第1話『朽草が舞い上がるまで』②

「ふん。やっとできたのか。このノロマが」


「はい。申し訳ございません」


「じゃ、次これね。また失敗するんじゃねーぞ」


「……はい」


カタカタとタイピング音が響く中で、時々聞こえてくる怒声。その声を聞く度に体が反射的に動く。あまりにもビクビクしていると怒られるので、あくまで自分のことではないと心に言い聞かせる。自席に戻り暗くなりかけているパソコンを明るくする。


次は……これか。転職してここ数年でほとんど全ての仕事を任されることになった。よく言えば頼られている。悪く言えば、いいように使われている。私より後に入ってきた子達は上司ではなく私に質問をしてくる。なぜかって? それは、今日の姿を見ていれば分かるだろう。


「お、ミカちゃーん? 俺、俺だよ! たーかーし! 今日もミカちゃんに会いに行っちゃおうかなー? ナーンチャッテ!」


まぁ、お察しの通りだ。巷で噂のおじさん構文全開で話をしているのは、先ほど私が資料を渡した相手。私たちの上司。今日はかなりご機嫌のようだ。恐らくお気に入りのキャバ嬢の『ミカちゃん』に会いに行くのだろう。


どれほどお金を使っているのかなんて知りたくもないが、後輩に声をかけてお金を落とすように指示しているとかしていないとか。どこからどう見たってパワーハラスメントでしかないのだが、そんなことは報告できない。噂では彼は社長の親戚らしい。何をしても許される環境にいるせいか、最悪な俺様が出来上がったようだ。


「あ、あの、町田先輩。今、よろしいでしょうか……」


「あぁ、ゆりちゃん。大丈夫だよ。何かあった?」


「こ、この部分なんですけど……」


声を震わせて私に話しかけてきたのは今年入ったばかりの新入社員、ゆりちゃん。新卒でこの会社に入ってきたのが運の尽き。上司に目をつけられて、毎日のようにセクハラを受け続けている。断る時もあるが押しに弱いこともあり、いいようにされている。


差し出された資料を見て指示をする。きっと突然振られた仕事だったので分からないところだらけだったのだろう。安心させるためにも的確に指示を出さねば。メモを取っていることを確認しながら「他に分からないところ、ある?」と聞くと首を横に振っていた。


「ありがとうございます! いつもすみません」


「いいのよ。気にしないで。ほら、早く自分の席に戻りな」


元気よく返事をした彼女は小さな体を更に小さくさせて去っていった。どこからどう見ても小動物にしか見えない彼女は私よりも小柄だ。なのにこんな職場で必死に耐えている姿を見ていると、心臓がキューっとなる。彼女だけは、何が何でも守らないと。


「よしっ」


一人で気合を入れ直し、再度パソコンへと向き直った。もちろん、誰にも聞こえないように。一人で頑張ることは慣れている。小さい時に『見えないところでも努力しなさい。誰かが必ず見ているから』と言われたけれど、そうは思わない。というより、思えなくなっている。


もしそれが事実なら、私はとっくの昔に救われているはずだ。誰かが私を、助けてくれるはずだ。


「じゃ、俺先に帰るわぁーお疲れぇー」


機嫌の良い上司の声に反射的に「お疲れ様です」と反応した。もうそんな時間か、と思い時計を見るとまだ昼の三時。五時が定時なのによく堂々と帰れたものだ。


呑気に鼻歌を歌っている姿を見ると腹立たしくもなるが、無理やり心の中に閉じ込めた。まだ山ほど仕事が残っている。主にその上司の仕事なのだが、どうしてか全て私たちに回ってきているのだ。彼に感情をかき乱されている場合ではない。目の前の仕事を終わらせて、今日こそ家に帰りたい。


黙ってひたすら指を動かし、片手でマウスを忙しなく移動させる。できなかったブラインドタッチも今ではお手のものだ。


というか、昨日から考え事が多いような。あの二人に会ったからかなぁ。限界まで感情を抜いていたのに変に思い出してしまって心が苦しくなる。できるだけ、できるだけ感情を入れないようにしないと。ふぅーと深く息を吐く。


