生まれて初めて感じた風の感触。地上は地中と違って、空気が絶えず賑やかに動いている。さらに音という刺激。そして月明かりのまぶしさ。それらの物珍しさと小気味好さに、思わず歩みが止まった。もっと色々なものを感じてみたかったが、月夜にもかかわらず辺りはひどく暗くて、見通しがまったくきかない。きっとこれまで、目をほとんど使ってこなかったからだろう。彼は逸る気持ちをぐっと堪えて、目が月明かりに慣れるのを待った。

 穴を掘り続けてきた身体をしばらくぶりに休めてみると、疲労の大きさに改めて辟易せずにはいられなかった。手足の節々がずきずきと痛んで、もう二度と立ち上がれないのではとさえ思わせる。ただ、その場を涼やかに通り過ぎるそよ風は、疲れた全身に染み入るようで心地好く、ひどくこびり付いていた倦怠感をすっかり洗い流してくれた。

 徐々に目が慣れてくると、彼はようやく外の世界の有りようを知った。ここは木々が生い茂る林の真ん中。さらに念入りに辺りを見渡してみる。どうやらすぐ近くに、ひときわ大きな木が立っているようだ。その木から漂ってくる、何ともいえない懐かしい気配。彼はすぐに、その独特の気配の正体に気がついた。

 眼前にそびえ立つ大木は、地中で暮らしていた自分を育んでくれた木に違いない。根の先に取りついていたときには気づかなかった、大木の堂々たる存在感。彼は、慈愛と安らぎに満ちていた根とは違って、太くごつごつとした幹の風格にすっかり圧倒されていた。彼にとって大木の根は、生命を育んでくれた母のようなものだ。だとすると、彼が大木を見上げたときに感じた逞しさは、厳格な父のそれだったのかもしれない。

 この世界は彼の想像よりずっとずっと巨大で、厳かで、ひどく無口だった。しかしそれでも、ちっぽけな存在でしかない自分を受け入れる意思だけはひしひしと伝わってくる。彼は外の世界に認めてもらえたような気がして、ずっと孤独で冷ややかだった胸を熱く躍らせた。

 自分が今ここにいることを、この世界の隅々にまで知らせたい。これまで感じたどんな感情よりも大きな興奮が、堰を切ったように喉をせり上がってくる。気がつくと彼は、今まで声を出したいなんて思ったこともなかったのに、自分の名前を大声で叫びたい気持ちでいっぱいになっていた。


 目の前の大木が、自分を呼んでいるような気がする。彼は大木の根方に歩み寄り、深い凹凸おうとつがびっしりと刻まれた木肌をじりじりと登り始めた。理由など必要ない。そもそも彼は、何不自由ない地中を出た理由すら説明できないのだ。それなのに、今さら目の前の木を登ることにどんな理由が必要だろう。名を定め、地上に出る決心をしたあの瞬間から、自分を支配しているのは衝動という名の本能。今の彼には、その確信さえあれば他に何もいらなかった。

 彼の尖った爪は乾いた木肌によく引っかかり、木に登りやすい形をしている。しかし、大木の木肌は深い亀裂だらけなので、お世辞にも登りやすいとは言えず、足運びはどうしても慎重にならざるを得ない。この大木を登るより、平らな木肌を持つ木を探してそちらを登るほうが、ずっと楽だし時間もかからないだろう。

「ねえあなた、本当にそんな木を登るの?」

 突然声をかけられ、あまりの驚きに足が止まった。声のほうを見遣ると、大木の隣に群生している背の高い草が、青々とした細い茎をそよ風に揺らしている。彼を見上げる視線は、その草の根元辺りから感じられた。しばらく立ち止まって目を凝らしていると、彼と同じ見た目をした小柄な女が、ひときわ背が高く華奢な茎を軽快に登って来た。初めて見る仲間。しかも、若く麗しい女性。彼はたちまち女に釘付けになった。

「そんなでこぼこの木をちんたら登っていたら、あっという間に夜が明けるわよ。そうしたら、目ざとい蟻たちが目を覚ます。あいつらに見つかって連れて行かれたって知らないから」

 彼女も彼同様、突然の衝動に急き立てられて地上に這い出て来たのだろう。彼女は真っ直ぐに生えた滑らかな茎をすいすいと登り、今や彼女のほうが彼を見下ろす形になっている。

「やあ、僕はナギ。君の名前は?」

 足を止めた彼女は、ややあって怪訝そうな声で答えた。

「名前? 知らないわ。そんなもの必要ないし、そもそも何に使うの?」

「何にって、名前があれば次に君と会ったとき、すぐに君だって思い出せるだろう? 君も僕の名前を知っていれば……」

「だーかーらー」

 女はひどく呆れた様子で、彼の語尾を素っ気なく遮った。何か気に触ることでも言っただろうか。

「別にあんたを思い出す必要なんてないんだけど。それとも、私に思い出してほしいの? そういえばあのとき、登りにくい大木をのろのろと登ってた変なやつがいたなって」

 女はそう言い放ち、あからさまに彼を鼻で嗤った。彼女の態度にはかちんと来たが、それでも言い返すことはできなかった。確かに彼女の言う通りだ。名前があったところで、それが何だと言うのだ。そんなもの無くても不自由はないし、そもそも彼だって名前を持ったのはつい最近で、地中で暮らしていた五年間、名前の必要性を感じたことなんてただの一度もなかった。

 名前が必要なかったのは、これまでずっと独りだったから。この理屈も、果たしてどこまで説得力があるだろうか。彼は改めて彼女の呆れ顔に目を遣り、彼女が自分をどのように見ているかを想像して赤面せずにはいられなかった。

 名前などなくても、僕と彼女はこうして自由に会話をしているではないか。もし僕と彼女がもっと親密な仲だったとしても、やはり名前がなければ困るということはない。どんな種類の、どれほど濃密な交流を望んでいるとしても、こうして言葉を交わしさえすればわかり合うことは可能だ。どんな状況においても、僕がナギである必要は微塵もない。

「あんたまさか、これから出会うやつらのことをいちいち覚えていよう、とか考えてる? そんなの無駄よ。いくら過去や未来を意識したって、私たちが生きられるのは現在だけ。判断や選択ができるのは目の前の今しかなくて、そこにいるのが初めて会った相手か、過去に会った相手か、それとも明日また会うかもしれない相手かなんて、小指の先ほども関係ないでしょ。だいたいさ、名前なんてどうでもいいもので関係を左右される相手の身にもなれっての」

 彼女の理屈はもっともだし、名前がないことで生じる不都合もまったく思いつかない。ただそれでも、彼は名前を強く欲した自分を否定することはできなかった。その神秘的な何かを、言葉にして伝えることはできない。だが名前には、暗い林の景色を照らしている頭上の月明かりに似て、どこか名前の主を浮き彫りにするようなところがあるように思えてならなかった。

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