7-3

「デレクさん!」


 ちなみはかくれていた屋根の下から飛び出して、上体じょうたいを起こしたデレクの元に駆け寄った。


「大丈夫ですか!?」


「いたのか、じょうちゃん……いや、当然か。そいつがいるんだもんな」


 全身を血だらけにしつつも、デレクはちなみを安心させるようにへらりと笑った。


「見ての通りさ。俺のかわいいプライドはズタボロだが、身体の方はぼちぼちだ。まあ、そこの『ザミエル』さんが見逃してくれるなら、の話だけどな」


 そう言うと、デレクはあごでちなみの背後はいごを示した。


『チナミ……ちょうどよかった。今からきみに会いに行くところでした』


 〈ザミエル〉が翼を広げて突風とっぷうを発生させる。すると、交差点をおおっていた炎が一瞬でえ、周囲にはぶすぶすと黒煙こくえんを上げる残骸ざんがいだけが残された。いつの間にか雨も上がっており、空はグレー色の曇天どんてんに戻っている。


「その声、その躯体くたい……やっぱり悪魔なの?」


 立ち上がりながらちなみが聞いた。


 すると、〈ザミエル〉の躯体が影のように黒く染まり、ほどけて、人間の姿へとしぼんでいった。小鈴が〈イフェイオン〉に変身するシークエンスの逆再生。またたく間に、三メートル超の巨人は一人の少女の姿へと変わってしまった。


 ちなみがあっと声をあげる。


 制服を着たその少女は、小鈴とそっくりな見た目をしていた。ただ、目つきは少し鋭くて、ひとみは〈ザミエル〉と同じライムグリーンになっている。小鈴と一番違っていたのはで、まさにあの『悪魔』が少女になったような印象だった。


「きみの知る悪魔ではありますが、もう名無ななしの悪霊あくりょうではありません。ボクのことはザミエルと呼んでください」


 そう言った少女が、ライムグリーンの目を細めて微笑ほほえんだ。


「大丈夫ですか、チナミ。ひどい顔をしていますよ」


「そ、そーかな……?」


 ちなみは黒い少女を呆然ぼうぜんながめることしかできなかった。そんなちなみへと歩み寄ったザミエルが、右手を伸ばしてほほを優しくなでてくる。


「髪もぼさぼさです。直しますから、かがんでください」


「え……うん、ありがとう」


 言われた通りその場にしゃがむと、ザミエルは丁寧ていねいにちなみの茶髪を整えて、綺麗きれいにサイドテールにむすび直してくれた。


「ねえ、悪魔」


「ザミエルです。痛いところはありませんか? ケガはないですか?」


 手をとったザミエルが、紳士的しんしてき仕草しぐさでちなみを立ち上がらせる。そしてちなみの身体に異常がないかをチェックし始めた。


「おい、俺のことを忘れてないか?」


 ちなみが振り向くと、あきれ顔をしたデレクが瓦礫がれきに身体を横たえながらこっちを見ていた。ザミエルはじろりとデレクをにらんだ後、ちなみの方に微笑みを向けてこう言った。


「少し散歩をしませんか」



   *****



 がらとなった静かな住宅街を、ちなみとザミエルが並んで歩いている。


 ちなみが最初に質問したのは小鈴のことだった。


「非常に残念ですが、シャオリン・ダンバースはこの世界から消滅しょうめつしました」


 目をせたザミエルが言った。


「消滅って……なんで急に!? だって、昨日は――」


「落ち着いてください。少し長くはなりますが、何があったのか説明します」


 それからザミエルは、ゆっくりと丁寧ていねいに、小鈴の過去について教えてくれた。


 小鈴は元々で、命を助けられる代わりに大人になったら身体を明け渡す契約けいやくを結んでいたこと。小鈴と悪魔はお互いに支え合いながら十一年間過ごしてきたこと。小鈴が人を殺してしまったこと。そして生きていることに絶望し、契約の完了を早めたこと。


「シャオリンが『無敵の引きこもりになるのが目的』だと言っていたのを覚えていますか」


「覚えてる、けど……」


「今、シャオリンはボクの中で夢を見ています。それも、彼女が望むままのとびきり幸せな夢です。シャオリンは幸福な夢を見たまま、ボクの中で溶けていく。そして、その意識は徐々じょじょ希薄きはくになり、あと数時間もすれば完全に悪魔ザミエルを構成するかてに変わります」


