2.海辺の二人


「青いですねえ」


 ええ、海ですからね。


 出かかった返事を、私は急いで飲み込んだ。青い、という言葉にはたくさんの意味がある。森影氏なら尚更、その言葉に深い陰影を見出しているのかもしれない。


 私たちは次のホールに移動していた。ここに展示された絵はどれも海を描いたものだ。少しずつ大きさと構図の違う四枚の中で、二つ目のキャンバスが森影氏の関心を引いたらしい。

 

「𠮷井くん。そっちは、近くからも一枚欲しいですね」

「あ、はい!」


 驚いた。この人は、後頭部にも目が付いているのだろうか。


 私たちの後ろで他の絵を撮影していた𠮷井さんは、すぐさま大きな鞄を床に下ろし、片膝ついてカメラのレンズを交換した。


 彼は森影氏の付き人兼お抱えカメラマンといったところ。撮り方の指示が出れば、どこかに掲載してもらえると思ってまず間違いない、とは清見さんからの入れ知恵だ。

 私は表情を変えないよう気を付けながら、森影氏のほうへ顔を戻した。


 パシャッ。パシャッ。


 遠慮がちなシャッター音が響く中、森影氏はそれを確認することなく海を眺め続けている。ほんのわずか、体が前後に揺れている気がする。波間に揺蕩たゆたうかのように。


 杖に添えられた手の甲には、薄い皮膚を押し上げて血管が青く浮き立っている。私の倍以上の時間を生きて人生経験を重ねてきた手だ。



  ☆



 私たちの部では、年に二回ヌードデッサンをやる。

 実態は幽霊部員ホイホイ祭りだ。


「衣服の下の肉体を知り、皮膚の下の人体構造を知らなければ、リアリティのある描写はできない」なんて聞いてもいない言い訳を並べながら、不慣れな手つきで画材を並べる男子部員。

 それを非難しつつ参加する女子部員は、静物画専門だったりする。


 一つのポーズで十五分。休憩を挟んで次のポーズ。

 私は時間をかけてじっくりと描きあげたいタイプだから、第二セッションは不参加にした。後ろに下がってさっきの一枚を仕上げにかかる。


 ある程度のところで自分を納得させ、ペットボトルのお茶を飲みながらひと息ついていると、斜め前方に竹内くんの背中が見えた。

 竹内くんのデッサンを見るのは初めてかもしれない。興味本位で体をずらした。


 陰から現れたデッサンを見て、私は思わず、その横顔を確認した。

 やっぱり竹内くんだ。


 油彩のときはあんなに荒々しいタッチで描くのに。


 黒鉛の先が、画用紙をサラサラと撫でる。最初はラフだった輪郭が徐々に具体性を帯び、身体のラインが現れる。陰影が平面に膨らみを与える。その中に細部が描き込まれる。

 忙しなく動く右手の下で、女ができていく。


 そこにはディテールがあった。溢れるほどのリアリティがあった。肌の質感、やわらかさ、弾力。全てをつぶさに拾い上げ、一つ一つ、紙の上に再現していく。一つも取りこぼさないように。


 竹内くんは手を止めて、前を見た。真剣な眼差しが女の裸を凝視する。

 汚れた指先が肌を滑り、線をぼかした。




 そのデッサンから少しして、竹内くんは一枚の作品を完成させた。海の絵だ。


 朽葉色の砂浜に、押し寄せる青。その狭間はざまに彼が描き込んだのは、デッサンと同じポーズの人物だった。人魚姫のように岩場に腰掛けて遠く海を見つめる横顔。左下からはもう一人の影が長く伸びている。


 あの海へ、一緒に行ったのは私なのに。


 稲穂の海は未完成のまま埃除けの布に隠されていた。

 いつかまた日の目を見るときが来るのだろうか。


 春になり、竹内くんの海は大賞を取った。



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