彼女の距離感(仮)

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彼女の距離感(仮)

 僕は隣を歩く彼女に声を掛けた。

 何処で休もうか、と問いかけると、彼女はすぐそこを指さす。

「ここでいいわ。

 アナタも、座りましょうよ」

 そう言って、彼女はすたすたと僕の前を歩くと、その場にぺたりと座る。

 ああ、そんな所に座るの?

 思わず声を掛けようとしたけど、止めた――彼女は、そんな事を全然気にしていないから。

 だったら、僕もそれに合わせよう、と、そう思った。


 そして僕はまた口を開き、訊いてみる。

 確か、ついさっきまで、喉が渇いたと何度も言っていたし、必要があるなら、今から買って来るつもりだけど。

「飲み物は、どうするの」

 すると、彼女は驚いた様に、目を丸くしていた。

 何か、驚く事でもあったのかな?

 そう思って、返事が来るまでの間、一生懸命思い悩んでは見たものの、今一つ、思い当たる事なんてない。

 僕は黙っていると、その後少しの間があって、くすりと笑う。

「ん~?

 今は、いいかな」

 そして彼女は、座ったまま少しだけ小首を傾げて、返事をした。

 目鼻立ちの整った美人だし、時折見せる女の子らしい仕草が、とても可愛いらしいと思う。

 あくまで、僕から見ての話だけど、ね。


 飲み物は、急いで買いに行かなくても、良くなったみたいだけど。

 さっきまで、何度も欲しいと言っていたのに、今は要らないと言ったり、僕から見た彼女は、いつも不思議で一杯だよ。

 次はどんな事が、その可愛らしい唇から、飛び出して来る事やら。

 このままじっと立っているのも何だし、彼女から少し離れた所に腰を下ろす。

 何時もの事だけど、少し彼女は口を尖らせ、その様子をじっと見ていた。

 どうして口を尖らせるのか、その理由は分からない。


 黙っていると、彼女の方から口を開く。

「ねえ、何か話してよ」

「えっ?

 何かって……」

 それから、唐突に話題を振られ、言い澱んでしまう、僕。

 話って、何を話せば良いんだろう?

「何でも良いよ。

 今は、何か聞きたい気分」

 そうは言っても、急に話せる事なんて、何にもないよ――。

 と話したところで、聞いてくれる彼女じゃあない事は、分かっているんだ。

 言わずと知れた習性に、仕方がないと諦めて、僕は重い口を開く。

「この間、劇場で放映され始めた映画。

 宣伝、よくやってるでしょ?

 見に行った人の話を聞くと、面白いって感想だったから、今度見てみようかなって思うんだ」

 僕は、巷で何度も話題に登る出来事を、ゆっくりと話し始める。

 どう転んでも、結局の所は、他愛の無い話だから。

 世間で話題になっている事柄を、適当に選んで話せばいい。

 そう、僕は思っていたのだけど……。

 話し始めた僕は、身振り手振りを交え、語る事に夢中になっている、そんなふりを続けながら、こっそりと彼女の方を見る。

「ふーん……」

 折角話題を投げかけたと云うのに、あんまり興味が無さそうな。

 そんな面持ちを浮かべ、彼女の手は髪を梳く様に弄った。

 言い出しっぺの手前、しっかり聞いている様な態度は、崩さない様だけど。

 何だろう、何が気に入らなかったかを、言葉を続けながら考える僕。

 でも、考えるまでも無く、すぐにある事実に思い当たった。

 そう言えば、この手の話は彼女とは、殆ど話しをした事が無いから、好きな映画なんて分かる筈もないよ。

 この話は、僕と趣味が合わなかったかも――そう思うと、何だか申し訳ない気持ちが溢れて来る。

「ごめんね。

 興味が無いみたいだから、この辺にしとくよ」

 話題の内容を、気に入って貰えてない事を悟った僕は、話を適当に切り上げて、再び黙った。


 それから少しだけ、何の音もしない時間が流れてからの事。

 手持ち無沙汰に髪を弄る彼女が、ぽつりと言う。

「最近の事で、良いんだけどなぁ……」

 その表情は、話し足りないとでも言いたげに、僕の方を向いている。

 さっきの話も、最近の事なんだけどさ。

 彼女の方としては、僕の考えを知る由もないし、単に興味のない話、だっただけなんだろうと思う。

「最近の事……かぁ」

 うーん、と唸って、僕は考え込む。

 さっきと同じ様な事が、脳裏に浮かんでは消えてゆく。

 でも、違う。

 彼女が聞きたいのは、たぶん、そんな事じゃなくって……。


 ふと、思い当たる事があった。

 これならきっと、彼女も気に入ってくれるだろう、と思う。

「最近は、散歩の出先とかでね。

 池の波間に浮いてる小鳥の数を、数えたりしてるけれど」

 何も正確に、数えている訳じゃないよ。

 視線の方向に入ったもの、浮いてるなら小枝でも木の葉でも良かったんだ。

 偶々、視界に入った、ぷかぷかと風に揺られている鳥が、数えやすかったから。

 ただそれだけの理由なんだけど。

「そうなの?