 横を歩くザミエルの顔を見る。ライムグリーンの瞳は細められていて、小鈴と似た童顔どうがん不本意ふほんいそうな表情を浮かべていた。


「『無敵の引きこもり』とはそういうことです。確かにシャオリンの敵はいなくなりました。なにしろ、この世界に彼女自身が存在しないのですから」


 歩を進めながらザミエルが続ける。


「ヒトが言うところの『心残り』がボクにあるとすれば、シャオリンに人並ひとなみ以上の豊かさを与えられたのかどうかわからないことです。ボクは悪霊あくりょうですから、人間にとって何が価値あるものなのか判断するのが難しい」


 ザミエルのとなりを歩きながら、ちなみは小鈴の言葉を思い出していた。


『これだけ生きてこれたのは、ズルして悪魔に助けてもらってたから! 小鈴はもう十分ズルをした。ただそれが終わるだけなんだよ』


『ちなみちゃんといるのも結構楽しかったよ。もう小鈴は十分生きられた。だから……っ』


『ごめんね』


『今までありがとう』


 ――助けられたと思っていた。


 小鈴の問題は命を狙われていることで、敵をやっつければ助かるものだと思っていた。しかし、真実はちがった。出会った時点で、小鈴はもう自分の人生を終わらせる気でいた。ちなみはただそれを手伝っただけで、何かを変えられたわけではなかったのだ。


「そんなのやだ……小鈴に会いたいよ。ねえ、なんとかできないの?」


 ちなみがザミエルの左腕をつかんで懇願こんがんする。その感触かんしょくがぞっとするほど小鈴と同じだったことが、殊更ことさらにちなみの絶望感をあおった。


「残念ながら難しいでしょう」


「どーして? だって、まだ小鈴はそこにいるんでしょ? だったら――!」


意地悪いじわるを言っているわけではありません。ボクにとっても、この結末は不本意です。シャオリンはボクの共存者きょうぞんしゃだ。できることならもっと長く、彼女には自由でいて欲しかった」


「じゃあ、そうしよ! 私も手伝う。なんでもするからっ」


 ちなみがそう言うと、ザミエルはうつむいて「申し訳ありません」とあやまった。


「悪霊の本質は、人類社会にわざわいをもたらす混沌こんとん機構きこうです。悪性を用いてヒトの願いをかなえることはできても、ヒトを救済きゅうさいすることはできません」


「でもでも、悪魔は今までも沢山助けてくれてたし……」


「その結果として、この状況が生まれました。契約けいやく満了まんりょうとなった以上、この結末はけられません。大きな川の流れを逆転させることはできないでしょう? それと同じで、この事象じしょうを逆流させることはできません」


「なんで……そんなのやだ。絶対やなのに……」


 ちなみは目に涙を浮かべて、ふるふると首を振った。


 けれど、それでどうにかなるわけではない。ちなみが駄々だだをこねたところで、小鈴がいなくなった事実は変えようがなかった。


 ザミエルが立ち止まりかけたちなみの手を取り、歩を進める。小さな手の感触かんしょくは、いつかちなみの手を握ってくれた小鈴のそれと全く同じだった。


「納得できないようでしたら、もう少しだけくわしい説明をしましょうか。ボクは悪魔デビルと名乗っていましたが、本当はただの悪霊デーモンでした」


 ちなみは何も言えず、その説明を呆然ぼうぜんと聞いている。


「『デビル』はサタンに連なる悪魔を指しますが、『デーモン』は人の悪意から発生する怪物のようなものに過ぎません。通常、デーモンは人間を宿主やどぬしとして悪意をかてに成長し、のちにその身体を利用して受肉じゅにくし、成体せいたいとなります」


 二人は住宅街を抜け、車通りのない道路にかけられた歩道橋ほどうきょうを歩く。


「ですが、シャオリンには宿主やどぬしとして二つの問題があった。まず、当時のシャオリンまだ幼く、そもそも宿主としての条件を満たしていなかった。一般的な悪魔憑あくまつきと違い、魔術的まじゅつてき契約けいやくを結ぶ必要があったのはこのためです」


