1-4

 ちなみが目をまたたかせて小鈴こすずを見る。


「ごめん待って、お茶飲んでいい?」


「うん」


 急にのどかわいてきた。スクールバッグをひざに置き、ペットボトルを取り出して緑茶を飲む。おいしい。


「えーっと……ちなみちゃんはただのハッピーJKだから――」


「さっきとおんなじこと言ってる。お茶飲んでも話はリセットされないからね?」


「だってぇ。よくわかんなかったし」


 ちなみが口をとがらせる。


「よく聞いて。ちなみちゃんは本当は女子高生なんかじゃなくて、戦うために生み出された強化人間きょうかにんげんなの。それで、世界最強の二脚操縦兵にきゃくそうじゅうへいとして育てられたんだよ」


「え~、うそだ~」


 へらへら笑うちなみに、小鈴がわざとらしくため息をついてこう言った。


「おバカなちなみちゃんにはむずかしすぎたね。口で説明してもわかんないか」


「ばっ……!? 待って待って、今のはちゃんとわかったからっ」


「ホントにい?」


 あわてて言いつくろったちなみを見て、小鈴がニヤニヤ笑っている。


 二脚兵装にきゃくへいそう


 手足をそなえた、人間型の兵器。さすがのちなみでもそのくらいは知っている。今朝みたいにたまにニュースで見かけるし、アクション映画にだって出てくるからだ。


 二脚にきゃくは戦車や戦闘機に並ぶメジャーな兵器であり、市街地など遮蔽物しゃへいぶつの多い場所での非対称戦ひたいしょうせん頻発ひんぱつする現代においては特に重用ちょうようされている。さらに、人型に近いゆえに写真うつりがいいため、各国軍事組織ぐんじそしきのPRでもよく取り上げられる。


 だから、ちなみのような女子高生でも、なんとなくその存在は知っているものだ。それ自体になんら不思議ふしぎなことはない。


「でもなあ。私、二脚兵装なんて乗ったことないよ? 絶対なんか間違まちがってるって。そもそも『最強』な人ってさ、ちなみちゃんみたいのじゃなくてもっとムキムキなんじゃない?」


「そう言うと思ってたよ」


 小鈴はそう答えると、小さく「悪魔あくま、お願い」とつぶやいた。


虚孔接続アクセス・アイズル:アルファ』


 どこからか中性的で機械的きかいてきな声が聞こえて、地面に大きな影が落ちる。


 その暗がりから、巨大な物体が音もなく浮上ふじょうしてきた。


 一見すると、それはダークオレンジの塊だった。しかしよく見れば、両膝りょうひざをついた巨大な人間型の機械マシンであることがわかる。頭部はバイクのヘルメットのようで、胴体と脚はシンプルな箱型。両腕は円筒形えんとうけいで、右手には大きな銃を持っている。


 二脚兵装。


 画面越しではない、本物の、実物の軍用兵器ぐんようへいきだ。


 それを見た瞬間しゅんかん、身体中に電流が走るような衝撃しょうげきを覚えた。同時に、見覚えのない映像が脳裏のうりにフラッシュバックする。この機体がどう動いて、どう戦うのか。その様子が、頭の中に鮮明せんめいな映像として流れ込んでくる。


「ヴェスパ……」


 気付けば、ちなみはそんな言葉をつぶやいていた。


「へー、ほんとだったんだ」


 小鈴が感心した様子でちなみのことを観察している。


「『VBB-1ヴェスパ』。イタリア製の第四世代型二脚兵装だよ。一応聞いておくけど、この機種の名前は元々知ってたわけじゃないよね?」


「や、ぜんぜん知らない! はじめてみた……はず、なんだけど」


 ちなみの言葉が尻すぼみになっていく。


「じゃあ、決まり。やっぱりちなみちゃんは最強の二脚操縦兵なんだよ。だからさっさとこれに乗って、虚像天使をやっつけてきて」


「待って小鈴ちゃん! さすがにそれはむり!」


 ちなみが慌てて首を横に振るものの、小鈴は取り合おうとしなかった。


「無理じゃないよ。できるよ」


「むりだって!」


「無理じゃない」


「むり!」


「早く乗って」


「むりだよお~~っ」


「くっつかないで! 暑苦しい!」


「あう」


 泣きつこうとしたちなみを押しのけて、小鈴がもう一度説明する。


「いい、ちなみちゃん。あなたのコードネームは『フライシュッツ』。小さいころから二脚操縦兵として育てられて、ずっとヴェスパに乗ってきた。だからこの機体の名前がわかったんだよ」


