3.追う背中


 一日は二十四時間。一年は三百六十五日。

 いつでも、誰にでも、時間は同じだけ与えられる。


 充実した日も、無為に過ごす日も。才能溢れる彼にだって、きっちり同じだけしか与えられなかった、親切で残酷な平等。

 でもその長さはいつも同じとはいかない。


 ここへ来て、時間は急に歩幅を詰めていた。早く過ぎてほしいと思いながら見つめる背中は、静止画と見紛みまごうほどに変化に乏しい。


 正直に言えば、ここだけはスルーしてもらっても構わなかった。写真を撮り終えた𠮷井さんも、どこか居心地悪そうで気の毒だ。

 限られた時間の中、森影氏は興味を持った絵には時間をかけ、そうでなければ見向きもしなかった。この絵はどうやら前者に当てはまったらしい。


 深紅の壁に掲げられた裸婦像。

 白いシーツの上に片肘ついて寝そべるその姿は、他のどの作品よりも具象的で、普通の人なら直視するのを躊躇ためらうような生々しさがあった。


 それを森影氏はガン見している。


 美術商の彼にしてみれば、素焼きの壺と変わらないのだろうか。

 あるいは実物を見慣れているのかもしれない。


 その真剣な眼差しは、少しだけ、竹内くんの横顔を思い出させた。



  ☆



「尾関さん、お願いがあるんだけど」


 就職が内定して久しぶりに部室に行くと、そこに竹内くんがいた。私は幽霊でも見ている気分だった。

 実際、彼は幽霊部員一歩手前だった。


 かろうじて幽霊化を免れていたのは、今も部室の壁に燦然さんぜんと輝く黄金のプレートのおかげだ。『あの日の海』と共に。


 そんな彼の前にあったのは、忘れ去られたはずの稲穂の海だった。


「この絵にディテールを与えてほしい」


 完成させたいと彼は言った。


 そもそも下塗りみたいな粗い筆遣いの竹内くんの絵が、未完成と明言できるのには理由わけがある。空白が残っているのだ。

 敢えて空間を配しているのではない。ぽっかりと、まるで塗り忘れたような空白が。


「私が? ……いいの?」


 竹内くんは、うん、とうなずいて、キャンバス下部に広がる稲穂の海に手をかざした。

 そこからサアッと風が吹いて、海が割れる――わけないか。


「こう、全体像は見えているんだけど」


 その手は稲穂の海を渡り、左奥にたたずむ女性を経て、それから右の空白へと辿り着く。


「ここが、どうしても決まらなくて」

「うん……配色を考えると、雲とかいいんじゃない? それか、木立ならコントラストが出るかも。あとは、人……こっちの人物と対照的に、群衆みたいな……」


 真剣に考えてあげている横で、竹内くんは笑った。


「それも含めて、尾関さんに描き加えてほしいんだ」


 新しい風が吹けば、新しい景色が見えてくる、ということらしい。


 私は白いワンピースの女性に少しだけ光と影を与えた。

 遠景にある女性が、浮き立ちすぎてもいけない。異物感が出てもいけない。少し描いては席を立って、何度も離れて確認した。


 稲穂の海はほとんど触らなかった。風が止まってしまうといけないから。


 私が描いている間、竹内くんはいつも部室のどこかにいた。

 方向性を見失わないよう、側に居てほしかった。でも、あんまり見られているとやりにくい。我ながら我儘わがままだったと思う。


 竹内くんは文句ひとつ言わずに付き合ってくれた。邪魔だと言ったら視界から消えて、部室の隅で大人しくしていたり、飽きると他の未完成作品を引っぱり出してきて、ちょっと加筆してみたり。


 自由なものだ。たぶん、前世は猫とかだったのだろう。


 ある日竹内くんは、真っ白なキャンバスをイーゼルに載せた。パレットに絞り出していくのは、いくつもの青。


「もう一度、描きたくなって」


 私たちは背中合わせで絵を描いた。竹内くんは、力強い海の絵を。私は、緻密ちみつな林の絵を。背後から潮風が吹いてくる。

 風に押されて筆が進んだ。


 こんな穏やかな時間が、ずっと続けばいいのに。


 時間が止まればいいのに。


「就職は? 決まったの」


 動かしてしまったのは私だ。


「うん……、まあ」


 竹内くんは言葉を濁した。


 第一志望じゃなかったってこと? それとも、絵の道に進みたかったのに、親との激しい口論の末に無理やり就職させられて不満だとか?

 彼はまだ、描き続けたいのだろうか。夢見る青二才のように。


 振り返って唖然とした。竹内くんのイーゼルには、また新しいキャンバスが載っていたのだ。

 その隣には、一枚の画用紙。


「それ……」

「人を、描きたいと思ったんだ。でもデッサンこれしか残ってなくて」


 それはいつかのヌードデッサンの、人魚のような裸婦だった。


 私が知る限り、竹内くんが人物をメインに絵を描いたことはない。

 その古いデッサンを参考に、思い起こして頑張るつもりだろうか。


「私、やろうか?」


 口が滑ったとはこのことだ。


 だけどもう、引っ込められない。


「その……、モデル」


 そんな目で見ないでよ。


「それより! これ見て」


 私は急いで竹内くんの腕を引っ張って、完成した絵の前に立たせた。そう、完成したのだ。少なくとも私の中では。


 長い時間、彼はただ黙ってそれを見ていた。

 静寂が流れ、時間が溶けてゆく。


 漸く彼は、ふうっと息を吐き出した。それでも言葉は出てこなくて、耐え切れず、私のほうから声をかけた。


「……どう、かな」

「名前を付けてよ」

「え、私が?」


 だって、ほとんど竹内くんが描いたものじゃない。


「完成させたのは尾関さんだろ」


 竹内くんがたまに持ち出す要求は、有無を言わせぬところがある。

 それとも私が甘いのだろうか。


「じゃあ、例えば……」


 絵画の名前は、案外シンプルなものが多い。私はその中に「風」という言葉をどうしても入れたかった。

 公正を期すために、頭の中で三つ候補を考えてから、一気に発表したけれど、竹内くんは即決で一つ目を採用した。


 こうして、二人で生み出した記念すべき最初の合作は『稲そよぐ風』と名付けられた。




 竹内くんが病気のことを打ち明けてくれたのは、それからすぐのことだった。私は二つ目の合作にとりかかっていて、彼の話を背中で聞いた。


 いわゆる、不治の病というやつだ。余命宣告、自暴自棄、引きこもり、それからスペインへ旅をして……この一年間のことを、彼は淡々と語った。


 そこには絶望も怒りも通り越して、どこか他人事のような静けさがあった。



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