第53話 小さな疑念
「この国を信用するな」
耳を疑い、僕は振り向いた。フードの男は足早に離れていく。
「お父さん?」
「開星さん、どうかしましたか?」
足を止めて振り向いた僕に、娘と由依ちゃんが尋ねる。2人に何と言おうか考えている間に、男の背中はどんどん遠ざかって人混みに消えた。
「いや……勘違い、かな」
視界の端で捉えたフードの奥。そこには、黒髪黒目があったような気がしたのだ。
ペイトランの街を1時間近く散策して宿に戻る。最初に抱いた印象通り、挨拶や目礼をしてくれる人が割といて、敵意を感じるようなことはなかった。勇太と由依ちゃんも同じように感じたようだ。
「お帰りなさいませ、賢人様! この街はいかがですか?」
宿のご主人――40代前半くらいの男性が笑顔で僕たちを出迎えてくれた。
「良い街ですねぇ。みなさん賢人には親切なんですか?」
「ええ、それはもちろんでございます。我々は賢人様の恩恵を賜っておりますから」
「恩恵、ですか?」
「過去、賢人様が様々な物や制度をお作りになったと伺っております」
「なるほど」
ご主人も賢人に対して好意的なようだ。そこに何か隠された意図があるようには感じない。
しかし……謎の男が言ったことがどうしても気にかかる。
ただすれ違っただけで、一方的に投げられた言葉を信じるのかと言われると「頭から信じることはない」という答えになる。だがこの国に悪印象を与えて、あの男に何かメリットがあるだろうか。僕たちに、早くこの国から出て行って欲しい、とか? それがメリットに繋がるのか……駄目だ、上手く考えが纏まらない。だとしたら、あれを「警告」と受け取った方がしっくりくる。あれが警告だとしたら、この街の印象をそのまま鵜呑みにしてはいけない気がするのだ。
良い国だと思ったんだけどなぁ。いや、悪い国だと決まったわけじゃないんだけど。むしろ第一印象ではこの国に落ち着いても良いとさえ思っていたのだが……。
「どうしたのじゃ? 難しい顔をしとるの」
「それがねぇ」
宿のご主人に挨拶して部屋に戻ったら、マールから聞かれたのでフード男のことをみんなに共有した。
「黒髪黒目って本当ですか?」
「いや、見間違いの可能性も十分あるよ」
由依ちゃんは男が賢人なのか気になるようだ。それは僕も非常に気になる。しかし黒髪黒目ってだけで僕たちと同じ日本から召喚された者とは限らないからなぁ。
「信用するな、か……みんな良い人そうっすけどね」
「そうなんだよなぁ」
疑心暗鬼になってビクビクしながら過ごすのは嫌だよね。
『直接悪意を向けてくるヤツはいなかったわ』
おお。アドちゃんがそう言うならそうなんだろう。
「僕の考え過ぎかも知れないね」
「でも油断しない方が良いのです!」
「うん。パルの言う通り、警戒しておくに越したことはない」
部屋に戻るなりネコと戯れていたひなちゃんが、傍に寄って来て敬礼の真似をした。
「けーかいします!」
「そうだね、お願いします!」
そう言って敬礼を返す。
「ネコ、ひなちゃんに変な男が近付かないように一生見張っててくれ」
「ぐる、なぁ?」
ネコから「何言ってんだこいつ?」という目で見られた。賢過ぎる魔獣というのも困りものである。
今のやり取りで肩から程よく力が抜けた。知らず知らずのうちに緊張していたらしい。
「確信できるまでは普段通り油断しないようにしよう」
この街では賢人であることが知られたので今更誤魔化すことも出来ない。明日の朝にこの街から出発してまたいつも通り偽装スキルを使うことにした。勇太のことがなければ元々ここに立ち寄る予定じゃなかったし。
――コンコンコン。
部屋の扉がノックされる。全員が扉の方を向いて警戒した。
「お寛ぎのところ申し訳ありません! お食事はいかがなさいますか?」
廊下から若い女性の声が聞こえた。いつでも結界を張れるよう準備をしながら、少しだけ扉を開く。そこには由依ちゃんやパルと同じ年くらいの女の子が立っていた。僕が顔を出すと少女がペコリと頭を下げる。
「この宿の娘でポリーナって言います!」
明るい茶色の髪をお下げにした子だ。廊下には他に人影はない。部屋の中を振り返り、小声で「問題ない」と告げる。
「これはご丁寧に。カイセイと言います。お世話になってます」
「部屋にお食事を運ぶこともできますので、それを伝えに来ました!」
「そうなんですね。じゃあ運んでもらおうかな」
「はい! 出来上がったらお持ちしますね!」
ポリーナさんは弾けるような笑顔で答えると、廊下を走って行った。元気な子だなぁ。
宿に戻ってご主人と話した時、昼食を6人前と味付けなしでステーキを焼いて欲しいと頼んでいたのである。ステーキはもちろんネコ用だ。