「そ、そーなのかなぁ……?」


 そんなことを言われても、どうしても実感はわいてこない。けれど、誰に教えられるでもなくこの機体の名前がわかったのは事実だし、もしかしたら小鈴の言っていることは本当なのかもしれなかった。


「とにかく一回乗ってみた方がいいよ。そしたら何か思い出せるだろうし」


 小鈴がちなみに笑いかける。


「だって気になるよね? 穂高ちなみが本当は何者なのか」


「……たしかに」


 どこかに落とした記憶。空白のままの十四年間。


 どんな経験をして、何を好きになって、どう生きてきたのか。落としてしまった楽しい思い出が沢山あったはずで、それを知らずにいるのはとてももどかしい。記憶がなくて困ったことはないけれど、思い出せるならそれに越したことはない。


 ――穂高ちなみは何者なのか。


 ちなみの『自分らしさ』は、今はまだ二年分しかなかった。残りの十四年分は空っぽだ。その空白を、この機体に乗ることで少しだけでも埋められるなら……このチャンスを逃すのは、かなりもったいないんじゃないだろうか?


「うわ、もう来た!」


 突然、小鈴がそんなことを言った。


 それと同時ぐらいに、どかん、と大きく空気が揺れた気がした。


「もうすぐ結界が破られる。虚像天使が来ちゃう!」


「えっそーなの? じゃあ、とりあえず小鈴ちゃんはさっきのトゲ巨人に変身して――」


「それは無理!」


 小鈴がちなみの言葉を食い気味にさえぎった。


「もう体力がそんなに残ってないから、今イフェイオンを出したら小鈴の方が干上がっちゃう。ねえ、ちなみちゃん。ほんとにお願い!」


 ちなみのダッフルコートのすそを握って、小鈴が上目遣いに懇願こんがんしてくる。


「ヴェスパに乗って、小鈴のために戦って?」


 小鈴はとても真剣な顔をしている。ちなみは誰かに頼られると嬉しくなってしまうので、こんな風にお願いされるとなかなか断れない。


 穂高ちなみは『世界最強の二脚操縦兵』らしい。そして〈ヴェスパ〉に乗れば、ちなみはなにかを思い出せるかもしれない。さらに、〈虚像天使〉をやっつけられれば小鈴のお願いもきいてあげられる。


 つまり一石二鳥だ。やらない理由はひとつもない。


「……うん、わかった。やってみる」


 そう言って、ちなみは〈ヴェスパ〉へと向き直った。


 頭の中に流れ込んできた情報を整理する。おぼろげながら、搭乗方法や機体の起動方法が見えてきた。ざっくりとしかわからなかったけれど、それだけわかれば十分だ。


 腰あたりのステップに足をかけ、背中の手すりを掴んで機体をよじのぼる。機体背部にある鋼鉄製のドアをあけると、真っ暗な操縦室が見えた。入口の上にあるグリップをつかみ、その中に身体をすべりこませる。


 ほぼ同時くらいに、どかん、と音がした。


 いっそう大きな音が空間を震わせている。


 ちなみはあわてて扉を閉めた。中は真っ暗で、頭上のペリスコープから漏れる淡い光が唯一の光源だ。肩に掛けていたスクールバッグを座席の隙間すきまに押し込み、ついでにダッフルコートも脱いでその上に置く。


 足を伸ばすと、ローファーがペダルに触れた。がこがことって具合を確かめてみる。目の前には五枚のモニター。手元には二つの操縦桿と、沢山のスイッチや計器が並んだ操作パネル。


