智也【五】

 それが僕の勝手で都合のいい気休めだと気づいたのは、すっかり桜の花が散り終えた、高校三年生になったばかりの頃だった。受験勉強に没頭していた僕は、その日の学校帰り、繁華街の大型書店に立ち寄っていた。週末の勉強用に、数学と物理の問題集を買い足すためだ。

 書架の前で問題集を片っ端から吟味していると、唐突に腹の虫が鳴って我に返った。問題集選びに没入するあまり、完全に時間を忘れていた。振り返って店内の時計を見ると、すでに午後八時を回っている。僕は物色に踏ん切りをつけると、慌てて帰路に就いた。

 気が急いていたため、普段は通らない裏道を使ったのがよくなかった。車がやっと擦れ違えるくらいの薄暗い裏道を急いでいると、前から腕を組んだ男女が歩いて来るのが見えた。急いでいたし、特に珍しい光景でもないので、普段ならまともに見もせず、こうして記憶にも残っていなかっただろう。しかし、そのとき出くわした男女は僕の目を釘付けにした。なぜなら、その女性があまりにも見慣れた服装をしていたからだ。

 男性のほうは三十代半ばくらいで、どこにでもあるカジュアルな普段着を着ていた。おそらくスーツ姿を強制されない職場に勤めているのだろう。そして隣を歩く女性はというと、僕が毎日目にしている学校の制服を身に着けている。間違いない。あーちゃんだった。着飾ったり、学校では禁止されているような装飾をすることもなく、普段と寸分も違わない姿だった。

 最初、二人は付き合っているのかもしれないと思った。しかしその想像は、あーちゃんの表情を見た途端に消え失せた。辺りが暗く、多少距離はあったにしても、この僕が彼女の表情を読み間違えるなんてありえない。あーちゃんは微笑みこそ浮かべていたが、心底楽しんでいる顔ではなかった。つまり、面白がってはいるものの、少なからず義務感のようなものも感じていたということだ。

 僕はあーちゃんに気づかれないよう、俯いたまま早足でその場を通り過ぎた。機嫌よく一方的に喋る男と、適当に相槌を打つあーちゃんの声。ここのところ落ち着いていた僕の胸が、切迫した早鐘を打ち始めた。真っ赤に焼けた鉄のような思いが、早鐘のハンマーに打たれて火花を散らしている。僕はすべてを悟った。残念ながら、あの噂は本当だったのだ。

 学校に知られたら大変だというのに、校外でも普段の姿で通しているということは、おそらく自然で現実的な高校生の風貌に需要があるのだろう。早鐘が胸中を激しく震わせているというのに、どこか冷ややかに現実を傍観している自分がいて、僕はとうとう心が壊れてしまったのかと思った。実際、中学までのように物事を純粋に捉え、普段の遊びの中で勇ちゃんたちと善悪を確かめ合っていた僕はすでにおらず、その点では本当に壊れてしまったと言ってよかった。

 ただ、せめてもの救いがあるとすれば、それは僕がこの日、自室で一人になった途端に泣き崩れたことだった。僕にはまだ、勇ちゃんたちと培ってきた良心と義憤が残っている。そして、誰よりも大切な人の手を取り、その手を引いて迷いの森から引っ張り出してやる勇気がない自分に、改めて怒りを覚えることもできている。

 僕の勝手な独りよがりでしかないけれど、あんなあーちゃんを見るのはもう堪えられない。勇ちゃんからだって、あーちゃんのことを頼まれている。僕が何とかしなければ。これは僕にしかできないこと。でも、どうやって? 今のあーちゃんが、僕の話をまともに聞いてくれるとは思えない。たとえどうにかして彼女の耳に届けたとしても、うざったい説教として黙殺されるのがおちだ。

 僕はひたすらやきもきするだけで、その後もあーちゃんと話す機会を作れずにいた。メッセージアプリはまだ生きているけれど、高校生になってからは返信をもらえた試しがない。勇ちゃんに対しても完全に無言だし、僕がお節介なメッセージを送ったところで、逆効果でしかないことは目に見えている。

 やはり話をするには直接会うしかなく、そのハードルの高さは僕に様々な言い訳を拵えさせた。当時の僕は受験勉強に明け暮れており、そのプレッシャーが日常をひどく億劫なものにさせていた。時間や労力を勉強以外に割く余裕がなく、ただでさえ困難を極めるあーちゃんとの接触がどんどん後回しになっていったのも、仕方のないことだった。

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