第2話『流れる』
着ているTシャツが汗でびしょ濡れになり、肌に張り付いて気持ち悪い。
キャリーケースが意外と重い。その上、
20分ほど夏の炎天下の下、田舎道を歩いた。
そしてやっと見覚えのある景色が見え始めたその先には、見慣れた爺ちゃんの邸が立派に立ち構えていた。
田舎に似合わない大きな洋館。だいぶ年季は入っているが、それでもなお、独特な存在感は健在だ。
浅葱が錆びた大きな外門をグッと押すと門がギギギと鈍い音を立てて、ゆっくりと開く。
「ほら、どうぞ?」
同じ距離を歩いたとは思えないほど涼しい顔をした浅葱に促され、門の一歩内へとおそるおそる足を踏み入れた。自分が思っていた以上に体が緊張している。鼓動が速い。
「そんな身構える必要ないよ。どちらかと言えば私が迎える側じゃないし、君の実家も同然なんだから」
そう言いながら浅葱はスタスタと庭に敷かれたレンガの上を歩き玄関へと向かうので、慌ててその後を追った。
小さな池に噴水のある広い庭。だが、池に水は少しもなく干上がっていた。
噴水塔はところどころ錆びており、物悲しい。
かつては所狭しと花が咲き誇っていた立派な庭園。
今はその姿は影もなく、雑草が覆い茂り荒れ果ててしまっている。
「
「あ、ああ」
浅葱に手招きされ、玄関へと向かった。
手慣れた様子でポケットから鍵を取り出した浅葱は、扉の鍵穴に鍵を挿しこんだ。
鍵、持ってるのか。
浅葱が玄関の扉を開こうとする。その腕を反射的に掴んでしまった。
「どうしたの?」
「……ここに、いるんだよな?」
「そうだよ。なに、今さら怖気づいた?」
浅葱はふっと鼻で笑う。
「そういうわけじゃないんだけど。その、まだ気持ちの準備ができてないというか。……俺、寝癖とかついてない?」
「女子か」
「汗臭くない?大丈夫?」
「だから、女子か」
「だって、三年ぶりなんだぞ!緊張ぐらいするだろ?」
いくら身内と言えど3年も会ってなければ、何を話したらいいかわからなくなるものだ。
「ま、そうだろうね。でも安心して、この時間帯は多分寝てるから」
「寝てる?」
「とりあえず入ろうよ。暑いからさ」
浅葱が扉を押す。大きな古い扉が開かれた瞬間、隙間からゾッとするほど冷たい空気が漏れてくる。
薄暗く広い玄関ホール。洋館だから、靴は脱がない。
子どもの頃は、家の中なのに靴を履いていることによく違和感を感じていたっけ。
邸の中は、恐ろしいほど静かで少しも人の気配を感じなかった。まるで廃墟のようだ。
そして異様に冷えている。かいていた汗が一瞬で冷水になりそうなほどだ。
「まずは客間に行こっか」
「おう」
浅葱に言われるがまま、後をついていく。
鍵も持っているし邸の間取りも把握している。身内の俺よりも無関係な浅葱の方がこの邸に馴染んでいるようだ。なんだか複雑な気持ちだ。
客間に通され、ソファに座るように促される。
恐る恐るソファに腰掛ける。
幼い頃、訪れた時に見た景色の面影を残してはいるものの、全体的に部屋は古ぼけ全く違う空間に見える。廃墟にも見えるが、よく観察すると蜘蛛の巣や埃などはなく、丁寧に掃除されているようだった。
浅葱は『ちょっと待ってて』といって部屋を出て行ったので、その間に予備のTシャツに着替える。この寒さの中で汗で濡れた服を着ていては、すぐに風邪を引いてしまう。
ソファに腰掛けたまま、客間中を観察していると、浅葱が2つのティーカップを乗せたトレーを運んできた。
カップから湯気がたっているのが見えてホッとする。つい5分ほど前なら冷たいサイダーを一気飲みしたかったが、今は温かい飲み物がとても嬉しい。
