不覚にも画集を買ってしまった。


 液晶画面越しではわからない細かな筆遣いまで、最近の高画質印刷は鮮明に再現する。

 そのぶん余計に粗が目立つ。ぬるぬる、ぬらぬらと絵具を引いた筋。下塗りのような大雑把おおざっぱな配色。


 なのに、何だろう、この、水の透明感。

 見つめるほどに、底からディテールが浮かび上がってくるかのようだ。水が動き出す。音を立てて渦巻く。光を弾いて波打つ。


 ホアキン・ソロヤは「光の画家」とも呼ばれるらしい。

 光の画家といったら、フェルメールでしょ。それかクロード・モネ。レンブラント。そのどれとも全然違うのに。だけど、ここには確かに光がある。


 液晶とプリントでこれだけ違うということは、実物ならもっと……。

 想像しながら、またページをめくる。


「これ好き」


 穏やかな声と共に、人差し指がぬっと伸びてきた。


「はわ。……わっ、え」


 開いたページの数センチ上空で静止する。指先が絵具に汚れているからだ。


 指から上へと……追うまでもない。肘まで辿った視線を慌てて窓へ逸らすと、いつの間にか夕日が山の端に迫る時間になっていた。


 油断した。彼が来る前に、画集を片付けて制作を始めているつもりだったのに。まさか本人に見られるなんて。

 夕焼けが顔色を誤魔化してくれることを願いながら、私はページに戻った。


 そこに写っていたのは海だった。一瞬、写真に見えた。よく見ればやっぱりソロヤだ。

 ホアキン・ソロヤの画集には、水辺を描いたものが多い。


「……海、キレイね」

「うん」


 短い返事の出処は、もういつもの部室の隅に収まっていた。

 何なのよ、その変わり身の早さは。


 思わず振り向いて、言いかけた文句は、竹内くんのイーゼルを見て引っ込んだ。


 そこにあったのは真っ白なキャンパスだったのだ。


「続き、やらないの?」


 稲穂の海は、先週からずっと風にあたっている。とっくに乾いているはずなのに。


「うん……」


 練習用の作品なんかは、キャンバスを塗り潰して再利用することがある。まだ残してあるということは、今後仕上げる可能性も残されているということだ。


 そして竹内くんは、これをよくやる。

 数週間、時には数か月の時間を塗り重ねてきた絵を、中途半端なまま放り出して次へ行くのだ。


 どんなに素晴らしい芸術も完成させなければ駄作にすらならない。完成させ、人目に触れて、初めてそれは「作品」になる。


 完璧を追い求めればキリがない。そんなの当り前じゃない。それでもみんな、どこかで妥協しなければならない。

 できなければ、時間を、労力を、そして才能をドブに捨てるようなものだ。


「海、行く?」


 彼が唐突に発した言葉の意味を、私は理解できなかった。四つの音が頭の中で寄せては返す。


 ウミ、イク……うみ、いく……ウミ、イク……?


 彼がもう一度聞いてくれなければ、たぶんそのまま流れて消えていた。


「海、行こうか」

「あ、うん」


 その背中へ、私は反射的に答えていた。意味はまだ解らなかった。


 週末、私たちは本当に海へ行った。



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