智也【四】

 こんな有様だったので、高校二年の夏は誰もあの砂浜に行かなかった。僕は一応、勇ちゃんにメッセージを送って、今年はどうするつもりなのか訊ねていた。彼の返事は、今年は忙しくて行けない、という素っ気ないものだった。

 それも仕方のないことだ。二年生になった勇ちゃんは水泳部のエースになっており、しかも三年生が引退する秋には部長を押し付けられる予定だと、さも億劫そうに言っていた。それほどの期待を背負っていたのだから、夏の間の練習は文字どおり毎日が真剣勝負だっただろう。

 ただ、いくら多忙とはいっても、祭りの夜の二時間さえも捻出できないという返事には疑問が残った。あの、ニンニクとうなぎとすっぽんを煮詰めて人型にしたような、元気の塊である勇ちゃんが、昼間の練習でバテて花火を観られないなんてことがあるだろうか。勇ちゃんの返事は、僕には体のいい言い訳のように聞こえた。なぜそんな言い訳をしなければならなかったのか。それはもちろん、あの砂浜に行きたくなかったからに違いない。

 考えられる可能性は二つ。一つは、新しい友達や、もしかすると彼女と呼べるような女の子との時間を優先したかったから。勇ちゃんの容姿と人柄なら、学校でもたくさん友達がいただろうし、多分女の子にもモテたはずだ。悔しいけれど、勇ちゃんは僕なんかよりずっとかっこよくて社交的で、男の僕でさえ憧れてしまうことがあるくらい魅力的だ。だからあの日、僕の他に勇ちゃんを必要としていた人がいた可能性は高く、それならば僕は喜んで勇ちゃんを送り出そうと思った。

 ただ、もう一つの可能性は少し事情が違った。それは、勇ちゃん自身があの砂浜を拒否しているという可能性だ。しかし勇ちゃんに限って、僕たちにそっぽを向いたり、過去の関係として見限ったりといったことはありえない。それだけは断言できる。それほど勇ちゃんのことを心得ている僕だからこそ、二つ目の可能性を思いついてしまったときは自分を責めずにはいられなかった。

 もし勇ちゃんがあの砂浜に行きたくないと思ったなら、その原因は間違いなくあーちゃんだ。当時の勇ちゃんはおそらく、あーちゃんに会いたくないと思っていたのではないだろうか。ただ、もし砂浜に行っていたらあーちゃんに出くわしていたかというと、当然そんなことはない。なぜならあの年のあーちゃんは、前年にも増して僕たちへの興味を失っていたからだ。

 でも勇ちゃんは、僕があーちゃんの素っ気ない様子を伝えていたにもかかわらず、砂浜に行くとあーちゃんに会ってしまうと思っていた。現実のあーちゃんではなく、記憶の中のあーちゃん。僕たちが三人で馬鹿騒ぎしていた頃の、屈託なく笑う天使みたいなあーちゃんにだ。つまり勇ちゃんは、あーちゃんのことを思い出したくなくて、あの年の花火を見送ったのではないか。もしこれが真実なら、僕にとってこれほど悩ましいことはない。

 僕の胸の中では、ずいぶん前に聞いた言葉が古傷のようにうずいて熱を持ち、周りの血肉をじりじりと焦がしていた。

〝大人になったらさ、俺たち結婚しようぜ〟

 あのときの勇ちゃんが、どれくらい本気でこの台詞を言ったのかはわからない。でも、わかりたいとも思わなかった。そんなことを知ったところで、僕にはどうすることもできなかったからだ。勇ちゃんと張り合ったところで勝負になんかならないだろうし、もし勇ちゃんが僕の前に立ち塞がらなかったとしても、僕だけの力であーちゃんを振り向かせるなんて到底無理な話だった。


 その頃のあーちゃんは、前年度とはまったく雰囲気が違うグループの中にいた。陽気だけど、ちょっと屈折した感じがする近寄りがたいグループ。進学校の中にも落ちこぼれはいる。そういった部類の生徒が、居場所を求めて寄り集まったような顔ぶれだった。

