利他的シンデレラ
茉莉花 しろ
第1話『朽草が舞い上がるまで』
「おい、
「す、すみません……」
「すみません、じゃねぇんだよ! いーつー成長するんですかぁー?」
懸命に頭を下げることはいつの間にか習慣になり、自分のつむじを相手に見せるのは慣れてしまった。頭に飛ばされているのは罵詈雑言だけでなく、上司から発せられる液体。はじめは気持ちが悪いと思っていたそれも、最近では何も感じなくなってきてしまった。クラクラする。また、目眩か。
「ちっ おら、早く自分の席に行けよ。はじめからやり直しな」
「はい、すみませんでした」
もう一度、深く、深く、頭を下げた。これ以上頭を下げることなんてできないと思っていたのだが、意外とそうでもないらしい。ぴっちり上半身と下半身を折りたたむように引っ付けた。ギィっと音がした椅子はこちらを向かなくなったようだ。キャスターの動きを確認して私は倒れないようにゆっくりと体を持ち上げ、呼吸を再開した。
ここではこのような雑言が飛ぶのは日常茶飯事。やれ頭がおかしいだの暗いだの、人格否定のオンパレードだ。この世界には労働基準監督署というものがあるらしいのだが、そんなのは夢のまた夢。
誰かが報告をしたと聞いた社長は慌てて取り繕うように『笑え』と強要されたのを覚えている。いわゆる、ブラック企業だ。
「はぁ……」
自分の席へと戻ると自然とため息が出る。徹夜で完成させた資料をもう一度作り直すらしい。納期が近いものよりも優先して取り組んで焦っていたのだが、そもそもいきなり『これ、よろしくね』とどさっと資料が置かれる方がおかしいのではないだろうか。返事をする前に去っていく上司は、その後楽しそうにカバンに荷物を詰めていたのが昨日の話。
カチッとマウスを動かすと暗かった画面が明るくなった。真っ黒な画面に一瞬化け物が映ったと思ったのだが、それは紛れもなく私の顔だった。一体、何の茶番だと言うのだ。
どうしてこうなったのか、頭の中で自分のここ数年の出来事を思い出していた。前の会社が潰れ、どうにかして生きていかないとなった時。就職難と言われるだけあり、どこもかしこも落ちまくった。
地方にいる両親に心配させないように必死に取り組んできた結果が、これか。真面目に頑張ればどうにかなると言っていた有名人を、私は心の底から呪ってしまいそうだ。
「……疲れたなぁ」
画面に向かってひたすら動かしていた手が、ゆっくりと止まった。ぼそっと呟いた言葉に数秒後、ハッとして辺りを見渡した。こんなこと聞かれていたら、次は何を言われるか分からない。それこそ、靴を舐めろと言われたら自分の人間としての何かが終わりそうだ。
たらりと垂れた冷や汗は杞憂だったようで、外は真っ暗になっていた。考え事はタイムスリップするかのように時間を浪費してしまう。考えれば考えるほど、沼にハマってしまうのも考え事の悪い面だ。
背持たせに体を預け、背伸びをする。ゴキゴキと何の音か分からないそれは最後に大きな音を立てて力を抜く。
「あと、ちょっとだし」
誰に言われたわけでもないが、言葉に出してみた。怒るような人もいない。どうせ、みんなどこかに飲みに行ったのだろう。アルコールを摂取しないとできない話があるとか言っていたが、そんなことで話ができるのなら仕事中も飲んでいればいいと思うのは私だけなのだろうか。いつまで終わるか分からないこの作業。目も霞んできた。自販機でコーヒーでも買ってこようかな。
ふらつく体ともたつく足をどうにか動かしてエレベーターへと向かう。SNSでも見ようか。指紋認証してアプリを開いた時、ちらっと白い影が視界の端っこに入った。
「……? あれ、誰かいたような」
ヒラっと見えたのは白いスカートのようなもの。私の視界に入るほど低いそれは、少女が着ているような服だったはず。スマホから顔を上げるが、誰もいない。周囲を見渡しても自分一人だけ。やっぱり、疲れているのかな。
「今日は、四時間は寝たいなぁ」
チーンとタイミングよくエレベーターの音が鳴った。閉じたスマホを再度開き、幸せそうな投稿をしている友人たちを片っ端からハートを押していく。一種の作業になっているが、ここでも真面目さが抜けない。笑顔でピースをしている姿や指輪をはめて幸せそうな顔を見るたびに、自分の心が軋んだ。
何も考えることなくスマホを見ながら歩き、会社の外にある自販機の前に立つ。眩く光っているそれに目を細め、小銭を入れた。赤く光るボタンを押すとガタンと音が鳴る。屈んでコーヒーの缶を取ろうとした。
「あんた、そのままだと死ぬわよ?」
「へ?」
上の方から声がした。足は見えない。折り畳んだ体を元に戻して周りを見るが、誰もいない。頭を傾げていると、「どこ見てんのよ」と不機嫌そうな男性の声が聞こえた。周りじゃない。上だ。