 どれが何のスイッチなのかよくわからなかったけれど、直感に任せてスイッチを倒し、ボタンを押す。マスターパワー投入。主電源が起動し、操作パネルのランプが赤や緑に光って、それぞれが点灯、点滅した。


 多分、これであっているはずだ。


 ボタンを長押しすると、機体全体がぶるりと震え、うなり声みたいな低音と、甲高かんだかい高音の合唱が始まる。四ストローク水冷ディーゼルエンジンがかかった音だ。


『ちなみちゃん、聞こえる?』


「うわ、びっくりした! なにこれ?」


 小鈴の声が耳元に聞こえてきた。


 その間にも、機体が勝手に起動していく。複数のランプが点灯し、メーターの針が揺れる。五枚のモニターが次々に起動していき、緑色のシステムメッセージが表示された。


『一応教えておくけど、虚像天使の弱点は頭らしいよ。頭部の光輪が動力源なんだって』


「そーなんだ。おっけー」


 機体各部のカメラが起動して、モニターに外の景色が映し出された。もうじき日没の時間だからか、夕方の空はほんのりと茜色あかねいろに染まり出している。無人のグラウンドにセピア色の光が降り注ぎ、サッカーゴールや電灯が地面に長い影を落としていた。


 小鈴の説明が続く。


『常識的に考えて、パワーもスピードも持ってる武器的にも、ただの一般兵器でしかないヴェスパじゃ虚像天使には歯が立たない』


「うん。なんとなくわかるかも」


 〈虚像天使〉は機敏きびんで素早く、光の剣は切れ味抜群で、大盾はどんな攻撃も通さない。


 一方、〈ヴェスパ〉はただの工業製品に過ぎない。なにせ、作動原理自体はその辺にある重機と変わらず、ディーゼルエンジンによる油圧駆動なのだ。天使の鎧に比べたら、鈍重で原始的な鋼鉄の塊としか言いようがない。


 しかも、この〈ヴェスパ〉は中古品だった。新品でない以上、本来の性能すら発揮できないことは明らかだ。


 性能差は歴然。


 常識的に考えれば、こんなの勝負にすらならない。


『でも、きっと大丈夫。穂高ちなみが何者なのか――今、ここで証明して!』


 それは無茶ぶりな命令だった。


 けれど、不思議と不安はない。むしろ力が湧いてきたくらいだ。理不尽にも思える小鈴の命令に、ちなみは短く返答する。


「まかして」


 ひときわ大きな音が響いて、空を割って何かが降ってくる。地響きをあげ、それは校庭のど真ん中に着地した。赤く光る長剣と巨大な盾を構えた彫像の騎士――〈虚像天使〉だ。


 作動レバーを操作。レバーを下げ、『N(ニュートラル)』から『C1(コンバット)』の位置に動かして手を離す。モニター上のUIが切り替わって、レティクルを始めとした各種マークや数値が追加表示された。


 親指のパドルスイッチを弾くと、安全装置が解除され、〈ヴェスパ〉の右腕が射撃ポジションに移動。モニター端の表示が『SAFE』から『ARM』に切り替わった。登録された武器名称は、『Solothurn S-18/2000』――ゾロターン二十ミリ機関砲。二脚兵装の携行装備けいこうそうびとしては破格はかくの威力を誇るメインウェポンだ。


 右のローファーでゆっくりとペダルを踏む。


 ダークオレンジの二脚兵装――〈ヴェスパ〉がゆらりと立ち上がり、右手のライフル砲を正面に構える。それに反応した虚像天使が、五十メートル先で武器を構えた。

その時ちょうど、午後五時のチャイムが鳴り出した。


 夕焼け空にチャイム音が響き渡る。ウェストミンスターのかね、放送時間二十四秒。その音が流れている間、天使と兵器は微動びどうだにせず見つめ合っていた。


 そして、チャイムが鳴り止んだ。


「――!」


 それを合図にトリガーを引く。


 瞬間、無数のイメージが膨れ上がった。最初の一手から、数多あまたの戦術が分岐ぶんきする。それは、ちなみが知り得るはずのない膨大な戦闘アイデアだった。無限とも思える戦術が脳内でシミュレートされ、明確に像を結んでいく。


