俺らも困るんだよねぇ。ほら、おじさんがそう言ってたからぁ? 俺も仕方なくって言うかぁー分かるだろ?」


な、と肩をポンっと叩かれた。ずしっと、鉛よりも重いそれをどかすことはできなかった。


上司、いや、元上司の木村さんは「そう言うことだからぁー」と間延びした声でこの部屋から出て行った。働かない頭で必死に今の状況を考える。そうか、私は、利用されたんだ。都合の良い駒として利用され、そのままポイされたのだ。


「は……ははっ……」


口から溢れたのは乾いた笑い声。オフィスでは「さぁ、今日もみんなで頑張るぞー!」と張り切っている木村さんの声が聞こえた。彼の言う『みんな』の中にもう私は入っていないのだろう。カウントされない私の存在は、きっとどこの誰よりも軽い。


存在が軽いのなら、命も軽いはずだ。


そんな私なら、もうどうでもいいじゃないか。


気づいたら、私は会社を飛び出していた。後ろから聞こえた笑い声なんて、どうでも良かった。もっと傷つくと思っていた。人として扱われることなく、誰かのために働いていると思っていてもそれは自分が勝手に作った幻想だったのだ。走って走って走って、家に閉じこもった。


抱きしめていたカバンを投げて、布団に倒れ、叫んだ。近所迷惑とか言われないように、枕に頭を押し付けて叫んだ。こんな時ですら私は他人のために生きている。アホだ、全くもってアホらしい。一体、何をしているんだろう。


「あーあ。せっかく言ってあげたのに」


上から声が降ってきた。うつ伏せになっている私からしたら上からなので、上から声が降ってきた。数日前に聞いた声だ。とは言っても、二日前の話か。怒涛の日々が続いていたせいなのか日付感覚が鈍っていたらしい。顔を上げる気力もなく、顔だけを横に向けた。


「ほら、顔をあげなさいよ。あー化粧したまま寝たの? ぐちゃぐちゃじゃない」


「ひかりさん。大丈夫ですか?」


「ケイさん、黎ちゃん……」


鈴の音が聞こえた。足元だけ見えていた視界はぐらっと揺れ、彼らの体も見えた。ここで無理やり体を引っ張られたことに気づき、見上げる。


眉尻を下げて心配そうな顔をしている女の子と、私の顔をまじまじと見ている時計頭さんがいた。抵抗することなく、腕も足もだらりと人形のように動かなかった。


「ほら、化粧落とすわよ。立ちなさい。……あー、もう! 黎、手伝って! この子、自分で立つ気ゼロよ!」


「わかっていますよ。ひかりさん、私にもつかまってください」


キレ気味のケイさんは動こうとしない私を無理やり引っ張り、それでも動こうとしないので黎ちゃんを呼んで支えた。洗面所に着いてから、どうにかして自分の足で立つことができた。


化粧を落とそうにもぼーっと見つめるだけだったので、メイク落としを見つけた彼はそのまま私の顔を擦った。擦るのはよくないから丁寧に手入れしていたのになぁ、と思いながらされるがまま。水を絞ったタオルで軽く拭かれ、着ているスーツを脱がされた。


「シャワーを浴びなさい。ここにタオル置いておくわよ。他の服は黎に任せているから」


それだけ一方的に言い、扉を閉められた。シャツとタイトスカートだけを身につけている私は言われた通り脱ぎ、そのまま浴室へと入る。人肌以上に温かい水が体を流れていくのを感じた。


お風呂から出たあとは黎ちゃんに促されるままリビングに座り、小さなテレビをつけてくれた。お昼の番組が映し出された。おすすめのお店やら流行りのファッションやらが出てくる。どれも初めて見たものばかりで、今まで自分が仕事だけしてきたことを実感させられた。


「あ、ちゃんと出てきたわね。ほら、ご飯食べなさい」


目の前に置かれたのは、この前と似たようなチャーハン。これしかバリエーションがないのだろうか。でも、今回はスープも付いているらしい。じっと見つめていると、「ケイって、チャーハンしか作れないのですか?」と突っ込んでいる黎ちゃん。


彼女の鋭い言葉に傷ついたのか、「うるさいわねぇ! 別にいいでしょ!」と開き直っていた。


「いい匂い、する」


「そうよ。さっさと食べなさいよ」


「その後に話を聞きます」


彼女たちの言葉に頷き、スプーンを持つ。ひんやりとしている感覚が伝わり、また長い間使っていなかったなぁと思い出した。一口分をすくって口の中に入れた。


この前と同じ味がして、温かくて、美味しい。


死ぬ前にまた人の作ったご飯が食べられるなんて思わなかった。どうせ一週間後には死ぬのだから、これくらいの贅沢はしてもいいはず。空腹が満たされていく度に頬を何かが伝っていた。