「紅茶でよかった?」
「おぅ、悪いな」
「砂糖多めに入れておいたよ」
俺が甘党なことも覚えていたらしい。
「ありがとう」
お礼を言って、ぐっと紅茶を煽った。
「あっつ!」
なんで、一気飲みしたんだ俺は。
幸い、カップの中身をこぼすことなく口の中を火傷するだけにとどまった。
「バカ。そんないきなり飲んだら熱いに決まってる。氷持ってくるから……」
浅葱は小走りで客間をでて、すぐに小皿に氷を乗せて戻ってきた。
「わるい」
一口サイズの氷を口に含む。
「火傷してない?」
「皮がちょっと剥けたぐらい。大丈夫」
「そう」
いくら温かいものを欲していたとはいえ、あまりにも軽率だった。さっきから、暑いさと寒さの気温差に往復ビンタされているようだ。
「なぁ、この家異様に寒くないか?」
俺がそう尋ねると浅葱は紅茶をすすりながら、コクリと頷いた。
「そうかもね」
「クーラー効きすぎだろ」
「これぐらいがちょうどいいんじゃない?」
「ちょうどいいもんか。まるで、あれじゃないかよ。ほら、最近やってた映画の…」
……映画?
自分が口にした言葉に引っかかる。
先日テレビで放送された昔のホラー映画だ。
とある男が、冷房の効き過ぎた部屋で過ごしている。そこへセールスマンが男の家に訪れるとあまりの寒さに、空調の不調を訴える。だが、男は「腐ってしまうと困るんでねぇ」とニタニタ笑う。
男は猟奇殺人鬼で、家に訪れた人を殺しては寒い地下室に死体を飾っていたのだ。
「なあ、浅葱。ちょっと聞きたいんだけど」
「なに?」
「生きてるよな?」
「は?」
「一年前。……爺ちゃんの葬式に
「……」
「俺が三年間送り続けた手紙も、一度も帰ってきたことがない」
「……」
どうして今までその可能性を考えなかったんだろう。人は急にいなくなる。それは痛いほど経験したはずなのに。
嫌な予感がした。変な映画を見たせいだ。
俺の問いかけに、浅葱は黙っていた。
その沈黙に、俺の不安は大きくなってくる。
「なあ、浅葱」
「生きてるよ」
浅葱は呆れたように笑った。その顔を見て、心の底から安堵のため息が漏れた。
「思考が飛躍しすぎだよ、君」
「よかった。あまりにも寒いし、それに人の気配感じないからさ…」
「心露は存在感消すのがとびきり上手いからね。それに心露がいる部屋は定まってるわけじゃない。知らない間にいろんなところに移動してるんだ。いつも、探すのに一苦労なんだよ」
浅葱はやれやれといった様子で両手を軽く上げたが、その顔は特に不満気ではなかった。
「心露に会いたければ、片っ端から部屋という部屋を探してみなよ」
ニヤニヤと浅葱が笑う。悪い顔だ。
心露と昔、かくれんぼをした記憶はあるが本当に見つけられたことがない。
「ご飯はどうする?よかったら適当に作るけど」
「作るって浅葱が?」
「そうだけど」
紅茶といい、夕飯といい、浅葱は随分と邸の勝手を把握しているらしい。
「浅葱の父さんが、爺ちゃんの教え子で親父の幼馴染だってことは知ってるんだけどさ、具体的にどういう関係なんだ?邸の鍵だって持ってるし」
浅葱は一瞬驚いた目をしたが、すぐにまた冷たい目に戻る。
「……なにも聞かされていないんだったね」
「だから、そう言ってるだろ」
「
浅葱は飲みかけのカップを置いて、俺の方へ向き直った。
「ほら田舎って交流関係狭いでしょ?同郷は家族みたいなもんなんだよ。私たちは何世代も前から交流があるし、血の繋がりはなくても、お互いほぼ親族さ。私の名付け親も沓九先生だから」
「そうなのか?」
初めて知った。