しばらくして、ポリーナさんと宿のご主人(テッドさんと言うらしい)が昼食を部屋まで運んできてくれた。礼を言って受け取りみんなで食べる。
実はアイテムボックスに調理済みの食材が大量に入っているので、いつでも出来立ての料理を食べることが出来る。だから必ずしも料理を注文する必要はないのだが、国が違えば新たな味覚に出会えるかも知れない。味わったことのない料理、食べてみたいじゃないか。
運ばれてきた昼食は、焼き立てのパンとローストビーフのような中がピンク色をした肉、それと真っ赤なスープ。
「真っ赤っすね」
「か、辛そう」
勇太と由依ちゃんはあまりの赤さに尻込みした。ちょっと涙目になったひなちゃんが、スープと僕を交互に見比べている。僕は助けを求める目をパルに向けた。しかし彼女もこのスープは初めて見たようで、しきりに匂いを嗅いでいる。僕は意を決して一口飲んでみた。
「ん? ……辛くない」
これは、ロシア料理のボルシチのようなものだろうか? ピーツというカブのような野菜で鮮やかな赤い色を出しているアレである。偉そうに言ったが、もちろんボルシチなんて元の世界でも食べたことはない。
辛そうな見た目だが辛味はなく、むしろほんのりと甘みを感じる。具材は数種類の豆、小ぶりのインゲンみたいなもの、小さく角切りにした人参とジャガイモ、そして同じく賽の目状に刻まれた塩漬け肉。うん、これ美味しい。
「美味いよこれ! みんなも食べてごらん?」
「お父さん、辛くない?」
「辛くないよ。ちょっと甘いくらいだよ」
ひなちゃんが真剣な顔をしてスープを口に運んだ。そして驚きで目が丸くなる。
「おいしいよ、お父さん!」
「そうだね、美味しいね」
思わず娘の頭をなでなでしてしまう。あー、サラサラで気持ちえぇ。永遠に撫でていたい。
ひなちゃんが美味しそうに食べる姿を見て、勇太と由依ちゃんも恐る恐る食べ始めた。それからパル、そして最後にマールも食べる……神様も辛いものが苦手なのかな?
ローストビーフもどきの方も、何の肉か分からないが美味しい。表面に香辛料をまぶしてじっくり焼き上げたようで滅茶苦茶柔らかい。ソースは果物の香りがする。あまじょっぱくて美味しい。率直に言って白米が食べたくなる。
結局、出された料理はとても美味しかった。全員大満足である。ネコも焼いた肉が美味しかったようで、ごろんと寝転んで毛繕いに勤しんでいた。
「アドちゃんも食べれたらいいのに」
『あたしはいいのよ!』
アドちゃんたち精霊は空気中の「魔素」なる謎物質を取り込むため、食事は必要ないと以前聞いた。でも彼女だけ除け者のようで申し訳ない気持ちになってしまう。
『あたしはヒナの近くにいれたらそれでいいの!』
……メンヘラ彼女みたいなことを言い始めたのだが? 大丈夫だよね?
夕食も部屋に運んでもらって外出を控えた。街の印象は悪くないが、あの男の言葉がどうも引っ掛かるのだ。みんなで話し合い、無用な危険を冒す必要はないという結論に達したので、明日の朝には出発するつもりだ。その後は偽装スキルを使いつつこの国の首都ブーリデンを目指す。可能ならば聖女様と呼ばれる女性と会うのが目的である。
ということで早めに休むことにした。
念の為――と言うより僕の妄執である可能性大なのだが、夕食後にこっそりと宿を変えた。もちろん最初に借りた部屋はそのままだ。
僕が「偽装」して、テッドさんの宿の斜向かい、大通りを挟んだ別の宿に部屋を取った。そこに全員で移動する際は久しぶりに「認識阻害」を使った。もちろん馬たちと馬車も移動してある。
お金は勿体ないが、こうすることで僕が安心出来るのだと言えば誰も反対しなかった。
テッドさんの宿にも一応誰か残っていないと拙いかも知れないので、僕だけが元の部屋に残ることにした。
思えば、こんな風に一人きりで夜を過ごすのは……何年振りだろう?
若葉――妻と結婚して、日向が生まれるより前だから……9年くらい?
4人部屋は僕だけで過ごすには広過ぎて、何だか落ち着かない。窓からは月明かりが差し込んでいる。宿の近くを歩く酔客もいないようで、夜遅いこともあって辺りは静かだ。それらが物寂しさを増長させている。まるでこの世界に僕だけが取り残されたような感覚。
5分もかからない所に娘や仲間たちがいると言うのに。僕はこんなに寂しがり屋だっただろうか?
一人なのが落ち着かなくて目が冴えてしまった。だけど、そのおかげで外の気配に気付くことが出来た。窓から慎重に外の様子を探る。
どうやらこの宿は何者かによって取り囲まれたようだ。
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