第13話 伝え方
伊勢物語の続きを読んで過ごした。そのあと鬼は出てこなかった。
ひとつひとつの話が短く出来ているので、読みやすかった。
気付けば一刻はあっという間に過ぎた。
「……まだお帰りにならないみたいですね」
ハナが戸の方を窺いながら、そう言った。
「帰ってらしたら、知らせると中山さんが言っていたのですが……どうされます? とりあえず食堂に移動しましょうか」
「はい、そうします」
食堂では、中山が食卓を整えていた。
「文乃さま、宗十郎さまからはまだ連絡がありません」
中山が文乃の顔をじっと見ながら、続ける。
「お腹は空かれていますか? でしたら、先にお食事をお出しします」
「いえ、あの、まだ、もうちょっと待ちたいです。あ、皆さんのご迷惑でなければ……」
ハナは宗十郎が神倉別邸で夕飯を食べないときもあると言っていた。今日もそうなるのなら、文乃がさっさと食事を終えないと、中山達を遅くまで働かせてしまうことになる。
「いえ、我々のことはどうぞお気になさらず。ただ、そうですね、自分を待って文乃さまが空腹でいたとなれば、宗十郎さまの方が気に病まれるでしょう。ですから頃合いを見て、食事にいたしましょう」
「そうですね、お願いします」
「食堂の椅子でお待ちになりますか。応接間の方には、文乃さまの部屋にあったのと同じソファもありますが……」
「えっと……ひとまずここで待たせていただいても……?」
「もちろんでございます」
椅子に掛けて、待つ。
中山もハナも厨房に向かってしまった。
一人。
思えばこういう風に誰かを待っていた覚えがない。初めてなのか、十年ぶりなのか。
さて、いつまで待つのがいいだろうか。
幸いにして、空腹はまだ感じていない。
いや、ああだこうだ思い悩むより、中山に任せよう。
宗十郎のことも、この屋敷のことも、中山とハナの方が、文乃よりずっと知っているのだから。
「…………」
「戻られましたっ」
ハナが食堂の扉から、駆け込んできた。少し頬が上気している。
ハナの勢いに当てられたのか、気付けば文乃も勢いよく立ち上がっていた。
「あ……」
立ち上がって、それで、どうしよう。出迎えなどしなくとも、どうせこちらに来るのに。
文乃が迷って立ち尽くしている間に、ハナがさっと扉を抑え、道を空けた。
こうなると、文乃に選択肢はない。やっぱりいいですと座るのは、ハナに悪い。
「……あ、ありがとうございます」
パタパタと歩いて扉を通る。
玄関に向かう。
「あ……」
肩で息をしている宗十郎が玄関にいた。
「お、おかえりなさいませ、えっと、何か……?」
「ああ……いや」
宗十郎は思い切り深呼吸をして、息を整えた。
「走ってきただけだ」
「走って……?」
「うん、ただいま、遅くなってすまない」
「いえ、宗十郎さんが謝るようなことではございません。今日はお忙しかったのですか?」
「終わり際に少し立て込んでいた。文乃さん、夕食はもうとったか?」
「まだです」
「……すまない」
宗十郎がぎりりと歯を食いしばって、顔をしかめた。そこまで申し訳なさそうにされると、こちらまで申し訳なくなってくる。
「いいえ、えっと、あの、そこまでお腹が空いていなかったので……」
「そうか……」
ふーっともう一回、息を吐いて、宗十郎はよいしょと小脇に抱えていた分厚い本を持ち上げた。
「そ、そちらは?」
「ああ。典堂から借りた」
「典堂さん……医学書か何かですか?」
「いや、植物図鑑だ」
「植物図鑑」
「そうだ、あと紫陽花の話も……」
「こほん」
中山の咳払いが宗十郎の言葉を遮った。
「おかえりなさいませ、宗十郎さま。走って帰ってこられたのですね、汗をかかれております。夜はまだ冷えますから、風邪を引かぬようお着替えなさってください。図鑑の方はわたくしがおあずかりして、食堂にお持ちしたらよろしいでしょうか」
「ああ、うん、頼んだ」
見るからに重たそうな図鑑を、中山はひょいと手に取った。
「着替えてくる。食事の準備が出来たら、先に食べていてくれ」
「ここまで待ちましたから、宗十郎さんをお待ちしたいです」
「……わかった急いで着替えてくる」
そう言うと宗十郎は階段を駆け上がって二階へ消えた。
「食堂で待ちましょう。文乃さま」
「はい」
中山に先導され、文乃は食堂へ戻った。
宗十郎は本当にあっという間に着替えて食堂へやって来た。
宗十郎は濃紺の着流し姿だった。
「……わあ」
宗十郎の軍服姿以外を初めて見た。思わず文乃は小さな声を漏らしてその姿を見つめる。
「お待たせ」
幸い、宗十郎の耳には届かなかったらしく、彼は柔らかく微笑んだ。
折良く食事も運ばれてきた。いや、用意は出来ていたのだろうから、中山達が給仕の時機を合わせてくれたのだろう。
ひとまずあいさつはそこそこに食事をいただいた。
食事が一段落ついた頃、宗十郎がまだどこか慌てた様子で口を開いた。
「ええと、何から話せば……ああ、そうだ中山、呉服屋と連絡はついたか?」
「はい、週末、日曜日に来ていただける運びになりました」
「そうか。文乃さん、中山」
「は、はい」
「はい」
「兄から神倉別邸を訪ねたいと連絡があった」
「冬一さまですか」
「ああ、今週末、土日にかけて泊まりで来たいそうだ」
