亜美【八】

 もはや日常となっていた白昼夢の終わりは、ある日突然やってきた。三年生になって二か月が過ぎようとしていたその日、私は学校の生徒指導室にいた。長机の端のパイプ椅子に座った私の前で、四十がらみの男性教師が立ったまま憮然としている。私のクラスの担任で、放課後ここに来るよう私に言い渡した張本人だ。

「なぜ呼び出されたか、心当たりは?」

 まったく感情のない担任の声が、冷ややかに頰を打つ。私は俯いたまま、静かにかぶりを振った。だが、本当はわかっている。担任がほのめかしているのは、目立たない普通の生徒を装っている私の裏の顔だ。

 小さく溜め息をついた担任は、手に持っていたタブレット端末を私の目の前に置くと、まるで私が止めるのを待っているかのような緩慢な手つきで動画ファイルを選択した。

「この動画は、学校宛に匿名で送られて来たものだ。夜の街の様子が映っているんだが、知っていることや説明したいことがあれば先に言いなさい。園田が何か思い出してくれたなら、この動画は再生せずに今ここで消去する」

 自分では落ち着いているつもりだった。しかしその認識は、私の傲慢な自惚れでしかなかった。返事をしようにも声が出ない。いや、出せなかった。なぜならこのとき、私の意識はどこまでも星のない夜空に塗り潰されていて、私を救ってくれる星のきらめきなど、どこにもないことに気づいたからだ。私はたくさんの星に囲まれていると錯覚していただけで、実は誰よりも孤独だったらしい。

 腿の上で固く握られた両拳が、小刻みに震えている。夜の街にだって少しも怖気づかなかった私が、体罰はおろか、まな板の鯉同然の小娘を叱りつけることさえできない中年教師の前で、ずぶ濡れの捨て猫みたい震えることになるなんて。

 満天の星空じゃなくていい。せめて偽物の星──。この孤独を少しでも忘れさせてくれるなら、たとえすぐに消えてしまう一発の三尺玉だって構わない。もし今、私が望む花火を打ち上げてくれるなら、私はその一瞬の記憶がすっかり擦り切れてしまうまで、飽きることなく夜空を見上げ続けるだろう。

 黙秘を貫く私に痺れを切らしたらしく、担任は聞こえよがしに大きく息を吐くと、黙ってタブレット端末の再生ボタンをタップした。画面に映し出されたのは、くたびれたグレーのスーツを着た中年男と、向かい合って食事をする少女の姿だった。少女のグラスを満たしているルビー色の液体は、どう見ても彼女に相応しい飲み物ではない。

「園田、お前で間違いないか?」

 返事に窮していると、動画内の景色が夜の繁華街へ移った。少女と中年男性が並んで歩く後ろを、一定の距離を保ってついて行く撮影者。ひやりとした汗が背筋を伝う。夜の私をつけ回し、しかも動画まで撮って学校に送りつけた者がいるなんて、もはや驚きを通り越して不気味でしかなかった。

 しばらくすると担任は、動画を止めて力なく呟いた。

「映っている二人はこの後、未成年にはふさわしくない建物に入って行く。言いたいことはわかるな?」

 まさかそんなところまで撮られていたとは。ワイングラスの中身くらいならどうにか言い訳できると思っていたが、こうなってしまえば話は別だ。いくら気弱な担任でも、私の素行不良を口頭指導だけで済ませるわけにはいかないだろう。

 この動画は単なる悪ふざけではなく、明らかに私を打ちのめすための凶器だ。私の夜の顔を知っていて、なおかつこんな手の込んだ密告をする動機がある者。心当たりはあった。私の転落を誰よりも心待ちにしている者といえば、かつて私が心から憧れ、二年生以降は陰で散々こき下ろしてきた上流グループの面々しかいない。彼女たちは今頃、私のこの醜態を知って腹を抱えて笑っているだろう。自分が蒔いた種とはいえ、学校ではさして珍しくもない陰口にこれほどの報復が待っているとは思ってもみなかった。

 私は、目の前に浮かぶ彼女たちの嫌味な顔を片っ端からかき消した。今、思い出さなければならないのは憎らしい奴らの顔ではない。しかし、一年以上もつるんで夜の街を闊歩してきた仲間たちも、一緒にお昼ご飯を食べているクラスメイトたちも、私と目が合うと素知らぬ顔を作って視線を泳がせる男子たちも、現れてほしいときには誰も現れてくれない。

 その理由は、考えるまでもなかった。たとえ同じ目で見られようとも、園田亜美を庇ってやりたいと思えるほどの信頼関係。そんなものは、この学校のどこにも存在しない。なぜなら、私がその信頼関係を少しも築いてこなかったからだ。

「園田みたいな生徒がどうして? まさか、トラブルにでも巻き込まれているのか?」

 少しでも弁解しなければと思ったが、普段ならいくらでも湧いてくる甘言も、都合のいい嘘も、何一つ浮かばなかった。いや、思い浮かばなかったのではなく、眠っていた私の良心がようやく目を覚まし、この痛ましい有様を見て、もう弁解も強がりもやめてしまえと囁いたのかもしれない。

 身じろぎもせず俯いてそんなことを考えていると、これまで何も現れる気配のなかった瞼の裏に、うっすらと人影が浮かび上がってきた。二人いる。どちらも男。そしてかなり若い。ああ、やっぱりそういうことなのか──。

 高校に入ってからというもの、私は理想の自分を必死で追いかけてきた。いつまでも子供のままではいけない。早く大人になって、他人に頼ることなく、自由に生きていける自立した人間にならなければ。

 しかしどうだろう。私が今までやってきた数々の奮闘は、そういった理想を少しでも実現しただろうか。いつから理想を気休めと感じていて、私を突き動かしているものが実はどうしようもない自己嫌悪で、心の奥底ではどれほどあの浜辺に帰りたくて仕方がなかったか。本当は、ずっとずっと前から気づいていたはずなのに──。

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