第1話『朽草が舞い上がるまで』④
翌朝。
珍しくシャキッと目が覚めた。頭の中がすっきりとした感覚は久しぶりで、綺麗な部屋で生活することに喜びを感じていた。バタバタと仕事へ行くための準備をし、誰もいない部屋に向かって「いってきます」と声をかけた。
昨日の夜は本当に現実だったのだろうか。電車に揺られる中で頭を働かせる。疲れから引き起こされた幻覚だったりして。でも、確かに触れることはできていた。幽霊なら触れられないだろうし、幻覚も同じだろう。
「久しぶりに、ちゃんとしたご飯食べたなぁ」
温かいご飯。明かりがついている家。そして、話し相手がいること。今までの私の生活から考えると、あり得ないことの連続だった。小さい時には当たり前だと思っていたものたちが、親の努力の結晶であることを知った時には一人で泣いていたっけ。
ボーッと車内のチラシを眺めて思い出していた。いつ、帰れるだろうか。
「次はぁ、○○駅です。お降りのお客様は、もうしばらくお待ちください。次はぁ……」
最寄駅に着くアナウンスが耳に入り、ずんっと体が重くなった。また、長い一日が始まるのか。昨日のあの二人のやり取りでだいぶ元気にはなったけど、たった一日だ。またしばらく帰るのが遅くなるのだろう。
散々二人には忠告されたのだが、きっと無視することになる。ケイさんに怒られるだろうなぁ、と思いながら鉛を引きずりながら向かった。
今日の上司は機嫌が悪いようだった。出社してから挨拶しても、返ってこない。むしろ返ってくる方が珍しいのだが、最近はよく「おはよう!」と爽やかに挨拶をしてくれていた。
でも、今回は私の挨拶に対して舌打ちで返してきたので、虫のいどころが悪いのだろう。仕方がない。今日も昨日と同じように自分に与えられた仕事をこなしていく。少し離れたところで座っている男は足を組んで、スマホを見ている。
周囲がこんなにも忙しくしているのに、申し訳ないと思ったりしないのだろうか。ちらっと見ると、小さな肩を震わせているゆりちゃんが彼の目の前に立っていた。
「おいおいおい、ゆりちゃぁーん。こんなミスしちゃって、申し訳ないと思わないのかなぁー?」
「す、すみません……」
「謝るんじゃなくて、誠意を見せて欲しいんだけどなぁ。誠意!」
「すみません、次は気をつけますので……」
「俺、困っちゃうなぁー」
ネチネチと嫌味を続ける上司。下を見て俯く彼女を覗き込もうとしている。その距離感はセクハラと言っても過言ではない。普通ならここで拒否することができるのだろうが、残念なことにここの会社は違う。そんな上手くいくわけがない。そう考えた時には自分の体は動いており、ゆりちゃんと上司の間に無理やり入っていた。
「なんだぁ? 町田、お前何か用?」
「申し訳ございません。こちら、私の間違った指示によって引き起こされたものです。なので、私の責任です。申し訳ございませんでした」
頭を直角よりも鋭く下げた。後ろからは「先輩っ」と泣きそうな声で私を見ているゆりちゃん。上司には見えないように手で止め、下がるように指示をした。彼女が立ち去ったのを確認した上司は「町田お前なぁ!」と怒声が響き渡った。
そこからは止まらない怒鳴り声と人格否定とも取れる悪口の数々。どこからそんなにも語彙が出てくるのか分からない。唾をかけられていることを感じながら、「申し訳ございませんでした」とひたすらに謝罪の言葉を繰り返していた。
散々罵声を浴びた後、もう一度深く頭を下げてから自分のデスクへと戻った。そのタイミングでゆりちゃんが声をかけてこようとしたのだが、「大丈夫だから」と頬を無理やり動かして微笑んだ。きっと引きつっていたと思う。でも、私にはまだ仕事があるから。数時間にも及ぶ説教の後はひたすらに自分の手を動かした。
周りが帰り支度をしているのが目に入った頃には、上司の姿は消えていた。憂さ晴らしをすることができたからなのか、スキップをしながら退社したとか。はぁ、とため息をついて自分の机の上に置かれている書類の山を目にした。
このご時世、すでに電子書類やリモート会議などできるというのにこの会社は未だに昭和から進んでいない。この作業ももっと効率化した方がいいのに、と思っていてもそんなことをするお金がないと言われて終わりだ。それならお偉いさん方がいつも経理に出している『接待』と言う名のキャバクラはなぜ経費で落とされているのか知りたい。
「何時に帰れるかなぁ」
「今すぐに決まってんでしょ」
「うわぁ! え、ケイさん? 何で会社に?」
「何でって、あんたがいつまでも帰って来ないからじゃない。今何時だと思ってんの」