「なんだ、知らなかったの?私と縹くんの名前は同時期に、沓九先生につけられてるんだよ。誕生日も近かったし」
そういって浅葱はふいっと横を向いた。その横顔には、不服さが滲んでいた。確かに、俺の『縹』という名前も『浅葱』という名前もどちらも青色を意味する言葉だ。爺ちゃんは青色が好きだった。
「私にとって、航青おじさんは親戚のおじさんみたいなもので、私は姪っ子のような存在。だから、おじさんは私に頼んだんだよ」
「親父が浅葱に?何を?」
「沓九先生が亡くなった後の、心露の世話」
「へ?」
思わず間抜けな声が出てしまった。
「ちょっと考えれば、分かるでしょ?10代の女の子が、一人で生活できるわけがない」
それはそうだ。いつも疑問だった。心露がどうやって暮らしているのか。
「初めは泉谷家でしばらく預かってたんだけど、その……私の母さんがね、少し難しい人だから」
浅葱が言葉を濁した。俺は、記憶をたどり浅葱の母親の顔を思い起こす。
小柄で笑顔がどことなく幼い、大人なのに少女のような面影があり、子どもの俺を猫可愛がりしてくれた。可愛らしい、という言葉が似合う女の人だった。
記憶の中の浅葱の母親は小難しい人には思えないが、家族にしかわからない一面があるのだろうか。
「それに、心露もいきなり環境が変わるのについていけなかったみたい。だから結局はこの邸に戻ることになったんだ。それで毎日、私が沓九邸に赴いて夕食の準備やら、掃除やらやっているってわけ」
「つまり……全部浅葱に押し付けちゃってるってことか」
いい気はしないだろう。家族ぐるみの付き合いとはいえ、赤の他人の世話なんて。
「その分、おじさんにはお小遣いもらってるから気にしないで。それに……家にいるよりこっちの邸の方が静かで勉強も捗るから、むしろありがたいぐらい」
俺を気遣って言ったのか、それが本心なのかはわからない。
だが、浅葱はそれほど今の環境が嫌でもなさそうに見えた。
それはそうとして親父はなぜ、家族同然とはいえ他人に娘の世話を任せてしまうのだろう。
だったら、俺に……。
「離したかったんだよ」
俺の表情から汲み取ったのか、浅葱はまるで思考を読んでいるかのように答えた。
「おじさんは君と心露のことをさ、離しかったんだ。どうしてもね」
そう言って浅葱は席を立った。俺のティーカップも持ってまた客間を出ていく。
ぶるぶると身震いをした。それにしたって寒すぎるだろう。
客間中、エアコンのリモコンを探し回っていると、浅葱に食堂に来るように呼ばれた。
食堂には美味しそうな料理が1人分用意されていた。
「簡単なもので申し訳ないけど、よかったら食べて」
「す、すげぇ…」
艶のある白米と豆腐の入った赤だしの味噌汁。彩りが豊かな夏野菜の和え物。
栄養バランスもきちんと考えられているようだし、盛り付けも綺麗。
「いただきます」
手を合わせて、しっかりと感謝する。
そして、まずはメインの夏野菜を一口、口に運ぶ。
「う、うますぎる…」
これが、家庭の味というやつだろうか。
決して濃くはない、優しい味付け。何年ぶりだろう。誰かが作ってくれた料理を食べるのは。
そこからはもう箸が止まらなかった。
浅葱は、頬杖をつきながら俺の食べる姿を見ていた。
「そういえば、少し前まで台風で大変だったんだよ」
浅葱がふと、思い出したように言った。
「あぁ、ニュースで見た」
川が増水し今にも溢れそうになっている映像をテレビで見かけていた。
「またくるらしい。次のは前よりも大きいらしいから、気をつけて。川近いし」
「そっか。川、近かったなそういえば」
この前の台風では被害はなかったと聞いたが、油断していると、大変な目に遭うこともある。
