歌うイカロスと恋する女神たち

塚本正巳

 このところ彼は、昼夜を問わず物思いにふけっていた。暗く狭い部屋に閉じこもって、ひたすら自分の名前を考えている。彼にとって名前は重要だった。いずれこの部屋を出るだろう自分と同じ境遇の者たちが、外の世界にはたくさんいるに違いない。そんなやつらと出会ったとき、名前は必ず必要になるだろう。

 彼は生まれてこのかた、一度もこの部屋から出たことがない。だからそもそも、名前というものに触れたことさえなかった。そんな彼が、名前をどう付ければいいか、自分にどのような名前が相応しいかといった、名付けに必要な作法など知るはずもなかった。彼の名付けが難航するのも当然だ。

 簡単には思いつかないのだから、いっそ名前は後回しにして、別のことに力を注ぐほうが有意義のような気もする。だが、名前が決まらない焦りは日を追うごとに膨れ上がり、今や彼の胸中をひどくかき乱すまでになっていた。困ったことに今日も彼は、部屋の真ん中に寝転んで名前のことばかり考えている、といった有様だ。

 これはおそらく、この部屋を出る日が近いことの現れなのだろう。彼の心境は複雑だった。この部屋に住み続けてはや五年。自由で、快適で、静かなこの空間を手放すことが、名残惜しくないわけがない。それに、これまで一度だって外へ出ようなんて思ったことはなかった。見たこともない世界に憧れるなんてことはできないし、自分と同類の仲間がたくさんいる景色だって想像すらつかない。それがどういうわけだろう。ここ数日、妙に身体がそわそわして、外に出たい衝動をどうしても抑えきれなくなっている。

 彼は光のない地中で過ごしてきた五年間を、ぼんやりと振り返った。木の根の先に取りついて、ひたすら味の薄い木の汁を吸い続ける毎日。美味くも不味くもない。別に、もっと美味い汁にありつきたいとも思わない。

 刺激とはまったく無縁の毎日だったが、いつも適温で居心地は悪くなかった。外敵もほとんどいないので、動き回る必要もない。しかも食事には一切事欠かないとなれば、ここを出る理由を探すほうが難しいというものだ。

 それなのになぜ、このような衝動が湧き起こるのか。どうして自分は、わざわざ不慣れな外の世界へ出て行かなければならないのか。これらの得体の知れない渇望は、どれほど考えてみても理屈では説明できそうになかった。そして今夜も彼はいつものように、時が止まったような部屋の真ん中で、穏やかにまどろみ、やがて深い眠りに落ちていった。

「僕の名は……ナギ」

 どのくらい眠っていただろう。目を覚ました彼は、誰もいない自分だけの部屋でそう呟いた。初めて聞く自分の声は驚くほどか細くて、我ながら心配になってしまうくらい頼りなかった。声は狭い部屋の中だというのに少しも響かず、すぐに土の壁に染み入ってしまって、あとには何事もなかったかのような静寂だけが残った。

 ただそれでも、彼の気持ちはすっかり変わってしまっていた。自分の名前をほんの少し意識するだけで、これほど心が奮い立つものだとは。

 僕はナギ。ナギは僕。僕が何もしなければ、ナギも何もしない。ナギがナギであるためには、僕が必要。僕の考え、僕の行動、そして僕の衝動が──。

 この発見は彼に、天地がひっくり返るほどの驚きと興奮をもたらした。

 気がつくと彼は、他の足よりひときわ大きい両腕を振るって、眼前の土壁を少しずつ掘り崩していた。自分のやたら大きな両腕は、木の根っこにしがみつくためだけにしては、あまりにも巨大で屈強すぎる。前々から不思議には思っていたが、彼はこのとき初めて、自分のいびつな両腕はこの日のためにあったのだと知った。

 最初は横方向に掘り進んでいたが、穴は次第に勾配がつき、やがて自然に天の方向を目指し始めた。その先にどんな世界が待っているのか、彼には想像もつかない。しかし彼の胸中は、張り裂けんばかりの期待と高揚でいっぱいだった。なぜこれほど心が震えるのか。こんな心境は生まれて初めてだ。だが、その理由を立ち止まって考えている余裕はない。

 彼はまるで目に見えない何かに導かれるかのように、ひたすら目の前の土を穿うがち続けた。経験したこともない奇妙な衝動を糧に、無心になってただただ土を掘り進む。いつ終わるとも知れない過酷な道のりに、思わず目元が歪んだ。しかし不思議なことに、気分はそれほど悪くなかった。

 どのくらい掘り続けただろう。土を掘る両腕の疲労は、とうに限界を越えていた。だが、それでも引き返そうとは思わなかった。引き返したところで何になる。待っているのはこれまで同様、生きているのか死んでいるのかさえも判然としない、木の根に寄生して息をするだけの毎日だ。それにもし、この衝動が導く先を見届けずに逃げ帰ったら、自分は自分を永久に呪うことになるだろう。そんな確信めいた予感が、彼の朦朧とする意識を何度も鞭打った。

 そのとき、彼の五感に劇的な変化が訪れた。土の手応えがなくなると同時に、新鮮な青い香りが頭から爪先までを隈なく撫でてゆく。辺りは、ざわざわという騒がしい音で満たされている。そして見上げた先には、目を覆わずにはいられない丸くて白い光。彼は、ようやく自分が外の世界に辿り着いたことを知った。

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