 その説明をぼんやりと聞きながら、ちなみはザミエルに手を引かれて階段を下りていく。


「二つめの問題は、ボクがかてとするのに十分な量の悪意を、この十一年間で集めきれなかったことです。彼女は本質的に善良ぜんりょうだった。なので、契約を完了させるためには、悪魔の躯体くたいを外付けして不足分を補う必要があった。それが、五つの武器を必要とした理由です」


 ヒトをかてにして受肉するモノ。


 ヒトの願いを悪意でかなえるモノ。


 それが小鈴にいた悪霊、『悪魔』の正体だった。悪魔は小鈴の身体で受肉し、集めた部品を取り込んで成体となったのである。


 だとしても、今ちなみが触れているザミエルの肉体は、まぎれもなく小鈴と同一のものだ。ちなみはわらにもすがる思いで、前を歩く悪魔にこう聞いた。


「じゃあ、小鈴の身体はどーなっちゃうの? 悪魔――ザミエルは、これからどうするつもりなの?」


「そうですね」


 少女の姿をした悪魔が言葉を続ける。


「通常、成体となった悪霊あくりょう悪性あくせいを振りまくために行動します。人間を誘惑ゆうわくして堕落だらくさせ、疑心ぎしん暗鬼あんきにさせて不和を招き、社会を混沌こんとんおとしいれて災いを起こす。そうして生まれた人間の悪意が、再び新しい悪霊を育成する。ボクは混沌こんとん機構きこうですから、そのようにヒトの願いを叶えていくことになるでしょう」


 はっとしたちなみが顔を上げ、ザミエルの横に並ぶ。


「どーしてそんなことするの? ほんとにそれがやりたいことなの?」


「その問いは意味を成しませんよ。なぜヒトが呼吸こきゅうをし、生活をし、社会を形成し、種族を存続しゅぞくさせるのか。そこに理由はないでしょう? ボクの場合も同じです。ボクたちは皆システムだ。その役割やくわりがたまたま悪性を振りまくことだっただけです」


「そんなのって……でも……」


 何も言葉が出てこなくなってしまい、ちなみは口ごもった。


 小鈴がいなくなって、悪魔はザミエルとなり、悪性を振りまく存在に変わってしまった。こんな結果はあんまりだ。けれど、その理不尽りふじんなげいたところで状況は変えようがない。


 あまりに問題が大きすぎる。全ては終わってしまったことで、ちなみにできることは何一つ残っていなかった。


ってきましたね」


 ザミエルのてのひら水滴すいてきねる。


 ぽつぽつ落ちた雨粒あまつぶが、さめざめと大通りをらしていった。


「『やりたいこと』と言いましたか。ボク自身の趣味しゅみ嗜好しこうということなら……」


 言いながら振り返ったザミエルが、ちなみに微笑ほほえみかける。


「ボクはきみが好きです。フライシュッツ」


 そう呼ばれて、ちなみの身体がびくりとふるえた。歩み寄ってきたザミエルが右手を伸ばし、うっとりとした表情でちなみのほほを優しくでる。


驚異的きょういてきな生存能力を持って確実にターゲットを破壊する、それがフライシュッツの本性ほんしょうだ。ボクの力があれば、その才をもっと活かすことができる。きみのことをもっとかがやかせられる」


 熱に浮かされたようにザミエルがうたい上げる。


 ちなみは本当におかしくなってしまいそうだった。小鈴に会えない悲しさと、フライシュッツと呼ばれた気分の悪さで、思考がぐちゃぐちゃになってまとまらない。その場でひざをついてしまいそうな悪寒おかんえながら、ちなみはザミエルにこう聞いた。


「みんな、私のことを覚えてなかったの。友達も、クラスの人達も……お母さんも。それで、みんなこの街からいなくなっちゃった」


 人気のない大通り。


 歩いているうちに戻ってきていたらしく、その先にはちなみが通う高校の校舎がある。平日の午前中だというのに、学校に人の気配けはいは全くない。恐らく、クラスメイト達も皆どこかにいってしまったのだ。


「ねえ、これってザミエルがやったの?」


「その通りです」


 ちなみが聞くと、ザミエルが少女のようにはにかんでうなずいた。


「きみの居場所いばしょがここではないことを思い出してほしかった。フライシュッツは他でもなく、破壊を振りまくために生まれてきた。破壊の力でヒトの願いを叶える、その在り方は悪魔そのものです。きみは破壊のカリスマだ。だからボクは、きみの力がうらやましい。そんなきみをしんから欲している」