「昔、よく川で遊んだよね」
「そうだったな。懐かしいや、また行きたいな」
よく家族ぐるみで川辺バーベキューをしたなぁ。話せば話すほど、どんどんと思い出が蘇ってくる。
セミの鳴き声が急に止まり、俺は窓の外に目をやった。気づけば、外はもう真っ暗だった。
そういえば裏の雑木林でよくセミ捕りしたっけ。木の幹をよく見れば、ゾッとするほどおびただしい量のセミたちが競うように叫んでいたのを覚えている。
「セミ捕りしてぇな」
「田舎ですら、セミ捕りする高校二年生なんていないよ」
浅葱は冷たくそう答えた。
そういえば、浅葱は家に帰らなくて大丈夫なのだろうか。外は大分暗くなっている。
「さて、もうそろそろ帰らないと」
俺が尋ねようとした時、ちょうど浅葱は腕時計を確認し立ち上がった。
「洗い物は自分でできる?」
「もちろん。夕飯つくってくれてありがとな!すっごく美味しい。いい奥さんになるな!」
「いえいえ」
浅葱は照れた様子もなく、テキパキと帰り支度を始める。
「夜のことだけど、部屋はいっぱい余ってるし好きな部屋選んで寝ればいいよ。大抵の部屋にベッドあるから」
「おう」
「シーツは、予備のものがクローゼットにあると思うから」
「なにからなにまで、悪いな」
浅葱が食堂を出て行こうとしたので、箸をとめて玄関まで送る。
扉を開けようとして、浅葱はふと俺の方に向き直った。
「縹くん」
「ん?」
「私は心露のことを大事に思ってる」
真面目な顔だ。
嫉妬する気持ちもあったが、俺の知らない三年間にあいつのことを大事に思ってくれる人が一人でもそばにいてくれたことを素直に嬉しくも思った。
「ありがとうな、浅葱」
「……」
俺の言葉に浅葱は複雑そうな顔をした。
「礼を言われる筋合いはないよ。だからこそ私はまだ、君には心露と会って欲しくないと思ってる」
「わかってるよ。それが、俺たちのためなんだろ?」
「……わかんないよ。私のためかもしれない」
小さく、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で浅葱はつぶやいた。
「じゃあね。また明日、学校が終わったら来るよ」
そういって玄関の扉を開け、浅葱は振り返ることなく去っていった。
去っていく後ろ姿が見えなくなり、玄関の扉を閉めた。その時だった。
突然、スマホの着信音が響く。
今まで圏外だったのに、やっと電波をひろったらしい。
ポケットからスマホを取り出し画面を確認すると、そこには『親父』という文字。
「ゲッ……」
一瞬躊躇う。すると、すぐに切れた。
「あ」
スマホの着信履歴の通知が一気に入ってくる。
着信履歴50件。電波が届かなかったせいもあるが、心配をかけてしまったという罪悪感で胸がいっぱいになる。
すぐまた、着信音がなったのでおそるおそる通話ボタンを押した。
「もしもし……」
『縹』
親父の声。かなりご立腹だが、なんとか平静を保とうとしているのが、ひしひしと伝わって来る。
「ごめん。電波の調子が悪くてさ」
『そんなことだろうと思った』
ああ、バレてるな。
ここは、親父が生まれ育った場所でもある。電波が悪いことぐらい親父が一番わかっているに決まっている。
『爺ちゃんの家か?』
「……そう」
『心露に会ったのか?』
まくし立てるほどではないけれど、淡々と質問を投げかけてくるのが怖い。
「それは、まだだけど」
『帰ってこい』
「なんで」
『いいから、帰ってこい』
声だけでも感じる威圧。
普段滅多に怒ることがない親父。だからこそ、怖い。声が震えそうになるのを必死で抑え、言葉をしぼり出す。
