「もういい? 私、早くこの草のてっぺんまで登りたいの。あんたもさ、いつまでもそんな木にしがみついていないで、手頃な草でも見つけてさっさと登り切っちゃいなよ」

「そうだね。でもこの木は、今まで僕を育ててくれた木なんだ。確かにごつごつしていて登りにくいけど、やっぱり僕はこの木に登りたい」

「あっそ、せっかく忠告してあげたのに。あんたって馬鹿正直なんじゃなくて、ただの馬鹿なのね」

 そう言い残した女は、彼を尻目にどんどん茎を登っていった。彼女との距離が広がれば広がるほど、胸に空いた穴がその口を大きく広げていくようだった。彼は胸の穴が裂けていく痛みに堪えかねて、思わず女を呼び止めた。

「ねえ君。よかったらこの後、僕と踊らない?」

 自分の言葉に驚いて、危うく足を滑らせるところだった。なぜそんなことを言ってしまったのか、我ながら呆れ返らずにはいられない。

「はあ? 嫌よ。あんたみたいなノロマの相手なんて。女は男と違って、一生のうち一度しか相手を選べないの。なのにどうしてわざわざ、鈍臭いダメ男を選ばなきゃいけないわけ? そもそもあんた、はねが乾いて飛べるようになるまで生きていられるの? きっと東の空が白む頃には、蟻の大群があんたを取り囲んでるわよ」

 彼女が言い終わるや否や、一陣の風が吹きつけて彼の身体にきつく絡みついた。手足を引きちぎられそうになりながらも、幹の窪みに爪をねじ込んで必死に祈る。風がこれ以上勢いを増すと、木肌にしがみついていられなくなって地面に真っ逆さまだ。

 幸いなことに、騒がしかった葉擦れはほどなくして収まった。彼は耳を澄まし、周囲の様子を注意深く窺った。心なしか、夜が先ほどまでより濃さを増したような気がする。彼は急に胸騒ぎを感じて、視線を上に向けた。

 次の瞬間、思わずあっと声が出た。今しがた憎まれ口を叩いていた女の姿が、どこにもない。女が登っていた草は、相変わらず大木の隣に伸びている。彼は恐る恐る視線を落とし、辺りへ満遍なく視線を巡らせた。しかしそれでも女の姿は見当たらない。彼女は一体どこへ行ってしまったのだろう。先ほどの突風にさらわれて、はるか遠くまで飛ばされてしまったのだろうか。それともまさか、本当は初めから女などいなかったのか──。

 彼はぞっとしながらも、女を探しに行きたい気持ちをぐっと抑え、再び大木の木肌を登り始めた。これまで以上に慎重に、しかもできる限り早足で天を目指す。自分には、目の前で起きた現実を覆す力はない。もし探しに行って女を見つけることができたとしても、そんなことをすれば間違いなく夜明けに追いつかれてしまう。そうなれば当然、自分も女も腹を空かせた蟻の朝食だ。今はどれだけ後ろ髪を引かれようとも、自分がやれることを全力で成し遂げるより他なかった。

 大木の中腹を過ぎたあたりで、彼の急ぎ足がはたと止まった。突然不思議な感覚に襲われて、勝手に足が止まったのだ。ということは、ついに機が熟したのだろう。彼は自分に言い聞かせるように小さく頷くと、全身のすべての動きを本能に任せた。自然と足が動き、木肌にしっかりと爪を差し込もうとする自分がいる。大きな出来事の予感が一気に押し寄せてきて、どれほど深呼吸を繰り返しても身体の震えが止まらなくなった。

 全身が燃えるように熱い。大きなうねりのようなものが、徐々に腹の底からせり上がってくる。まるで今まで見ていた世界が形を失い、混ざり合って、まったく違う世界に作り直されていくようだ。筆舌に尽くし難い感覚に、少なからず不安は感じていた。しかしそれ以上に心は晴れやかだった。不安と同時に、とてつもない解放感が胸になだれ込み、彼はその心地好さにすっかり酔わされていた。

 固いものがぱきりと割れる音が、背中のあたりから聞こえてきた。はっとして全身に意識を向ける。身体が勝手に仰け反っていき、肌に触れる空気が一段と新鮮になったように感じられた。もしかするとこれまでの自分は、ずっと暗い夢の中に閉じ込められていたのかもしれない。そんなありもしない妄想さえ信じてしまいそうな、何とも言えない清々しさが彼の全身を満たしていく。

 気がつくと彼は、苦労して登ってきたでこぼこの木肌ではなく、長年着古した自分の殻の背に摑まっていた。鼻先にあるその飴色の殻を眺めていると、世界が急に晴れ渡ったかのような気分になってくる。これこそが、自分をここまで突き動かしてきた衝動の正体。彼は未だ半信半疑の自分に言い聞かせるかのように、生まれ変わった喜びをひとしきり噛み締めた。

 ふと地上へ視線を移すと、微かに動くものが目に入った。その見覚えのある色と形に、はっとせずにはいられない。あれは彼が大木を登り始めて間もない頃、隣に生えた草の茎をすいすいと登っていた威勢のいい女だ。彼女は大木の傍の地面を、じりじりと静かに進んでいる。

 そのあまりに異様な姿は、彼の胸を容赦なく締めつけた。女は少しずつ移動はしているものの、身体は横倒しになったままだった。どうやら突風に攫われたときの衝撃で、今も気を失っているらしい。ということはもちろん、移動は自分の足で行なっているわけではない。地面に倒れているところを蟻に見つかり、彼らの巣穴に運ばれている真っ最中ということだ。

 あのとき風が吹いたばかりに、彼女の命はいとも簡単に吹き飛んでしまった。木に摑まっていた彼も、爪の引っかかりが少しでも甘ければああなっていたかもしれない。彼と彼女の運命を分けたのは、ほんの少しの運の差だけだ。

 もし彼が名前の話ではなく、自分と一緒に木を登ろうと勧めていたら、彼女はそうしてくれただろうか。よく揺れる脆弱な草ではなく、どっしりとした大木の、爪が引っかかりやすい乾いた木肌を登っていたなら、彼女は突風で落下せずに済んだだろうか。今の彼のように子供の殻を脱いで、共に清々しい朝日を眺めることができただろうか。

 すべては仮定の話で、しかも終わってしまった過去の話だ。彼は新しい門出を目前に控え、希望に胸を膨らませながらも、真新しい火傷のようなひりつく気持ちに悶えずにはいられなかった。

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