その頃からだろうか、竹内くんは部室に姿を見せなくなった。

 賞を取って天狗になっている、なんて言う部員もいたが、彼と同じ学部の知り合いにそれとなく尋ねてみると、大学自体に来ていないという。


 絵の修行に出たのだとか、女に入り浸っているらしいとか、当初は様々な憶測が飛び交っていたが、それも収束しつつある。

 みんな就職活動に忙しくて、他人のことなど構っていられないのだ。


 かくいう私もしばらく筆をとっていない。

 どんなにすごい作品を完成させたところで、就職には何の足しにもならない。希望先は、どれも美術と関係ないのだから。


 そりゃそうでしょ。そもそも絵で食べていこうと思うなら、美大に行くじゃない。うちの大学には芸術学科すらない。

 私たちのお絵描きは、所詮お遊び。暇潰し。


 竹内くんはどうしたのだろう。就職先はもう決まったのかな。まあ、どうせ絵と関係ないほうへ進むでしょ。


 でも、もしかしたら本当に、絵の修行をしているなんてことあるのだろうか。プロを目指して大学を中退した、なんてことは……ないか。ないね。


 遊びは終わり。


 そうやってみんな大人になっていく。現実生きなきゃ。

 私たちはみんな妥協の産物。


 私は今日も、部室に海を見に行く。


『大賞 「あの日の海」 竹内たけうち友輝ともき


 金色に輝くプレートを見て、私は竹内くんの下の名前を思い出した。そういえば「トモキ」って読むのだっけ。


 この絵はきっと、遠くから見るのが正解なのだと私は思う。近づくほどに、生々しい筆のストロークが現れる。


 海の青は一つじゃない。淡い青、深い青、暗い青。

 それに緑や、グレーや、白、時には赤系さえも。


 一つ一つの色が混じることなくひしめいている。


 離れるとそれが溶け合って、透明感を増していく。乾いた油絵具が、液体となって動き出す。波の音まで聞こえてきそうだ。


 遠くで見ているほうが良かったのに。見ているほどに、引き寄せられる。


 寄せては返す。波のように。


 私が描く海は、誰がどこから見ても海だとわかる。でも、水は一ミリも動かない。当り前じゃない、絵なんだから。


 絵画が動くなんて魔法の世界。

 私は魔法を使えない。

 そうか、竹内くんは、魔法使いだったんだ。


 それもここで終わってしまうのだろうか。


 大学を卒業して、ただ「ちょっと絵が上手い」だけの平凡な会社員になって。ただちょっと綺麗なだけの、平凡な女と結婚して。


 パパは昔、絵のコンクールで一番になったことがあるんだよ。

 すごーい。どんな絵を描いたの?

 でも完成させたのは、そのたった一枚だけなんだ。


 ふっ……、くだらない。



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