 あーちゃんがそういうグループと付き合うようになったので、僕とあーちゃんの距離はさらに大きく開いてしまった。前年度までは、校内の移動時などにわざと遠回りをしてあーちゃんの様子を窺うこともあったが、二年生になってからはむしろ僕のほうが彼女を避けるようになった。

 嫌いになったわけではない。ただ単に、見たくなかったのだ。小さい頃から感情に流されやすいところはあったけれど、あーちゃんはいつだって真っ直ぐな心を失わずに持っていた。それなのにあの頃は、自分を見失って空回りしていたのか、あんなに無垢でいじらしかった心がすっかり歪んでしまったようで、とても見ていられなかった。偶然すれ違うときに見る仲間同士の笑顔も、昔の彼女を知っている僕に言わせれば、下手な作り笑いでしかなかった。

 あーちゃんが良からぬ小遣い稼ぎをしていると聞いたのは、高校二年の秋口だったと思う。僕が中学から何となく続けていたソフトテニス部を辞め、大学受験に本腰を入れ始めた頃だ。そんな折、僕とあーちゃんが同じ中学ということを知っている友達が、くだんの噂を得意げに持ってきた。当然、僕の心中は穏やかでないどころか、ぐちゃぐちゃに押し潰された。

 僕は、自分が相当な身の程知らずだということを思い知らされた。自分があーちゃんの眼中に入っていないことを知りながら、心のどこかでは、いつかきっと振り向いてくれるという甘い期待を捨てきれずにいたのだ。この目でずっとあーちゃんの迷走を見ていながら、何も行動を起こさず、ただただ傍観し続けていた弱虫のくせに!

 僕の心の乱れは、理不尽極まりないものだった。多分、付き合っている彼女の浮気を知るとこんな気持ちになるのだろう。それなのに、付き合っているわけでもなく、ましてや相手にもされていない僕が、こんなにも激しいやきもちを焼くなんてどうかしている。いいや、それだけではない。僕はやきもち以上に、あーちゃんを買った相手のことを羨ましいとさえ思っていた。

 僕はお金の魔力に打ちのめされると共に、その魔力に魅入られてもいた。お金があれば、あーちゃんの時間と視線を独り占めできるし、何ならこれまで知らなかった髪の匂いや、肌の温かさまで知ることができる。それがひどく卑しい考えだということも、もちろんわかっていた。わかっていたからこそ、自分のおぞましい願望をくまなく鏡に映し出されたようで、それに気づいたときの怖気といったらなかった。

 あーちゃんの姿を思い浮かべるたびに、焼けた鉄のような積年の思いが胸を焼く。情けないことに、お金で欲望を買える大人がとことん恨めしく、それでも羨ましくて仕方がなかった。でも、たとえそのときの僕がお金を持っていたとしても、あーちゃんは僕の相手なんて絶対にしない。きっと心底呆れた目をして軽蔑するだけだ。その光景だって簡単に想像することができたから、僕の心は余計に八方塞がりになっていた。どうして大人だけは、お金で何を買っても許されるのだ!

 素行の乱れは得てして外見に現れるもので、そういった噂のある生徒たちはほぼ例外なく、競うように派手で垢抜けた格好をしていた。しかしあーちゃんだけは、化粧や制服の着こなしはもちろん、細かいアクセサリー類の趣味に至るまで、まったく変わる気配がなかった。

 だから僕は、噂のショックが落ち着いて少し冷静になってくると、次第に噂の真偽を疑うようになった。確かにあーちゃんはそういうことをやりかねないグループに属しているようだが、彼女に限ってそんな馬鹿なことはしていないのではないか。単にあのグループと昵懇じっこんというだけで、十把一絡じっぱひとからげに噂を立てられたのではないか。そう思い至ると、風に揺られるやじろべえのようだった僕の心は、急速に平衡を取り戻していった。

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