第007話 春の始まり 後編

ナックルボールというのは投げるのが難しい。

握り方は多少の差異はあるが、親指と小指でボールを挟み、残りの3本の爪をボールに立てた握り方をする。

ここまでは写真で見た握り方を真似すれば、然程難しくは無い。

だけど、問題はここからだ。


ナックルボールというのは回転を殺して、空気抵抗によって無作為な変化を生み出す。

つまりは、回転しない様に投げないといけないのだ。

球を放つ際には、なるべく手首のスナップが掛からない様弾く様にする。


これが苦労を強いられるポイントだ。

弾くことばかり意識し過ぎて、勢いが無くなりホームベースまで辿り着かないなんて事もある。


試行錯誤を重ね、投げる事100球。

どれも決め球になり得る程の物は無い。

握り込みによって、手が真っ赤になる。

これは一度休憩を挟む必要がありそうだ。


「やー、可愛い少年よ!苦労しているみたいだね!」

「うおっ。び、びっくりしたー。」


いきなり背中から声を掛けて来た女。

さっきまでは誰も人がいなかったはずなのに、急に姿を現した事に驚いてしまった。

ただ、その人が誰なのかは顔を見てしまえば、例に漏れず分かる。


黒いという言葉で表現するのは勿体無い程、綺麗な色の腰まで届く長髪と、高校生になる俺にはまだ刺激が強い整った体型。

彼女の名前は、夜飼よるかい愛音あいね

ヒロインとしては選べこそしなかったが、その美貌でプレイヤーを魅力した。

そのせいで何故こんな美人なお姉さんと恋愛が出来ないのだと、制作会社にクレームが何件も行く珍事件が発生するくらいだ。


それにしてもこのキャラはこんな序盤に会える様なキャラでは無い。

ゲーム後半で恋愛を優先して試合に勝てなくなったプレイヤーに向けて用意されたお助けキャラ。

彼女も生きているので普通に生活していて、どこかで出会うこともあるかも知れないとは思っていた。

だけど、ここまで早いとは。


「びっくりはしているけど、私が誰かは知っている様だね。」

「夜飼さんですよね。」

「そうなんだよー。私が来たからにもう安心だ少年!何ならもっと安心する為に熱い抱擁でも交わしておくか?」

「・・・いえ、やめておきます。」


一瞬だけ迷ったけど、俺には理性があった様だ。

野球の事に集中する意識が無ければ、二つ返事しているところだったぞ。

こんな思春期の男の子捕まえてなんて提案をしているんだこの人は。


「ぷぷぷっ。良い反応するね、君は。ますます知りたくなって来たよ。」

「ますますって。俺にそんな気になる要素がありますか?」

「あるある!大アリだよ!君は恐らく春休みであろう期間の殆どをこの公園で過ごしていた。しかも、練習には全く無駄な動きが無く、効率を最優先した練習だ。最初は90キロしか無かった球速も今では110キロ近く出ているし、実に興味深い。」


要約するとお前の練習を最初から見てたよって事か。

うーん、怖すぎる。

だから、この公園に人が寄り付かなかったのかも知れないな。

練習している少年を見つけては声を掛けていたなら、犯罪者とまでは行かなくても不審者だ。


「さぁ、私のスペシャルな指導を受けてみないか〜?」


目が狙った獲物は逃がさないと言っている。

しかし、これは俺にとって好都合な申し出。

断る選択肢は無い。


「お願いします。俺、強くなりたいです。」


深々と頭を下げる。

この人の言動はおかしいけれど、実力は本物だ。

ここで気分が変わってしまわない様にこちらは下手に出ておく。


「おぉー!良いね良いねー!そのやる気、嫌いじゃないよ。寧ろ、ご馳走様です。」


やっぱり、断った方が良かったかな。


「ちなみに一度私の指導を受けると決めたら、逃げられないからね。」


心まで読めるらしい。


「さてさて、この公園での練習も悪くないんだけど、ちょっとだけ物足りないかな。」

「そうですか?色々と練習や筋トレに使えそうな物は揃ってますけど。」

「まあまあ、黙って付いて来なさい少年。」


公園から歩かされる事30分。

良い運動になるのは間違いないけど遠すぎる。

まだ持久が育っていない俺にとってはちょうど良い練習メニューかもな。


連れて来られたのは大きな倉庫。

周りには他の建物が無い隔離された場所。

どうしてこんな場所に連れて来られたのか。

あのゲームを熟知している俺でも理解が出来ない。


「お待たせしたね。ここが君を強くする場所であり、私の研究施設だ。」


倉庫のシャッターが開く。

開かれたシャッターの奥には見ただけで最新と分かる機器が置いてあった。

テキストでは見たことがあったけれど、まさかこんな見た目をしているとは思わなかった。

ここは主人公の能力を一気に成長させる施設、通称強育舎きょういくしゃだ。

高い技術が集約されている為に短い期間でステータスを上げられる。


「これを俺が使えるんですか?」

「いや、まだ使えないけど?」

「えっ?なんで見せたんですか。」

「自慢だよ、自慢。そんな事より練習を始めようか。私が熱いマンツーマンレッスンをしてあげるからね。」


ゲームの実績が無ければ、ただのヤバい人だな。

でも、これでナックルを覚えられるならそれで良い。


「まず大前提として君が覚えるべき球種はナックルでは無い。」

「それは待ってくださいよ!俺だって考えて出した結果のナックルボール取得という案ですよ。簡単に否定されては困ります。」


言っておくがあのゲームの知識としては俺の方が優秀だ。

確かに取得難易度は高いが、覚えてしまえば決め球として使える。

変化量だってどうにかして3段階まであげれば奪三振を量産出来る。


「君、今の状態で奪三振を狙っているんじゃないだろうね。」

「えっ?・・・えぇ、そうですけど。」

「甘い、甘過ぎる!ナックルは大前提無敵では無い!打たれる時は打たれる。そして、打たれてしまえばかなりの飛距離が出る。つまりはハイリスクハイリターンと言うわけだ。」

「だから、俺はそのリターンに賭けて。」

「君ではナックルは扱えないよ。ロジックは完璧だろうけど、フィジカルが追い付いていない。」

「ナックルじゃないなら、俺は何の球種を覚えれば。」

「良い質問だね。その答えは・・・ツーシームとチェンジアップだ。」


それは俺もゲームをプレイしてある時に使っていた。

だけど、2球種とも球のスピードが速い投手だからこそ効果的に扱える。

今の俺が投げた所であまり効果はないだろう。


「この2種類は君の遅いストレートを見て油断した打者バッターに良く効く。」


油断した打者に効く。

イメージが徐々に出来て来る。

確かに俺はいつもCPUと対戦していたので、機械的に苦手なコースや球種を投げていた。

だけど、ここは生きている人々と戦う世界。

相手との心理戦、駆け引きも含まれている。


俺には無かった発想だ。

ゲームをクリアしたという知識だけで驕り高ぶっていた自分が恥ずかしい。


「こんな俺でも甲子園のマウンドに立てますか?」

「断言しよう。君は今から4ヶ月後、大勢の観客が見守る甲子園の黒い土を踏んでいる。」


ここで初めて俺は肯定された。

この世界では誰もが俺に向かって無理だと言う。

だけど、この人だけは出来ると断言してくれた。


「よろしくお願いします!師匠!」

「良いねその呼び方!嫌いじゃないよ!」

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