 ――勝てる。


 そんな確信が、閃光のように脳裏のうりを駆けた。


 ごんごんごん、と重い射撃音が操縦室内に響き渡る。激しいマズルフラッシュと共に、〈ヴェスパ〉のライフル砲から二十ミリ徹甲砲弾てっこうほうだんが連射された。


 〈虚像天使〉が大盾を構え、その攻撃を防ぐ。大盾に火花が散り、砲弾は軽々と弾き返された。敵はこちらの攻撃など全く意に介していないだろう。


 さらに、弾道のブレもひどかった。関節角度の検出が狂っているのか、照準しょうじゅん補正が全くあてにならず、とても精密射撃ができる状態じゃない。


 遠距離攻撃で敵を倒すのはどう考えても不可能だ。だから、接近戦を挑む以外に方法はない。剣も盾も持たない油圧駆動のおんぼろマシンで天使と格闘する――それこそがこの戦いにおける最適解だった。


 ちなみはローファーでペダルを踏み、操縦桿そうじゅうかんを倒した。


 〈ヴェスパ〉が背部から黒煙こくえんを吐き出し、ディーゼルエンジンの唸りをあげて急発進した。がちゃがちゃと騒々しい足音をたて、オレンジの機体が全速力で校庭を爆走する。


 〈虚像天使〉も、盾を構えて駆け出した。そのスピードは圧倒的で、〈ヴェスパ〉の走行速度とは比べ物にならない。


 接敵まであと一秒。


 彫像の騎士が深く踏み込み、さらに加速した。それはほとんど瞬間移動のようなスピードで、〈ヴェスパ〉の機動力では回避など間に合うはずがない。


 赤い閃光がはしる。


 光の剣がすさまじい速度で振るわれる。


 その刃が無防備な〈ヴェスパ〉の肩口に振り下ろされ、


「――こうかな?」


 ちなみの機体は、その剣閃けんせん


 振り下ろされた光剣は空を切っている。〈ヴェスパ〉はまるで透明になったかのように攻撃をすり抜け、〈虚像天使〉の間合いから完璧に逃れていた。


『えっ?』


 小鈴が驚きの声をあげる。


 それは魔法ではなく、であった。


 深く踏み込むと見せかけ、実際は後退した――事実としてはそれだけだ。ただ、ステップを踏むスピード、距離感、タイミング、バランス感、全てが奇跡的に完璧だった。その動作があまりにも完璧すぎるせいで、攻撃をすり抜けたように思わされるのだ。


 つまり『フェイント』である。


 それは天使すらもあざむく、超常的なフェイントだった。


 敵の攻撃を完璧に回避した〈ヴェスパ〉が、弾かれたように走り出す。〈虚像天使〉は大盾を構えて緊急防御姿勢をとった。そこへ、オレンジの機体が飛びりの姿勢で突っ込んだ。


 ――インパクト。衝突音が校庭に響き渡る。


 当然、〈ヴェスパ〉のキックは大盾に防がれていた。しかし、ちなみの攻撃は終わりではない。大盾を蹴りつけた姿勢から、〈ヴェスパ〉がその盾を駆けあがり、ついにはそれを足場にして空中へとジャンプしたのだ。


 鋼鉄の機体が宙を舞う。


 天使の頭上を、ただの一般兵器が飛んでいた。


 それはあり得ない光景だった。〈ヴェスパ〉は地上を走行する陸戦兵器である。市街地において歩兵や装甲車両を制圧するために設計された兵器であって、間違っても天使の頭上を飛ぶようなマシンではないはずだった。