「先輩、これ終わりました!」


「ゆりちゃん、ありがとう。今日はもう帰っていいよ」


「え、でも、先輩はまだ仕事が……」


「大丈夫、大丈夫。今日はさすがに帰りたいから、もうすぐ切り上げるよ」


「そ、そう、ですか? それじゃあ、お先に失礼します」


礼儀正しく頭を下げた彼女は席から鞄を持って、もう一度私に頭を下げてから出て行った。あたりを見渡すとほとんどの人間が帰った後のようで静まり返っている。定時が五時なのに今はもう七時。残りの入力は後少しだし。八時にはここを出られるかな。頭の中で予定を組み立ててからもう一度パソコンに向き合った。


「……あれ、もうこんな時間?」


ふと時計を見るとすでに八時を回っていた。思っていたより時間が経っていたらしい。画面を見るとほぼ完成に近づいていたので明日で終わるだろう。我慢していた『帰りたい』という気持ちが溢れてきたのでグッと伸びをする。


保存した内容を確認し、パソコンの電源を落とした。カバンに最低限のものだけ入れ、貴重品があることを確認して会社を出た。


時間が時間なのか、酔っ払っている人と何人かすれ違った。ほんのりお酒の匂いがして、どこからか美味しそうな匂いもしてきた。グゥとお腹が鳴る。そういえば、お昼ご飯食べてなかったな。仕事を終わらせることを優先にしていたので頭に浮かんでもこなかった。


意識したら一気にお腹が空いてきたようで、フラフラする。コンビニで何か買って帰ろう。地下鉄に揺られながらぐうぐうなるお腹を必死に抑えた。


家の最寄り駅に着いてからそのままコンビニへ直行。ぼんやりとした頭の中で何を食べようか考えたが正常に働くわけもなく、適当に欲しいものをカゴの中に入れた。レジでお金を払って外へ出たらひたすら歩く。


自分のアパートを見つけるとホッとした。二階建てのアパートはこぢんまりとしている見た目で、個人的にはかなり気に入っている。階段を上って手慣れた手つきで鍵を開けた。


「ただいまー……あーつっかれたぁー……」


「あらまぁ、だらしなわねぇ」


「へ?」


「お邪魔しています、町田ひかりさん」


「な、何で私の名前……っていうか、ここ私の家なんだけど……」


驚くことにも元気がいるらしい。全ての疲れが溜まっている私にとって、良いリアクションもできないようだ。それもそのはず、入ってから真っ直ぐ先にある部屋から顔を覗かせたのはあの二人。時計頭の男の人と真っ白なワンピースを着た少女だった。


「散らかっていたので片付けさせてもらいました。ご迷惑だったでしょうか?」


「え、あ、いや、大丈夫。ありがとうね」


言われてみれば何もしていないのに床が綺麗になっている。台所に入れていたゴミが全て消え、一つの袋にまとめられているようだ。いつかやろうと思っていたことは全て終わらせてくれたらしく心が少し楽になった。重たい足を動かしてワンルームの部屋へ。


「あれ、ここも片付けてくれたの?」


「はい。その、片付ける時間がないのかなって、思って」


言葉の最後がどんどん小さくなっていく少女。見えないはずの尻尾が下がっているよう。どうしてそんなに申し訳なさそうな顔をするのだろうか。


「ううん、ありがとう。しっかりしてるんだね」


そっと彼女の頭に手を乗せて軽く撫でた。お化けかと思っていたのだが、ちゃんと触れることができる。よかった、私の幻覚ではないようだ。そこに安心するのかと突っ込まれそうなのだが、そんなことはどうだっていい。久しぶりに人のいる家に帰ったのだ。たったそれだけのことが嬉しかったから。