 嬉しそうに言ったザミエルが手を伸ばしてくる。


「ちがう」


 ちなみは後ずさりして、ふるふると首を振った。


「私は……私はフライシュッツじゃない」


 言いながら自分の身体を抱き、ザミエルの手から逃れる。


 身体に異物いぶつが入ってくる感覚を味わって、ちなみは小さく嗚咽おえつらした。もう、そんな名前は聞きたくない。その記録を思い出すほど、圧倒的あっとうてきな戦闘力を行使こうしするほど、たった二年分しかない『穂高ちなみ』がうすっぺらく思えて苦しかった。


 だって、ちなみには『過去』というものが存在しない。そこにあったのは、フライシュッツという少女の記録でしかなかった。


 普通の人なら当然持っているべきパーソナリティが欠落けつらくしている。楽しかった思い出も、辛かった思い出も、好きだった人、場所、体験した出来事……ちなみにはそれが一つもない。空っぽで、真っ白で、それがたまらなく不安だった。


 しかし、


「いいえ。きみはフライシュッツです」


 優しげな顔をしたザミエルが、やんわりとちなみを拒絶きょぜつした。


「これまでの戦いがそれを証明しています。古代メソポタミアの神像しんぞう躯体くたいも、埒外らちがいの力を持つ異方の機兵も、天使に連なる十字の騎士も、誰もきみには敵わなかった。それに、きみは自分で何度も繰り返していましたよ。『戦いだけが自分の』だと」


「でも、私……」


「きみの本当の価値は、その戦闘力にあるんです。『穂高ちなみ』は、フライシュッツをりつぶすために用意された作り物の人格です。それは取るに足らない、意味のない仮初かりそめ自我じがですから、


 それを聞いて、ちなみが目を見開いた。


 誰かが用意した作り物の人格。


 意味のない仮初かりそめの自我。


「ああ、そっか……そーなんだ」


 ふいに納得できてしまった。


 『フライシュッツ』が異物いぶつなのではない。むしろ、『穂高ちなみ』の方が異物だったのだ。そんな人間は最初から存在しない。意味も価値もないただのまやかし。薄っぺらいのも当然だ。最初から、この身体は『フライシュッツ』のものだったのだから。


「そーだよね、あは、は……」


 苦しい。


 息ができない。


 視界がぐらりとれて、目の前が真っ暗になった気がした。


 立っていられなくなり、雨の道路にへたり込む。身体がしびれたようになって力が入らない。耳鳴みみなりがして、ザミエルの声も、降りしきる雨の音すら聞こえなくなった。


 ――穂高ちなみは何者なのか。


 その答えは、その中身は空っぽだった。ちなみという人格は誰にも必要とされていない。もし『フライシュッツ』に価値があるなら、むしろちなみは邪魔者じゃまものだ。ちなみはいらない。存在しない方がいい。


 


『さあ、立って』


 そう声をかけられ、顔を上げる。


 そこには、いつの間にか赤銅色しゃくどういろの巨人へと姿を変えた〈ザミエル〉がたたずんでいた。禍々まがまがしい巨人が、瞳をライムグリーンにぎらつかせ、こちらに手を差し伸べてくる。


『立ってください、フライシュッツ。そして、ボクと一緒に来てください。今はまだ実感が持てないかもしれませんが、問題ありません。いずれ、きみは究極きゅうきょくの戦闘機構きこうとして完成することでしょう』


 かすむ視界に悪魔が笑う。


 雨の中、道路の真ん中でへたりこんだ少女は、巨大な悪魔を呆然ぼうぜんと見上げていた。世界が急速に色褪いろあせて、彼女を置いて遠のいていく。そうして、もろやわい少女のアイデンティティは粉々に打ち砕かれてしまった。


 残されたものは息苦しさだけ。胸をめ付ける痛み以外には何も残っていない。一刻いっこくも早くその苦痛から逃れたくて、すがるように巨人へと手を伸ばす――


「だめだよ」


 その時、なつかしい声が聞こえて、小さな背中が視界をさえぎった。


『これは予想外ですね』


 〈ザミエル〉が驚きの声をらす。


 現れたのは、制服を着た小柄な女の子。身体を明け渡し、消滅しょうめつしたはずの小鈴だった。

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