下げ慣れた頭を上に向かせると、自販機の上に座っている一人の……男性、いや、時計の頭をしている人間。その横には、小さな少女が同じく覗いていた。
私は、夢でも見ているのだろうか。目をパチパチと瞬きさせても光景は変わることなく、そこには二人がいた。横にいる少女は真っ白なワンピースを着ており、私が先ほど見たのはこの子だったのだろうと予想する。いや、冷静に分析している場合ではない。
「私、相当疲れているんだ……」
「ちょっと、疲れのせいにしてんじゃないわよ」
「声まで聞こえるぅ」
「幻覚じゃないですよ、お姉さん」
低い声しか聞こえなかったのが、可愛らしい鈴のような声が聞こえた。幼い、小学生くらいの子。白いワンピースの袖から絹のように透き通った腕が二本、足が二本見えている。それとは対照的な真っ黒な髪は丁寧に手入れされているのか、天使の輪が見えた。数年美容院に行っていない私とは雲泥の差だ。
「お姉さん。これ以上無理すると、この人の言う通り死にます。今ならまだ間に合います。早く帰ってください」
「えー……ごめん、それは無理かな。これ終わらせないと、それこそ私死んじゃうし」
かこっと音を立てた。ひんやりとしているコーヒーを喉を通して胃の中へ流し込む。カフェイン中毒になりそうなほどよく飲んでいるが、そうでもしないと仕事が終わらない。途中で終わらせたら何を言われるか分かったものではない。空っぽになったことを確認して、ゴミ箱の中へと入れた。
「じゃ、私、仕事あるから。ありがとう、気にかけてくれて」
上にいる二人に声をかけながら手を振り、もう一度オフィスの中へと戻っていった。
コーヒーを飲んだおかげで頭が冴えてきた。というか、あの夢のような出来事があったからなのか目がぱっちりと開いてしまったようだ。これが覚醒状態というのだろう。外に出ている間に消えてしまった電気により室内は真っ暗だが、パソコンの光によってぼんやりと自分の周りだけ光っている。まるで、蛍のようだ。
そういえば小さい時に地元で見たきり、そのまま二度と見ることなくこっちに来ちゃったなぁ。死ぬ前でいいからもう一回、見たいなぁ。
頭の中でぼんやりとそんなことを考えていた。考え事をしていても自分の手は動く。転職して数年が経ったとは思えないほどの仕事量に文句すら言えない。反抗した人間を何人か見たが、みんな揃って辞めていった。断ることのできない人間だけを置き去りにして。
だけど、彼らをいくら責めたって今の状況は変わらない。辞める勇気のない自分が悪いのだから。
「……繁忙期終わったら、帰ろうかな」
誰にも拾われない私の声はオフィスの中へ消えていった。
資料の作り直しは結局朝までかかり、家に帰ることすら叶わなかった。完成してから腕時計を見たが、始業時間まで残り数時間ほどしか残されていなかった。どうしようかと少し考えたが、近くにある漫画喫茶を思い出す。シャワーくらいは浴びた方がいいだろう。季節も季節だし、何しろ自分も嫌な違和感がある。思いつくままに貴重品だけ取り出し、カバンの中に突っ込んだ。
「そういえば、暑そうな服着てたなぁ」
エレベーターに乗り込んでから昨夜のことが頭の中を過った。時計頭に気を取られすぎていたこともあり、蒸し暑い季節に似合わないローブを着ていた。
ローブというより、マントに近いだろうか。体だけでなく頭まで覆っている姿はまさに、死神のよう。
「いやいやいや、そんなわけ」
「お次のお客様どうぞー」
一人で頭を横に振り、店員さんの声でハッとした。早朝の漫画喫茶は人が並んでいたようで順番が回ってきたことに気が付かなかった。いつも使うプランを言い、レンタルタオルも同様に注文した。さっさとシャワーを浴びよう。あんな夢みたいなことを思い出していてはまたミスをして何を言われるか分からない。
今日まで頼まれていた仕事はあれだけだったはず。最近入ってきた人、この前めちゃくちゃ怒られていたよなぁ。今度話を聞こう。一人で心細いと思うし。温かいお湯を体全体にかけ、ほっと息が出た。また無意識に気を張り詰めていたらしい。自分ではそんなことないと思っていても体は素直なようだ。
「……行きたくないなぁ」
ざーっと水の流れる音が耳の中に響く。溢れてしまう言葉。大学時代に仲良くしていた友達とはいつの間にか疎遠になり、連絡取る回数も減ってしまった。卒業してから一年くらいはメッセージを送っていただろうか。でも自分のことで手一杯になってしまってからは、誘うことも誘われることもなくなってしまった。
だめだ、これ以上考えるとまた悪い方向へ行ってしまう。溢れている水を止め、待っていて欲しくない場所へと行くために準備を始めた。
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