第5話 森の精霊

 この世界――フローレシアには「魔物」と「魔獣」がいる。


 魔物とは変異した動物の総称。元となる動物の特徴を有するが、巨大化や狂暴化している場合が多い。魔獣は魔物と少し異なり、魔法や能力スキルを使える生物である。脅威度としては魔獣の方が高い。


 違法奴隷商人の馬車を襲ったブラッドグリズリーは魔物に当たる。


「仕方ねぇ、こいつらを囮にし――ぐはっ!?」


 一人の男が指示を出そうとし、背後から現れた新たなブラッドグリズリーの腕の一振りで吹っ飛ばされた。


「なっ!? 二頭だと!?」


 進行方向右手の森からと背後の左手の森から挟み撃ちされた形だ。


 日向の傍には、共に攫われた女の子四人が蹲っている。日向はなるべく体を小さくして、横倒しになった馬車の陰に身を潜めた。それに気付いた他の子たちもじりじりと寄って来る。


「ひぃっ!」

「うがぁ!?」


 日向は目をぎゅっと瞑り、両手で耳を塞いだ。くぐもった悲鳴、湿った衝撃音、唸り声。それから何かを咀嚼する音が聞こえた。錆びた鉄、生臭い臭い、何かが腐ったような悪臭、鼻を突くアンモニア臭。塞げない鼻に容赦なく悪臭が届く。


 日向は、何が起こっているのか見たくなかった。これから自分に起こることを見るのが怖かった。

 何か大きな物がこちらに近付いて来る気配。それと共に濡れた雑巾が山になったような、吐き気を催す悪臭が強くなる。


 お父さん……もう、会えないの……?


 瞼の裏に映る父の顔は優しい笑顔ばかり。もし自分が熊に襲われたら、無残な姿で父に見付かったら、父は二度と笑顔になれないのではないか。


「いや……そんなのいや!! こっち来るな、あっち行け!」


 日向は目を開き、力の限り叫んだ。手を伸ばせば届きそうな所に、既にそれは居た。

 一頭のブラッドグリズリーが日向に目標を定め、右腕を振り上げる。中華鍋のような巨大な掌、包丁ほどの大きさと鋭さのある黒い爪。それが自分を切り裂こうとした時、日向はぎゅっと目を閉じた。


 しかし、衝撃も痛みも来ないので恐る恐る目を開く。ブラッドグリズリーは腕を途中で止めていた。その顔の前に、何やらフヨフヨと浮いているのが見えた。


(…………え?)


 それは、日向がもっと幼い時に遊んでいた「お人形さん」のようだった。高さは二十センチくらい。お人形さんと違うのは、胸と腰に葉っぱがくっついている以外に服を着ていないこと、背中にトンボのような羽があって、それを動かして宙に浮いていること。


 その「お人形さん」は、巨大な熊の顔の前に浮き、小さな体全体を使って何かを訴えているようだった。


『……の子……のよ! ……から食べちゃダ……よ!』


 ふと気が付けば、日向の周りにはその「お人形さん」にそっくりな別のお人形さんがたくさん集まっていた。注意深く見ると、皆顔の造形が少しずつ違うのが分かる。


『……のこと見えてる?』

『たぶん……ない?』

『あ、目が合っちゃった!』

『絶対見えてるよね!』


 初めはちゃんと聞き取れなかった彼女たちの言葉が、日向の耳にしっかりとした意味を成して聞こえるようになった。


 熊の前で何か叫んでいた子は、腕組みして熊を睨みつけていた。いつの間にかもう一頭の前にも別のお人形さんがいる。二頭のブラッドグリズリーは渋々といった風情で森の中に消えていく。