「いやだ」
『縹』
「ちゃんとした理由を教えてくれるなら、帰るよ」
『……』
親父は黙ってしまった。今どんな顔をしているか、電話口ではわからないけれど、おそらく、駄々をこねる子どもに対して見せる困った大人の顔をしているんだろう。
「まだ、帰らないから」
『縹!』
電話越しでもビクリとする大声。スマホを落としそうになる。
だが、そんな動揺を悟られないように強気ぶった声を出す。
「なに?」
『お前は何もわかってない』
俺は何もわかってない。そんなことはわかっている。
俺が何も知らないことを、俺は知っている。
何も知らない。わかっていない。でも、それは……。
「親父が説明してくれないからだろ……!」
思わず叫んでいた。
長い長い沈黙が流れた。
『……縹』
「……」
『いずれ話す。だから、今は辛抱してくれないか?』
親父の声は途端に弱々しくなった。聞かん坊をあやすような口調で悟しはじめる。
「いずれって?」
『お前が、自立して……』
「……嘘ばっかし」
『嘘じゃない』
「親父のこと、もう信じらんないよ」
親父が今までどれだけ俺のために色々な事をしてくれたのか、ちゃんと理解しているつもりだ。
それでも、自分でちゃんと知りたいと思ったんだ。
『……縹。今は仕事でそっちに迎えに行けそうにない。だから、頼むから、すぐに帰って来てくれ』
「気が向いたらね」
俺は、親父の返事を聞くことなく通話を切った。
玄関から食堂へ戻ると、またスマホは圏外になっていた。
浅葱の作ってくれた夕飯を完食し、食器を洗う。
さて、ここからどうしようか。
とりあえず、洋館の部屋を一部屋づつ見て回ろう、きっとどこかの部屋には心露がいる。
緊張感はあるにもかかわらず、眠気が襲ってきた。仕方ない。今日は朝が早かったから。
あくびをしながら、階段を登って突き当たり。一つ目の部屋を開けた。
適当に選んだわけではない。その部屋は、特別だった。錆びかけた蝶番が歪な音を立てる。
ホコリくささとムワッとした熱気。
この部屋は掃除をされていないらしい。そして冷気も届いていない。その部屋だけが異空間のように感じた。
部屋の明かりをつけると、あの頃のまま、少しも変わっていない風景がそこにはあった。
憧れだった、アンティークの書斎机。
その上には止まったまま埃をかぶったアメリカンクラッカー。
難しそうな数学書で埋め尽くされた壁一面の本棚。
懐かしい、爺ちゃんの書斎。
中へと入る。爺ちゃんがいつも座っていた、背もたれがふかふかした大きな回転椅子にそっと腰掛けてみる。
体全体を包み込まれるような、心地よさ。一気に眠気が押し寄せて来る。
床を軽く蹴って、椅子を回転させる。
ギギギギギと音をたて、椅子がぎこちなく回る。
この椅子に座り、この机で、爺ちゃんはいつも難しいパズルを解いていた。
俺たちが遊んでくれとせがむと、ニコニコと笑いながら簡単なおもちゃのパズルをくれた。
『人間は、パズルを解くために生まれたんだ。解くべきパズルは人それぞれ形が違う。でも共通していることは、パズルを途中で放り投げちゃいけないってことさ』
爺ちゃんの言葉が蘇る。
俺は、いつも爺ちゃんがくれるパズルに全力で挑んだ。俺がパズルを解くと、爺ちゃんはいつも褒めてくれた。
爺ちゃんは嘘をつかない。
どんなことがあっても、真実を隠したりしない。
そういう人だと思っていた。
……だから、目の前の物が信じられなかった。
「なんだよ、これ……」
爺ちゃんの書斎机の引き出しからはみ出した封筒。
それには、見覚えがあった。
