第4話 魔界の姫、数学に散る。


 ふむ、ふむ。

 なるほどのう。


 おお、この図形のここの角度に注目するんじゃな。

 それで、その公式を使えばすぐに解けると。

 なるほどなるほど、ふむふむ。よし。


 さっぱり分からぬ。

 にふふ。


 やめろ突っつくなわかったわかった真面目にやるからごめんて。


 うん、わかっとる。

 たしかにあたし……ごほん、わらわの成績、やばい。

 特に数学がの。地を這うというかの。腹部を地面に擦り付けながらの超低空飛行というかの。ともかくもうなんと申すか、もはや諦めておるぞわらわは。にふふ。


 いたいいたいごめんて。ちゃんとやるから。ほんと。ほんとだって。


 しかしのう。

 今宵も魔物になるためのあれやこれやの儀式を用意しておったのだがの。

 満を持してそなたをこの文芸部室に呼び出したら、ところで今度のテスト大丈夫なの、勉強してるの、教えてあげるよと来た。


 なんたる無慈悲。

 テスト。勉強。そのような恐るべき呪いの言葉を躊躇いものう使うて。心臓止まったわ。懐かしい魔界の風景とか見えたわ。

 地を滅し世を平らげるがごとき最恐最悪の災厄術式。そなたにはいまだ魔法を教えておらぬのというのに。そなたの魔物としての才は比類なきものである。やがて魔王として地を統べることとなろう。驚くべきことじゃ。もはや崇める対象かもしれぬ。


 そうじゃ、崇めるべき魔王に捧げる供物をとってこねばならぬの。

 では、ちと失礼して……。


 すみません。

 座りました。

 はい。はい。わかりました。はい。ごめんなさい。やります。


 にふふ。

 はあ。


 ……のう、これがどうしてこうなるのじゃ。ん、ああそうか、こっちの数字を、こっちに使って……なるほどの。お、できた。わらわもやればできるのじゃ。にふふ。

 では、こっちは……ほうほう。ふむふむ。

 

 ところで、そなたはもう、準備はいいのか。わらわに教えている間に自分の勉強、したほうがよいのではないのか。

 いや違う。そうではない。逃れたいがゆえの言葉ではない。と思う。たぶん。


 ほんとうに大丈夫なのか。

 そうか……まあそなたは、いつも上位グループに入っておるからな。勉強などせずとも、するりと解いてしまうのだろうな、このような問題。

 わらわのようなアホとは違うての。にふふ。


 ……なんじゃ。

 どうしてそっぽを向いておる。

 の、この問題なんじゃが……のう、この、問題……。


 ……。


 怒ったのか。

 や……うむ。

 ……すまぬ。


 ……そうか。昨日も夜中まで勉強して……それから……。

 わらわのために、どうやって教えたらよいか、考えてくれておったのか。

 そうであったか。


 すまぬ。

 努力もせずに、みたいな言い方をして……すまぬ。


 の。こっち向いてくりゃれ。

 なんじゃ、机に突っ伏して、顔を隠してしもうて。

 のう。のう、と言うとるに……のう。


 む、そっちではない……それで怒ってるわけでは、ない。

 なんじゃ。そっちでなければ、どっちじゃ。


 え。

 わらわが自分を、アホ、って言うたことを、怒っておる、と。

 アホなんかじゃない、こんなに一生懸命、自分のことを考えてくれてる。どうすれば伝えられるかを、どうすれば自分の気持ちがほぐれるかを、こんなにたくさん、考えてくれている、と……。

 ずっと、伝わっていたよ、って……。


 ……あ、う。

 

 な、なにを言うとるのじゃ。

 わらわは、その、あの、そなたを魔界に引き込むために、魔物として我が使い魔に変ぜようと、思うて、じゃな……。なにもそなたのためを、思うて、など……。


 思うて、など……。


 ……伝わって、おったのか。

 なんじゃ、こうなると……わらわが癒すのでのうて、癒される方になっておるではないか。にふふ。

 

 の。

 そなたのことを想うものは、たくさんおるのじゃ。

 わらわだけではない。たくさん、たくさんのものが、そなたを見ている。いつも、いつも、案じておる。

 見回してみい。そなたに投げる視線を、みなの目を。

 が、届かぬじゃろう。声は、聴こえなかったじゃろう。


 わかっておる。

 そなたには、受け取るための隙間が……誰かの、みんなの想いを納めておく心のポケットが、足りなかったのじゃな。


 じゃがな、思い違いしないでほしいのじゃ。

 がんばったこと、それで傷ついたこと。

 受け取ることも、自分を認めることもできなくて。

 泣いて、喚いて、床を叩いて、落ち込んで、もう駄目だとおもって、拒絶して。

 

 どれも、悪いことではない。

 ぜんぶぜんぶ、そなたじゃ。

 そなた自身の、たくさんある色のうちの、ほんのひとつじゃ。

 

 そうしてその色を愛しく想うものも、また、多いのじゃ。


 のう。

 いつかまた、そなたが全力で走れる日が来ることを、わらわは知っておる。

 そうしてその時には、わらわなど目に入らぬほどに、眩く輝くことを知っておる。

 なにせ魔族じゃからの。未来が視えるのじゃ。にふふふ。


 でも、の。

 いまの、そなた……冷たい雨に濡れたように、乾いた土地をゆくように、迷いながら、探りながら、それでもいつか来る出発の日に焦がれながら、遠く遠くに指を伸ばしている、そなたが。


 わらわは、好きなのじゃ。


 の。


 ……のう。

 さっきから動かぬのう。

 突っ伏したまま、わずかに背を上下させて……。


 うなああああああそなた寝ておるじゃろ!

 どっからじゃ! どっから寝ておった!


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る