「あの、あなたたちは……だれ?」

『精霊よ!』

『この森の精霊!』

『愛し子を助けに来たの!』


 日向がお人形さんに話し掛けると、皆が一斉に答えるので少し分かりづらい。その声は、声と言うより「音」だが、チリンチリンと軽やかに鳴るガラスの風鈴のようだ。


「ね、ねぇあなた。誰と話してるの?」


 日向の一番近くで蹲っていた女の子が、堪りかねたように尋ねた。


「えっと、せーれーさん?」

「えっ!? 精霊がいるの?」

「うん、いっぱい」


 その女の子は何とも苦々しい顔になる。人族の間で精霊は善と悪が綯い交ぜとなった存在と考えられている。その行動は両極端で、自分の気に入った者以外には容赦せず、苛烈な攻撃を加えることで知られているのだ。出来れば一生会いたくない相手だった。


『私たちの声も聞こえてる!』

『やっぱり愛し子ね!』

『本当に可愛い!』

『賢人の愛し子!』


 精霊たちは日向の周りで楽しそうにクルクルと回る。


「いとしご、ってなーに?」

『精霊の愛し子!』

『愛し子の近くは気持ちいいの!』

『愛し子、大好きなの!』


 日向以外の女の子たちは、お互いを抱き合うように一塊になり、少しずつ日向から離れようとしているようだった。日向はそれが少し悲しかった。


『愛し子、危なくない所に行こー!』

『連れて行ってあげるー!』


 二体の精霊が日向の袖を引っ張る。


「せーれーさんが危なくないところに連れて行ってくれるって。一緒に行かない?」


 日向は女の子たちに声を掛けるが、誰も日向と目を合わせようとしない。日向は泣きたい気持ちをグッと堪え、精霊の群れに向き直った。


「ねぇ、せーれーさん。この子たちを守ってあげて?」


 精霊たちはお互い顔を見合わせて、チリンチリンと何やら相談している。


「……だめ?」


 日向は胸の前で手を組んで、こてんと首を傾げた。その可愛い仕草に、何体かの精霊が胸を押さえながら地面に墜落する。愛し子の可愛らしさにやられたのだ。日向は慌てて落ちた精霊たちを優しく掬い上げる。その精霊たちはすぐに気が付いて、またフヨフヨと飛び始めた。


『わ、分かった、いいよ! 交代で見ててあげる!』


 最初に熊を止めてくれた精霊が答えてくれた。


「わぁ、ありがとう! あ、それとね、お父さんが迎えに来るかもしれないの」

『お父さん?』

「うん。もし来たら、ひなのところに連れて来て欲しいな」

『愛し子はお父さんに会いたいの?』

「うん! すっごく会いたい!」


 精霊たちは、またチリンチリンと相談し始めた。


『うん、分かった! 愛し子のお父さんが来たら案内するわ!』

「ありがとう!」


 日向はお日様のような笑顔で礼を言う。また何体かの精霊が墜落した。地面に落ちると日向が拾い上げてくれるので、わざと落ちている奴もいるようだ。あわあわと落ちた精霊たちのもとへ行こうとする日向は、先程から会話している精霊に止められた。


『その子たちは大丈夫だから早く行くわよ?』

「え……でも……」

『大丈夫! さあ!』


 その精霊は日向の右手人差し指を両手で掴んで引っ張る。後ろを振り返ると、墜落した精霊たちは平気な顔をして飛び始めた。こうして日向は、ブラッドグリズリーが消えたのと反対方向の森の奥へ導かれて行くのだった。





*****





 由依、勇太、たすくの三人は、プルシア・クルーデン・アベリガルド第三皇女の演説を聞かされていた。


「前回力を貸して下さった賢人様は、愚劣な魔人族の罠に嵌められて行方が分からなくなったのです。我が国は長きに渡って魔人族によって苦しめられています。どうか、この国の無辜の民を、苦しみから解放する手助けをしていただけないでしょうか」


 日向が別室へと連れて行かれてから、由依は何度も日向に合わせて欲しいと申し出た。その度に「今眠っている」とか「散歩に出かけている」とか「皇宮で食事している」などと言ってのらりくらりと話を逸らされた。不信感は募る一方で、美しい皇女から情に訴えかけるように語り掛けられても、全く言葉通りに受け取れなくなった。