 二脚兵装が、天使の上で宙返りした。


 くるりと一回転し上下逆さまになった〈ヴェスパ〉が、機関砲を天使の頭部へとゼロ距離で突きつける。


「ばいばい、天使さん」


 ちなみがトリガーを引いた。轟音ごうおんを上げ、無数の砲弾が天使へと降り注ぎ、その頭部をばらばらに吹き飛ばす。


 を描いて、〈ヴェスパ〉が地面へと落下した。オレンジの機体は身をひねり、鮮やかな着地を決める。その背後では、頭部を吹き飛ばされた〈虚像天使〉が微動だにせず固まっていた。


 ゾロターン機関砲から硝煙しょうえんが立ちのぼる。


 一拍いっぱく置いて、〈ヴェスパ〉の背後で〈虚像天使〉が膝から崩れ落ちた。がらがらと音をたて、その躯体くたいが勢いよく崩壊する。


 穂高ちなみの二脚運用は、常識破りのありえない戦い方だった。空中をんだり、宙返りしたり、ましてやその状態でゼロ距離射撃を行うなど、前代未聞の『曲芸きょくげい』である。


「……そっか」


 ちなみが誰にともなくつぶやく。


「私って、こんなこともできたんだ」



   *****



「すごいね」


 〈ヴェスパ〉から降りたちなみを迎えたのは、唖然あぜんとして目を見開いた小鈴だった。


「やばすぎない? めちゃめちゃ強いじゃん。一言でいうと『量産機無双JK』だね」


「なにそれ。可愛くないしなんかやだ~」


 口をとがらせたちなみを無視して小鈴が続ける。


「あんまり信じてなかったけど、ちなみちゃんってほんとに最強の操縦兵だったんだね。単機で虚像天使を瞬殺できる二脚乗りなんて聞いたことないよ」


「ちょっと待って。今『あんまり信じてなかった』って言わなかった?」


 ちなみが聞くと、小鈴はけろっとした顔で、


「だってちなみちゃんおバカだし。全然強そうじゃないし」


 と言った。


「ば、ばかじゃないですう! てか、あんまり信じてなかったのに私をヴェスパに乗せたってこと? じゃあ、もし死んじゃったらどーするつもりだったの……?」


「知らない。別にいいじゃん、生き残ったんだし」


「……」


 ちなみが呆然としていると、小鈴が「悪魔、お願い」と呟いた。


虚孔反転リバース・アイズル:アルファ』


 またしても中性的な声が聞こえて、ダークオレンジの二脚兵装は影に沈んでいなくなった。現れたのと全く逆の方法で、〈ヴェスパ〉は跡形あとかたもなく消え去ったのである。


「ねえ、これってどーなってるの? もしかして、校庭の地下に埋まってたとか……?」


「違うよ。これは空間を疑似的に接続する魔術。小鈴の座標を基準に、別の場所に置いてあるヴェスパを召喚してるだけ」


「どゆこと?」


 全く理解ができていないちなみに、小鈴が「そんなことより」と話を振った。


「どうだった?」


 どうだった、とは、〈ヴェスパ〉に乗った感想のことを言ってるんだろう。ちなみはまだ少し混乱していて、何が何だかわからない状態だ。けれど、この機体に乗ることで過去の記憶らしい何かが見えたことだけは確かだった。


「もう一回ヴェスパに乗れば、また何か思い出せるかも! ねえ、もう一回くらいは乗ってみてもいい?」


「うんうん。じゃあ、ちなみちゃんは小鈴の犬になることを決意したってことでいいね」


「んぇ?」


 意味が分からず、思わず変な声が出てしまった。小鈴が手を伸ばし、ちなみの首からぶらさがったままのリードを手に取る。


「あっ」


 ――そうだった。首輪をつけっぱなしだったことをすっかり忘れていた!