 それ、あたしも好き!」

 僕の耳に、勢いの良い、嬉しそうな返事が届いた。

 動物が、特に小さくて可愛い生き物が好きな彼女には、こう言う話題が良いのかもしれない。

 とても喜ぶ姿を見て、僕も内心心躍らせる。

 でも、ごめんね。

 正直な事を言うと、僕は見る方で、たぶん、彼女は直に愛でる方。

 確かに可愛い動物も居るけど、触ったり撫でたりしたいと思う事は無くって。

 動物は専ら、眺める方に専念したい、それが僕のスタンス。

 だけど、彼女から零れる、溢れんばかりの笑顔を見ていると、僕はそれを言い出せなかった。

 少しだけ、ほんの少しだけ心が重くなり、再び黙ってしまう。

 でも、彼女はにこやかに語り掛けてくる。

 顔色には出していなかったつもりだったけど、気付かれてしまったのかな。

 意図的に頬を吊り上げ、笑みを形作ると、相槌を打つ僕。


 暫くすると、話題は何時の間にか、甘い物の事になっていた。

 彼女はあちこちに、甘くて美味しい物を、食べに行ってきた事を話す。

 両親と、友達と、そして、僕と。

 色んな思い出を沢山語った後、彼女は訪ねてくる。

「ねえ、アナタは、どれが好き?」

 彼女が言う物は、どれも確かに美味しい、とは思うけど……。

 甘い物を食べる時は、僕は、どうしても欲しくなる物が、一つだけあるんだ。

 それを脳裏に思い浮かべ、その事を口に上らせる。

「そういう時はさ。

 僕は、苦みのあるお茶が欲しくなるんだ」

「えぇ?