「かしこまりました。文乃さまの隣の部屋を整えればよろしいでしょうか」
「いや、兄が年頃の娘さんがいる屋敷に邪魔するのは気が引けるというので、茶室を使ってもらおうと思う」
「かしこまりました」
中山がうなずいた。
「茶室……?」
「うん、庭の向こうにあるんだ」
「ああ、朝の散歩のときに、茅葺き屋根を見かけました」
「うん、それだ」
「あ、あの、お兄様が私に気が引けてこちらのお屋敷に泊まれないのでしたら、私がそちらの茶室に泊まりましょうか……?」
「それは駄目だ」
宗十郎が鋭く言った。
「ご、ごめんなさい……」
あまりの鋭さに文乃は慌てて頭を下げる。
「いや、待ってくれ、違う。謝らないでくれ」
宗十郎が文乃以上に慌てだした。
「その、茶室は鍵もないし、母屋からは遠い。侵入者などあって、あなたに何かあったら、その、困る」
「あ、ああ……そうですよね、私に何かあったら、神倉家が困りますものね……」
「……それも、違う」
「え?」
「……それ以前の問題だ。人としての……いや」
宗十郎が一気にお茶を呷った。
ふーと息を吐き、一旦目を閉じてから開き、文乃をまっすぐ見つめた。身じろぎできないほど強い視線。
文乃は目をそらせない。
「俺の問題だ。君という個人を守らなければいけない……。いや、違うな。君を守りたい俺の問題だ」
「え……あ……は……はぃ……」
駄目だ。頬が熱い。まだ宗十郎はこっちを見ている。
まっすぐに見ている。
熱い。どうしよう。顔、顔が赤くなってるんじゃないか。
目と目はずっと合ったままだ。宗十郎の目。形の良い楕円の目。
最初に出会ったときの冷ややかな印象は、どこへいったのか。
熱い。とにかく熱い。こちらを焼き尽くすほどに、熱い。
文乃が言葉をなくしていると、宗十郎が先に目を伏せた。
やっと解放された気持ちで、息を吐く。
息を止めていたんだ。気付いた瞬間、目の前が真っ白になったて、体が大きく揺らいだ。
「文乃さん!?」
「だ、大丈夫、です」
一瞬、息を止めていただけだから、深呼吸をすれば、元通りだ。
「すみません、ちょっと、いきなりでびっくりしました……」
どうもまだ頭が混乱している。自分の心をここまで取り繕わずに吐露してしまうなんて。
宗十郎はどこかばつの悪そうな顔をした。
「……このくらい素直にはっきりと言わないと、伝わらないと思ったんだ」
「察しが悪くて、申し訳なく……」
「俺がわかりづらいだけだ」
「いえ、私の方が……」
「……お互いが泥をかぶり合おうとするのはやめよう。不毛だ」
「は、はい」
「……こういう言い方がよくないのか……?」
宗十郎は少し考えこむようにつぶやいた。
「……まあ、そういうわけだ。急ですまない、文乃さん」
「私は平気です」
「そうか。ああ、そうだあとは紫陽花だ。典堂が紫陽花がきれいな場所を教えてくれた。今週末は難しそうだから、次の週末にでも出かけよう」
「は、はい。典堂さんはお花に詳しいのですか?」
「医者だからな。薬の材料になるというので、植物にはだいたい詳しい。庭の花がわからないと言ったら、あの植物図鑑も持たせてくれた」
「なるほど」
「あとで引いてみよう。俺からは、まあ、こんなところだ。ああ、そうだ体調はどうだ? ……先にこれを聞くべきだった……」
反省が口から漏れている。あまり触らないでおいた方がいいのかもしれない。
「えっと、午後に少し居眠りを……」
夢を、思い出す。墨の夢。腕から溢れる夢。どうしてだろう。まだ書いていないと不安を覚えながら眠ったせいだろうか。
「居眠りをしたので、その、少し疲れていたとは思いますが、今は問題ありません」
「それならいいが、無理はしないでくれ」
「はい、ありがとうございます」
「祓井の教え方は、わかりやすかったか? 何か疑問があれば、また来させる」
「はい。今のところは特には」
「そうか」
「あ、あの、文箱をありがとうございます。祓井さんから聞きました。宗十郎さんが用意してくださったって」
「ああ、神倉の人間を迎えるのなら封印用の文箱が要ると言うんでな。急いであつらえさせたから、簡素な木箱ですまない」
「いえ、あの、えっと……」
言おう。言いたい。言わなくちゃ。
「う、嬉しかった、です」
「そうか」
宗十郎は、少し不思議そうな顔をした。
きっと何が嬉しいのだろうかと不思議に思っている。あの宗十郎からしたら変哲のない箱が、文乃にとってどれだけ嬉しかったのか、わかっていない。
嬉しさを伝えるのに、何を伝えたら、わかってもらえるだろう。
そうか、わかってほしいのか、自分は、宗十郎に。
先ほどの宗十郎の言葉を思い出す。まっすぐな言葉。あんな風に言葉を選べば、届くだろうか。でも、どの言葉がふさわしいのか、わからない。
「あれでいいのなら、いくらでも用意できる」
「え、あ、はい。……ふふ」
いくらでも。文乃は木箱でいっぱいになった自分の部屋を想像して、少し笑った。
やはりどこかお互いにどうしてもズレている。それでも、嫌なわけではない。
「…………」
そんな風に笑ってしまった自分を宗十郎が柔らかな目で見ていることに、文乃はまだ気付かない。
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