「待って!」


「ちなみ、お座り」


 止めようとしたものの、もう遅かった。すぐにお座りポーズをとったちなみを見て、小鈴がけらけらと笑う。


「これ、そんなに気に入ってくれたんだ。ずっとつけてたもんね」


「ちがうの! 忘れてただけっ」


「今日は白なんだ」


「ぱんつ見ないで!」


「ちなみ、お手」


「もういいよっ。これ早くはずして!」


 嫌がる台詞とは裏腹に、小鈴が差し出した掌にちなみがぽんと手をのせた。ついでに「よしよし、よく頑張ったね」と頭をなでられてしまう――お座りとお手はイヤだったけれど、められるのは嬉しかった。


「もうちょっと遊びたかったけど、しょうがないから外してあげる。おいで、ポチ」


「ポチじゃないってば!」


 そう言いながら、ちなみは素直に首を差し出した。ニヤニヤ笑った小鈴がその首元に手を回し、かちゃかちゃと首輪をいじる。


「はい。外れたよ」


「ありがと~」


 もうすぐ時刻は五時半になる。陽は落ちかけ、風が一段と冷たくなった気がした。思わず自分の身体を抱いたちなみは、そこで忘れ物に気付いてしまった。


「ねえ小鈴ちゃん。ヴェスパの中にダッフルコート置いてきちゃったかも」


「えぇ~」


 小鈴が見るからにイヤそうな顔をしてこっちを見返してくる。


「お願い、もっかいヴェスパ出して?」


「いいけど……魔術を使うと小鈴の生命力が消費されるから、そう何度も出し入れできるわけじゃないって覚えといてね」


「はーい」


 ちなみが返事をすると、小鈴が〈ヴェスパ〉を出現させた。地面に再び影が落ち、オレンジ色の機体が浮上してくる。


「さっきの話だけど。ちなみちゃんには、少なくともあと四回は戦ってほしいんだよ。小鈴にも目的があって、ちなみちゃんが一緒にいてくれると助かる。つまりウィンウィンってこと。だからさ、これからも一緒に戦ってくれるよね?」


 〈ヴェスパ〉の中からダッフルコートを引っ張り出している間に、小鈴がそんな説明をした。ちなみは〈ヴェスパ〉から降りながら、「うん、やる」と返事をする。


 もっと自分のことを知りたい。


 両親は記憶喪失のちなみに気を遣って、昔のことをほとんど話さない。もし聞いたとしても、それを自分の記憶として思い出せるかどうかは別の話だ。


 穂高ちなみは何者なのか。それを知るには、小鈴と一緒に〈ヴェスパ〉で戦うのが一番手っ取り早い方法じゃないかと思う。


「じゃあ、決まり」


 小鈴が〈ヴェスパ〉をしまいながら言った。


「詳しい話はまた今度でいいよね。今日は疲れたから小鈴はもう帰ります」


「あ、待って。連絡先教えて! あとさ、『小鈴』って呼んでいい? せっかくだしもっと仲良くなりたい!」


「えー……」


 またしても、小鈴が微妙な顔を向けてきた。


「めんどくさそうだから、小鈴は仲良くなりたくない。からかう分には楽しいけど」


「ひどい! なんでなんで、友達になろうよ~っ」


 言いながらスマホを出そうとして、またしても忘れ物をしたことに気が付いた。


「ごめん、小鈴」


「どうしたの、ちなみちゃん」


「スクバ忘れてきちゃった。スマホなくて気付いた」


「……」


「多分、またヴェスパの中だなー」


「……」


「お願い、もっかいだして?」


 怒られないように、できるだけ可愛くお願いしてみる。すると、小鈴がにっこり笑顔を浮かべて口を開いた。


「さっきヴェスパ出すのも楽じゃないって教えたよね。どうしてそんなにすぐ忘れ物をしちゃうのかな。ダッフルコート取りに行ったときに一緒に持ってくればよかったよね? こう見えて、小鈴はもう死にそうなぐらい疲れてるんだよ?」


「でもほら、私記憶喪失だしい……忘れ物と落とし物はいっぱいしちゃうっていうか……あはは、ごめんね?」


 ちなみが両手を合わせて可愛い声で謝る。小鈴はあきらめたかのように深いため息をつくと、死んだ魚のような目で〈ヴェスパ〉を呼び出してくれたのだった。

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