 甘くないお茶なんて、飲めないよ。

 あたしにはソレ、全然分かんない、かな」

 期待していた回答から、大きく外れてしまっていたんだろうか。

 僕の好みは、即座にそして、全力で否定されてしまう。

 甘いものが大好きな、彼女らしい回答。

 どうしてだろう、何時もここは、話が噛み合わない。

 それが原因になり、時として、言い争う事になったりもする。


 でも、好みが違うのは仕方がないよ。

 有体に言ってしまえば、僕と彼女は、違う個性を持つのだから。

 生まれも、育ちも、好む香りも、好きな色も、好みの味も、全部違うに決まってるじゃないか。

 だから、話す内容が全部肯定されるなんて、有り得ないんだ。

 好きという言葉で、それらは一括りにされてはいるけど、蓋を開けてしまえば、紛らわしい程似て、異なるモノに違いないよ、きっと。

 そして恐らくだけど、彼女の可愛いと、僕の可愛いは、恐らく全然違うモノ。

 本当に好きなものを突き付け合うと、大喧嘩してしまって、その後はもう会わなくなる、そんな事になりそうな予感が、脳裏を過ぎった。


 一瞬、会話が途切れ。


 そして、お互いに軽くそっぽを向き合った後、再び視線を合わせ。

「あのね、あたし。

 読んでみたい本があるんだけどさ……」

「うん」

 僕は知っている。

 それはきっと、彼女が好きな、動物が沢山載っている本の事。

 静けさの中に響くその一言を皮切りに。

 また、とりとめもない会話が、ぽつぽつと始まる。

 以前と変わらない、何時もの彼女、そして何時もの僕がそこにあった。


 それからも、他愛のない会話は続いて、時間が過ぎ去っていったように思う。

 話をしている最中、何を思ったのか、彼女は徐に僕の隣までやってきて、ストンと腰を下ろす。

 そして、ぴったりと触れ合う、肩と肩。

 何が起こったかと言うと、彼女は僕の隣に座り、その身の距離をゼロにしていた。

 薄い布越しに伝わる、素肌の感触に、跳ね上がる僕の心臓。


 ――柔らかい。


 先ず思った事は、そこだった。

 ごつごつした体の、男である僕とは、全然違う。

 今、感じてる彼女の体温の所為か、心の方がぐらぐらと沸き立ち、自然と顔が熱くなってゆく。

 顔を向け合うと、互いの吐息が絡み合い、僕の前髪を揺らす。

 辺りにふんわりと漂う、甘く感じられる香りが、鼻腔をくすぐった様な気がする。

「ね、聞いてる?」

 話の途中だったのだろう。

 何時の間にか彼女の顔が、僕の目の前に迫っていた。


 どこまで聞いていたか思い出そうとしても、煮え滾る様に熱くなった頭では、内容そのものを上手く思い出す事が出来ない。

「あ――。

 ご、ごめん」

 突然の出来事に心奪われ、上の空の僕。

 目を白黒させ、掠れる喉声から、何とか絞り出せたのは、情けない事に、その一言だけだった。

 そんな僕に、もう一度、鈴が鳴る様な聞き心地の良い声が届く。

「いいわよ。

 どうせまた、ムツカシイ事でも考えてたんでしょう?」

 怒ってはいないらしい彼女は、にんまりと、何かを含んだ笑みを浮かべている。

 それでも、思わずああ、とか、うん、とか、煮え切らない返事を返してしまった事だけ、喉の奥に刺さった小骨の様な、違和感と共に記憶に残った。

 いい加減な返事にならない様、細心の注意を払ったつもりだけど、それが果たしてどう思われたのか、今はもう分からない。

 もっとうまい切り返し方は、無かったんだろうか。

 例えば、彼女がもっと喜ぶ様な。

 後でそう思ったけど、その時の僕は、他の事に夢中だった。


 他愛の無い話に相槌を打ちながら、僕は様子を窺う。

 隣に座り話を続ける彼女と、その手の様子を。

 そして、僕の手を、彼女の手へと近付ける。

 少しづつ、少しづつ。


 彼女の、手を、握りたい――。

 胸中から沸き起こるその衝動を、僕は抑えられそうになかった。

 手から音がしない様、細心の注意を払い、こっそりと近づける。

 僕の網膜に映る、彼女のあどけない面持ちが、少しづつ重しとなって、心の奥底に溜まってゆく。

 大丈夫、手を握るだけだから。

 それ以上はしない、しないよ。

 だから、お願い、僕を信じて。

 ともすれば、悪い悪戯をしている、という錯覚に陥りそうになる心を、何とか宥めすかして指先に力を籠める。

 また少し、彼女の方へと、僕の手が近づいた。


 その時、ずう、と皮膚が何かに当たり、滑る音が微かに響く。

 別の意味で、心臓が跳ね上がった――その音が、外に飛び出し、聞こえてしまったんじゃないか、と思ってしまった位には。

 しかし、当の彼女と言えば、にこにこと楽しそうに笑い、話に夢中。

 その様子からは、僕の目論見を看過した様子は、全く伺えない。

 良かった、気が付いていない……みたいだ。


 心臓の音が聴こえていない事に、ほっと一息。


 何でこんな事をしているんだろうか。

 努力なら、他に出来る上に、為になる事は沢山あるのに、と、我ながら思う。

 そこからは小指一つを、爪の厚さ程近付けるだけでも、より大きな勇気が必要となった。

 彼女と目が合う度、心臓が大きく跳ね上がる。

 お願い、後もう少し、ほんの……ほんの少しだけ、気が付かないで。

 必死に念じながら、勇気を振り絞って、僅かな隙間を這う様に詰めてゆく。

 やがて緊張と冷や汗がどっといや増す頃。

 もう、彼女と僕の指先は、触れ合える程近くまで来ていた。


 あと、もう少し。


 もう少しで、指先が触れ合える――。

 といった所で、何かを思い出したように、彼女は身を離して立ち上がり、あれ程苦労して、やっとこさ近づいたと云うのに、柔らかそうな手はあっという間に、その距離を無遠慮に広げてゆく。

 僕のささやかな目論見は、失敗に終わってしまった。

 普段の僕なら、この時点で、ああ残念、と深い溜息を吐くと思う。

 でも、何気ないふりをして浮かべる、張り付いた笑顔は剥がせない。

 気恥ずかしさも、手伝ってたと思うけど。

 それよりも、何よりも。

 ――気付かれたく、なかったから。


 凍り付いた様に動かない僕を尻目に、彼女は踵を返す。

 2歩3歩と離れ、それからまたこっちの方を向く。

 それから後ろ手に俯き、何かを考える様に、目の前を右に左にと、行ったり来たり。

 時折、目配せをする様に、ちらりちらりと僕の方へ、視線を這わせるのが印象的だった。

 よく見れば少しだけ、唇を尖らせている。

 僕にはその視線の意味は、良く分からなかったけど。

 お腹が空いて、機嫌が悪いのかな?

 そう思ってはみたものの、正直な所は、全くわからない。

 黙ってぼんやりと、見詰めているだけの僕の前を、何度か往復する。

 やがて彼女は立ち止まると、振り返って眩しく輝く笑顔を浮かべ、座ったままの僕に、手を差し出す。

「ねえ、もう行きましょ?

 あのさ――あたし、お腹空いちゃった」

 なんだ、やっぱりお腹が空いていたんじゃないか。

 それならそうと、早く言ってくれれば良いのに。


「――」


 その時、何て返事をしたのか、さっぱり覚えてない。

 急かされる様に立ち上がった気もするし、差し出された手を取った気もする。

 一緒に歩いた事は、その後の記憶から、間違いないと思う。

 彼女は僕の事をどう思っているのか。

 その日はずっと考えていたけど、納得する結論は導き出せないまま、日が暮れてゆく。


 歩いている間、突然頬を膨らませたり、笑顔を咲かせたりと、何時もと変わらないけれども、忙しない様子は、よく覚えている。

 くるくると良く動く瞳でこっちを見ながら、くっ付いたり、離れたり。

 目まぐるしく変わる彼女の距離感を、僕は未だに、掴み兼ねているようだった。




 彼女の距離感(仮)

 完

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