頭を撫で続けていると隣から「ちょっと、私のこと忘れてない?」と口を挟んできた。


「あ、ごめんなさい。えーっと、お名前とかあったり……」


「あるわよ。私はケイ。この子はれい。あんた、昨日の夜の話忘れたの? 早く帰りなさいって言ったでしょ」


「いやぁ、これでも早く帰ってきたんだけどなぁ」


何言ってんのよ、と呆れたようにため息をついていた。ケイさんは変わった話し方をするらしい。声からして男性だろうけど、口が悪いのも入っているのか棘を感じる。


黎と呼ばれた女の子は隣で「ケイ、なんか偉そうです」とズパッと切り裂いている。なかなかの鋭い言葉の持ち主だ。二人の関係を考えていると、ぐうううと一際大きな音が鳴った。


「あ、ご飯忘れてた」


「うっるさ! もしかしてあんた、お昼ご飯食べてないとかじゃないでしょうね?」


「え、何で分かるの?」


「やっぱり! ほら、貸しなさい! って、インスタントばかりじゃない!」


袋の中身を見て、もー、とぶつくさ文句を言っている姿を見てふふっと笑ってしまった。懐かしいなぁ。お母さんも似たようなこと言っていたっけ。何かに集中するとご飯を忘れてしまう私にいつもおにぎりを作ってくれていたなぁ。


あれからもう十年くらい経ったのか。うろ覚えの記憶を探っていく。心臓だけでなく胃もキューっと絞られるようだ。


「あの、町田ひかりさん」


「んー? ひかりでいいよ。黎ちゃんって呼んでもいい?」


「は、はい。その、ケイが言っていたことなんですけど」


「あぁ、死ぬって話? もしかして私、もうそろそろ死んじゃう感じ?」


持って行かれたコンビニの袋とは別でカバンに入れていたスイーツを取り出す。限定で出ているプリン。お値段は張るが、美味しさは比例すると私の長年の勘がそう言っている。コンビニの店員さんが添えてくれた透明のスプーンを取り出し、ペリッと蓋をめくった。


「もうそろそろ、と言うよりもうすぐかもしれません」


「かなり曖昧だね。黎ちゃんたちって一体何者?」


「私たちは死神よ。文字通りね」


一口目をすくおうとしたら目の前にあったプリンが消えた。


「私のプリン!」


「ご飯がまだなんだから後にしなさい! 正確に言えば私は死神。この子は自分の魂を探している幽霊みたいなものよ」


没収ね、と言ってそのまま愛しのプリンを持って行かれた。うぅ、私のプリンちゃん。かわいそうに。あとで必ず食べてあげるから待っててね。


「ケイの言う通り、私は自分の魂を探しているんです。それよりも、ひかり、さんのことです」


「あぁ、そうだったね。それで、私はどうなるの?」


「ひかりさんは今、不幸が不幸を呼んでいる状態です。私たちは本当は魂を刈り取るのが仕事ですが、基本的に人の見えない感情や空気を刈り取るのが主な仕事です。ひかりさんは異常なほどに不幸のループに入っています」


「不幸のループ?」


淡々と説明がされていく。話を聞いている最中に「こんなに小さいのにしっかりしているなぁ」などと他人事のように考えていた。自分に危機が迫っていると言われても、いまいち分からない。目の前のことで手一杯だから、未来の自分のことなんて考えられないのだ。


真剣な顔をして話している黎ちゃんには申し訳ないが、どう反応するのが正解なのか分からない。


「そうです。不幸のループの中にいると、私たちでも刈り取れないものが出てくるのです。そうなると手が付けられなくなります。だから、まだどうにかできるうちに休んで自分の幸せを作って欲しいのです」


「幸せ、かぁ」


必死に説得しようとしている黎ちゃん。久しぶりに聞いた言葉で、ふと地元の蛍を思い出した。あの時は何も考えることなく、ただこの日々が永遠に続くと思っていた。友達はずっと友達で、いつでも会えるものだと思っていた。


でも、今は違う。幸せとは縁遠い生活をしている。どうにかして人間の形を保っている状態。これが本当に、人の生活だと言うのだろうか。

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