「それで、何があったのよ」


「ケイ、単刀直入に聞いたら怖がられますよ。だからいつも泣かれているんですよ」


「失礼ね! 元からこんななのよ!」


「すみません、ひかりさん。前も話したと思いますが、これでも心配しているのです。それで、その、何かあったのですか?」


二人は私が食べ終わるまで、何も言わずにただ待っていた。二人とも、本当に優しい。あぐらをかいて座っているケイさんはそっぽを向いている。すっかり空になってしまった皿にはポツンとスプーンが寂しそうに放置されていた。どこから話せばいいのだろうか。口を開こうとしても、上手く動かない。


「どーせ、クビになったとかじゃないの?」


「! な、なんでそれを」


「やっぱりねぇ。あのクソ男、木村だったかしら? あいつ、そんな感情を持っているの見えたもの」


「感情、とは」


「明確には説明しにくいのですが、人間が人それぞれ持っている魂の形に近いものです。魂を刈り取ると人間は完璧に死んでしまいますが、『感情』を切り取るとその人自身の気の流れが変わるのです」


「気の流れ」


次々と出てくる説明に頭が追いつかなかった。ファンタジーの世界のようだ。クビになったことだけでなく、感情が見えると言われてもいまいちピンと来ない。怒ったり泣いたり喜んだりするあの感情に近いのだろうか。首を傾げていると、「そんなことはどーでもいいのよ」と話に割り込んできた。


「あんたはどうしたいのよ」


「私?」


「そう。何度も聞いてるじゃない。生きたいの、死にたいの。どっち?」


「別に、他の人を」


「他の人のことを考えるな。あんたに聞いているの。人を基準にして考えると、自分が消えるわよ」


自分が、消える。確かにそうだ。会社のために、後輩のためにと思って行動してきた結果、会社を追い出された。そして私は抜け殻のようになってしまったのだ。誰かのためだと自分に言い聞かせて行動してきたから。自分が何なのか、誰なのか。迷子になっている状態。ぐさっと刺さった彼のセリフは、私の口からこぼれさせた。


「私、は……まだ、生きたいです」


「そう。それで? どうして欲しいの」


「た、助けて、くださいっ」


久しぶりに出た言葉だった。言われることはあっても、自らは言わないようにしていた言葉を紡ぎ出した時には頭の中はぐちゃぐちゃだった。


何が正解だったのか、どこから私は間違えていたのか。なぜこんなにも苦しい思いをしなければならないのか。心の奥底に閉じ込めていたものが破裂した。


「はじめから、そう言えばよかったのよ」


カシャン、と鎌を担いだ。


「ひかりさん。素直になることは大事です。全てを失ったことに気づいた時には、大体遅いのですよ」


ニコッと笑った顔は天使のようで、とてもじゃないけど死神と一緒にいる女の子には見えなかった。いつまでも意固地だったのは、私だけだったのか。殻に閉じこもっただけでは見えない景色が見えるようになるには、こんなにも簡単なことだったのか。


ストンと肩の荷がおりたようで、力が抜けた。立ち上がった二人は私の名前を呼んだ。


「今から、あんたの感情を刈り取るわ。刈り取られたあと、私たちが見えなくなる。だからと言って、あんたの生活が何か大きく変わることもないわ。その後は全部、あんた次第よ」


「見えなくなるって、そんな」


「これは決定事項なのです。二度と会えなくなることはないですが、私たちと会うと言うのは文字通り『死』を意味しています。だから、会わない方がいいのです」


悲しそうに、困った顔をして黎ちゃんは笑った。死神だから、死ぬ時にしか見えない。見えなくなることは誰もが知っている事実で、誰もが喜ぶこと。そんな事実が、私には嬉しくなかった。


彼らに出会えたから、救われたこともあった。紛れもない事実であり、変えられないもの。唐突に来る別れほど、寂しいものはない。


「大丈夫よ。あんたは十分頑張った。強くて人のために頑張れるの。利他的な子は自分がないって言われるけど、それほどまでに人を思いやれるってことでもあるのよ。だから、誇りに思いなさい、ひかり」


「そんな、ことっ」


「元気に過ごしてください。ちゃんとご飯も食べてくださいね」


「待って、まだ話がっ」


「それじゃあ、いくわよ」


『貴方の魂、かりとります』


大きな鎌が私の頭をかすめた。思わず目をつぶってしまったのだが、それは幽霊のように通り抜け、自分の体には何も起こらなかった。何が起こったのか分からず、彼らを見るとそこには真っ暗な窓に映った私だけが立っていた。

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