Ⅷ
コーヒーを三分の一になるまで飲み終わったころ、私は千尋くんの話を聞いていた。
千尋くんは、都内の高校に通う二年生。ご両親はお医者さんで日本中を飛び回っており、普段は一人でここに住んでいるらしい。
「じゃあ次は、景衣子さんの番です。今夜限りで互いに聞いた内容は忘れましょう」
「わかった」
私はそう返事をして、ゆっくりとここまでの経緯を話し始めた。
仕事終わりに彼氏から連絡が来て、店に呼び出されたこと。そこで5年付き合った彼に別れを告げられたこと。その原因は彼の浮気で、私はそれを黙認していたこと。
その店が初デートの場所だったなんてそんなどうでもいいような話までしてしまう。
子どもみたいにつっかえてしまったから聞きずらかっただろうに、ときどき会う視線があまりにも優しすぎて、私はそれに甘えてしまう。
高校生に話すようなことじゃない。しかも迷惑をかけている側の身なのに。そう思うが止められず、あのことまで口走っていた。
「しかたないの。彼氏に浮気されても。私は、つまらない女だから。なにもない、コンプレックスだらけの、大切にされていたほうがおかしいような人間なの」
テーブルの下で、カーディガンの上からぎゅっと右腕を握る。
これさえなければ、私は自分に少しくらい、自信を持てたんだろうか。
そんなたらればなんて考えても仕方ないって分かってる。これは、私がずっと、一生向き合っていかなきゃいけない“傷”だから。
俯くと、手の甲の傷の上にぽたりと涙が落ちた。
やだ。泣きたくない。彼の浮気が発覚したときも彼と別れたときも泣けなかったのに。こんなときばかり。
「……景衣子さん」
低くて澄んだ優しい声が、遠い雨の音に紛れて響く。私は名前を呼ばれ顔を上げた。
「右腕、見せてもらえますか」
私は素直に差し出す。今夜だけの関係。すべて忘れるならいいやと、思った。
千尋くんは袖を掴み、真っ白な大きな手でそっと丁寧に肘のあたりまで捲る。
そして、あざ全体が露わになった。
「……ふ」
千尋くんは優しく笑ったかと思うと、立ち上がりあざに顔を近づける。
「んっ……」
右腕に、柔らかい感触。びっくりして、思わず声を出してしまった。
顔を上げた千尋くんと目が合う。見つめられるだけで、溶けてしまいそうだった。
「……もっとして、いいですか」
そのお願いに私の拒否権はなく、手の甲から順番に余すことなくキスの雨が降る。
隙間を埋めて、全部全部埋めて。
———私を、認めて。
そんなわがままな感情に応えてくれるように、千尋くんは続ける。
右腕がふやけ始めたころ、手の甲にちゅうっと吸いつくようなキスをされてようやく止んだ。
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