引き出しをいっぱいまで引き出す。そこには、未開封の大量の手紙が綺麗に並べられて、保管されていた。
俺はおもわず、拳を机に叩きつけた。
「爺ちゃんも解くなっていうのか?」
怒り。その後にやってきたのは失望。自分の三年間を無下にされた気持ちだった。
俺が心露に宛てた三年間の手紙。
それは、この引き出しに封印され、心露には一通も届いていなかったのだ。
ノイズ音のなかに混じる微かな子どもの笑い声。
誰の声だろう?暗い。
身体の感覚が掴めない。まるで身体が水になったようだ。笑い声が遠のいていく。
温度のない水と一体化して底へ、さらに底へと沈んでゆくようだ。
ふと、目を開ける。
気づくと玄関に立っていた。小さな身体、あの頃の身体だ。両手には大きなスーパーの袋が二つ。カラン……と、音がして袋から蜂蜜の瓶が転がり落ちる。
水の流れる音。
「ダメだ」
そう叫びながらも、小さな自分の脚は自分の意思に反して、風呂場へと向かっていく。
「ここ……ろ」
脱衣所を見つめる小さな少女。
風呂場から水が溢れ、床をじわじわと濡らしていく。その水が少女の脚に触れると、少女はみるみるうちに溶けだし、頭まですべて溶けて形のない水となる。
「こ……ころ!」
一生懸命に叫ぶのに、声が思うように出ない。
ぬるりと浴室から青白い脚が伸びる。
脚はゆっくりと床を濡らした水を踏みしめ風呂場からその姿をあらわす。
その足には上半身がない。
へそのあたりから上が綺麗さっぱり無くなっている。
水が自分の足元へと流れつく。まるでその水に拘束されたかのように足をピクリとも動かせない。
すらりと長いその脚はゆっくりと水の上を歩いて、こちらへと向かってくる。
「…なんで?」
ペタペタという足音とそれにしたがって水の跳ねる音。
「あんなに、やさしかったのにどうして?」
自分でもわけのわからない言葉を、勝手に口が紡ぐ。気づけば目からは涙が溢れていた。
美しい脚が目の前で立ち止まる。
「…俺を産まなければ」
無いはずの目が俺を見つめている。
無いはずの口が俺の名を囁いている。
「ママは幸せになれた?」
脚に対してどんな問いかけをしているのか、どんな答えを聞きたいのか、自分でもわからない。
問いかけに答えない脚。
水が落ちる音と同時に、上半身のない女の体は糸を切られたかのように、その場に崩れ落ちる。
ハッと目が覚めた。
息が上がっている。心臓がバクバクと内側から胸を殴ってくる。
全身からは汗が滝のように流れだしていた。
胸をおさえ、乱れた呼吸を整えようと深呼吸する。
「ふぅ……」
呼吸を整え、あたりを見回す。
爺ちゃんの書斎だ。窓からは青白い明け方の光が射し込んでいる。
どうやら、あのまま寝てしまったらしい。
机が、濡れていた。しばらくして、それが自分の涙だと気づく。
前髪をかきあげ袖で目元を拭い、眼鏡をかけ直す。
俺はゆっくりと立ち上がり、爺ちゃんの書斎を後にした。
歩くたびに床がギシギシと音をたてる。まだぼんやりと寝ぼけた頭で目的もなく廊下を歩いた。
ふと耳を澄ますと、小さなクーラーの稼動音に気づく。
足元を冷たい風が通る。風の流れてくる方へと向かい、一つの部屋へとたどり着いた。感じる。この部屋だ。扉の隙間からは、まるで冷凍庫から溢れるように冷たい空気が漏れ出している。心臓が、バクバクと強く脈打つ。
そっと、扉に耳をあてる。クーラーの稼働音以外は何も聞こえない。
微かな寝息も、シーツの擦れる音も。
俺はドアノブに手をかけ、ゆっくり回した。
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