「力を貸すって言っても、俺たちに特別な力はありませんよ?」


 勇太にも由依の気持ちが伝わっているようで、その言葉には棘が含まれていた。


「賢人様は私たちより遥かに優れた力をお持ちなのです。多少の訓練は必要ですが」


 プルシア皇女は三人と順番に目を合わせながら告げる。


「そ、その訓練っていうのは、魔法も含まれるんですか?」


 佑がやや前のめりになって尋ねた。彼は魔法を使ってみたくて仕方ないのだ。


「もちろんです。後ほどお三方の称号と能力スキルを鑑定し、力を最大限発揮できるように訓練していただきますわ」


 皇女が嫣然と微笑みながら佑に答えた。その顔を見て、由依はとうとう抑えられなくなった。


「そんなことより、いい加減ひなちゃんと会わせてもらえませんか? あの子のことが心配でお話に集中出来ません」


 冷静に聞こえるよう努めながら、由依は皇女に訴えかける。


「ええ、お気持ちは良く分かります。ですが、困ったことに……あの子は侍女が目を離した隙にどこかへ逃げ出してしまったようです」

「「「はあ!?」」」


 プルシアの言葉に三人は呆れた声を上げた。


「敷地の外には出られませんから、今人を使ってお探ししています。見つかり次第、お会いいただけるよう手配いたしますね」


 由依は完全にを信用出来なくなった。


「……私たち三人だけで話す時間をもらえませんか?」

「……いいでしょう」


 皇女は小さく溜息を洩らし、由依に鋭い視線を向けながら了承した。皇女の後に続いて侍女や兵士も部屋を出て行く。扉が閉められ、三人だけになったと確信してから、由依が口を開く。


「二人とも、よく聞いて」





*****





 開星は「プルシア殿下の離宮」と思われる建物まで移動し、正面からの侵入を早々に諦めていた。人の出入りがないため、先程と同じ手が使えそうになかったのだ。認識阻害を駆使しながら建物を一周してみる。裏口が開いている、などと都合の良いことはなかった。


(ああ、くそ! ここにひなちゃんが居るかも知れないってのに!)


 悪態をつきたい気持ちを抑え、天を仰ぐ。すると、二階の窓が少し開いているのが目に入った。


(一階の窓は全部嵌め殺しだけど、二階は上げ下げ窓になってるのか)


 とは言え、いくら身長百八十センチを超える開星でも、二階には手が届かない。脚立や梯子が都合よくあるはずも――。


 あった。恐らく庭木の手入れをするためだろう。少し離れた所に木製の脚立がある。その周囲には誰もいない。迷っている暇はなかった。素早く脚立を拝借し、開いた窓の下に置く。一番上まで上るとぐらぐらするが、ぎりぎり窓の桟に指が掛かった。懸垂の要領で上半身を引き上げ、頭と肩を隙間にねじ込む。肩甲骨辺りで窓を押し上げて隙間を広げ、どうにか中に入ることが出来た。


 足音が聞こえた気がして、素早く柱の陰に隠れる。目の前を、ワゴンを押すメイド服姿の女性が通りかかった。その瞬間、開星は同じようなメイド姿に偽装する。


 ワゴンのメイドをやり過ごし、何食わぬ顔で階下に下りた。メイド姿の女性が頻繁に出入りしている部屋を見付け、別のメイドの後ろからさりげなくその部屋に入った。


「そんなことより、いい加減ひなちゃんと会わせてもらえませんか? あの子のことが心配でお話に集中出来ません」


 制服姿の子が「ひなちゃん」と口にして、思わず声が出そうになる。銀髪の女性は娘が「隙を見て逃げ出した」と言うが、開星にはそれが嘘だと分かる。


(ひなちゃんはそういうタイプの子じゃない)


 聞き分けが良くて素直。言われたことはちゃんと守る子だ。誰かに迷惑が掛かるようなことはしない、とっても良い子なのだ。


 制服の三人を残し、全員部屋から出るよう言われた。開星も出て行くフリをしたが、認識阻害を掛けてその場に残る。三人を驚かせないように、姿を現すタイミングを見計らうことにした。

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