「何時って、え! 九時?」
嘘でしょ、と声が漏れた。目の前に立っている彼は、昨日見たままの格好。というか、人の机の上に立つってよくないと思うんだけど。
それにしてもこの仕事を終わらせるまで帰れないと思っていたのだが、こんな時間になっていたとは。どうで同僚たちの声が聞こえなくなったわけだ。最低でも数時間は残業することになっているこの会社では、ほとんどの人が七時には帰っている。しかし、私はその中でも特別遅く、ほぼ毎日九時を過ぎているのだ。
「ほら、早く帰るわよ。帰り支度しなさい」
「いや、無理だって。こんなにも仕事が山積みに……」
「あんた、一週間以内に死ぬみたいよ」
「へ?」
「神に確認したの。あ、そいつ私の上司ね。あいつ、『早く負の感情を刈り取って来い。さもなければお前の働く期限を延ばすぞ』って脅してきやがって。本当、人使い荒いわよねぇ。あ、死神だから人じゃないわね」
軽い報告のように言う彼。神に確認した? 昨日話していた内容がそのまま起きるってこと? 動いていた手はぴたりと止まり、「はーあ」とため息をついている彼をじっと見つめた。変わらず分厚いローブを頭まで被っているケイさん。大きな鎌を担いだまま、ヤンキーのような座り方をした。
「ほら、どうするのよ。死にたくないの? 死にたいの?」
「そ、それは、その……」
グイグイと質問攻めをしてくる時計頭の彼。ギィっと音がしたのは古い自分の椅子から。年季が入っており、すぐにでも買い替えたいと思っていたのだが金を出し渋るこの会社では永遠に叶わないだろう。
当たり前のように生きてきて、当たり前のように働いている私からすると『生きるか死ぬか』の選択肢が現実的ではない。
どうしようか。どちらを選ぶのが、正しいのか。
「わ、私は……」
「せ、先輩!」
「え、ゆりちゃん? どうしてここに……」
「そ、それが取引先の方から電話が来ていて……って、今誰かと話していませんでした?」
「誰って、目の前にいるじゃん」
「いや、先輩一人ですよ?」
何でそんな嘘を、と言葉が出そうになった。ちらっと彼の方を見ると、首を傾げている。もしかして、私だけに見えている? いやいや、そんなことはない。だって、黎ちゃんに触れることができたのだから。混乱する頭の中で仕事を優先しようと懸命に働きかける。
「何かトラブルでもあったの?」
「そ、そうなんです! 私が担当している方から納品ミスがあるとか言われて」
「もしかして、松村さんのところ?」
「そ、そうです……ど、どうしましょう、先輩……」
震えているのは声だけではなく、小さな体も同じだった。その名前を聞いた瞬間、全身から血の気が引く感覚がした。この会社の中でも最重要取引先とも言える会社。大規模展開していることもあり、こことは雲泥の差だ。
そんな会社に対して失敗があったと知られたら。想像しただけで倒れそうだ。どうする、どうする。何を、どこから手をつければ。
「ちょっと、あんた……」
「ごめんなさい、ケイさん。私、このまま死ぬことになるかも。やっぱり、放っておけないよ」
「……そう。好きにしなさい。私は、警告したからね」
スッと闇に溶け込むようにして消えたケイさん。諦めたような、それでいて悲しそうな声に胸が締め付けられた。彼に出されていた生死の選択の前に立たされた今でも、目の前にいる後輩を優先してしまう。それほどまでに、私はお人好しで、利他主義なのだろう。
「大丈夫、大丈夫だよ。私が何とかするから」
「先輩っ……わ、私も何かさせてください!」
「ううん、ゆりちゃんは帰って。これは全部、私のミスだから」
「でもっ」
「ほらほら、早く帰って寝なさい。私がどうにかするから」
ね、と念押しすると負けたのか大人しく返事をした。溢れでた涙をハンカチで拭き、彼女の背中を見送った。本当は、どうにもならない。以前似たようなミスをした定年間近の社員が解雇されていた。解雇された方がまだマシかもしれない。地獄から抜け出せることを考えると、クビになった方が楽な気もする。
「大丈夫。私は、大丈夫だから」
ただひたすらに、言い聞かせた。誰かに言われたわけでもなく、誰かに聞かれたわけでもない。言葉にしないと、自分の心が壊れてしまいそうだから。
考えつくだけの対処法を自分の中で思い出し、紙に書き出した。順番を間違えれば次は何をさせられるか分からない。ゆりちゃんを、後輩のために知恵を絞り出し、夜が明けるまで会社に居座った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます