第14話 夜の中で
本日はもう宗十郎は隊に戻らないということで、夕食後、文乃の部屋で植物図鑑を広げた。
「典堂はフジの仲間ではないかと言っていた」
文机の上に図鑑を置き、二人、それを挟んで図鑑を覗き込む。
植物の葉っぱや花が描かれ、その下に解説が書かれている。
植物はその科ごとに並んでいる。
「……フジってフジ科ですか?」
「マメ科だと言っていた」
「マメなんですね……」
パラパラとめくりながら、図鑑を眺める。
植物の絵は白黒で、葉の形など詳しく描かれているが、色がないのでどうにも実物をうまく思い描けない。加えて、そもそも朝の植物自体しっかりと見ていたわけではない。
これは素人が探し出すのは無理なのではないか。
すぐにそう思ったけれど、宗十郎と向かい合って図鑑を眺めている時間に水を差すのが惜しくて、文乃はしばらく図鑑を見つめた。
「……いくつかフジと名のつく花はあったな」
「ありましたね」
けれども結局どれがどうかはわからなかった。しかし確かに小さく膨らんだ花はあの花の仲間のような感じがした。
索引から紫陽花とショウブを引いて、それをぼんやりと眺めた。
「……あ、そういえば紫陽花が見られるのはどこなんですか?」
「ああ、ここから少し東に行ったところにある寺だ。境内に咲いているそうだ」
「お寺……」
「君が気に入る紫陽花だといいが」
「楽しみです」
「そうか。……俺も楽しみだ」
宗十郎が小さく微笑んだ。その笑顔に文乃の胸は跳ねる。
「……ああ、そうだ、この部屋からなら茶室が見えるはずだ」
宗十郎は立ち上がって、窓のカーテンを少し開けた。
月のない夜だった。
「……暗くて何も見えないな」
宗十郎が残念そうに呟いたときには、文乃は窓の向こうを見ようと、宗十郎の背後まで近づいていた。
宗十郎が戻るために振り返る。
結果、二人は至近距離でぶつかる直前で体を止めることになった。
「あ……」
避けなくては。後方に移動しようとした体が揺らぐ。
「文乃さんっ」
宗十郎が手を伸ばし、文乃の体を引き留める。
ぐいと抱き寄せられた文乃の体は、宗十郎の腕の中に収まった。
「…………」
心臓が高鳴る。息ができない。
「す、すまん」
「こ、こちらこそ、近づきすぎました……」
「気配を殺すのが上手いな文乃さんは。不意打ちされたら負けていた」
「そ、そんなことしません……」
「そうだな……」
宗十郎が苦笑いをした。
薄い着流し越しに宗十郎の体温を感じた。あたたかかった。
動けなかった。動きたくなかった。しばらく同じ体勢のまま、ふたりは窓際にたたずんでいた。
不意に戸を叩く音がした。
「は、はい!」
「あ……」
反射的に返事をした文乃を腕の中に抱いたまま、宗十郎が声を漏らす。
「失礼します!」
元気のよい声とともに、ハナが入ってきた。
ハナは宗十郎と文乃に目を留めると、一瞬、動きを止め、すぐさまきびすを返した。
「うわー! 失礼しました!!!!」
元気のよい声のまま戸が大きな音を立てて、閉まる。
「待て、ハナ、待て」
宗十郎が叫んだ。
「失礼いたしましたあ!」
戸の向こうから大きな声がする。
「失礼はしていない。呼んだからな。何か用か?」
「はい! 文乃さまは本日はご入浴どうされますかと聞きに参りました!」
「ああ……どうする、文乃さん」
宗十郎が文乃を見下ろしながら、訊いてくる。
「えっと……」
昼間に午睡をとったこともあり、今はそこまで疲れていない。入浴するのは問題がないと思う。
ただ、この時間を終わらせてしまうのが、名残惜しかった。
「宗十郎さんは、お風呂はどうされるのですか」
「着替えるときに体を拭いたから、今夜はもういい。明日の朝にでも入る」
「そうですか……」
そうなると、文乃がさっさと入浴を済ませれば、ハナたちは風呂の心配をしなくて済むのだろう。
「……お風呂、いただいてきます」
「わかった。ハナ! 文乃さんが入浴される!」
「はい! 準備して参ります!」
ハナが走り去る音がした。
今夜はここまでだろうか。他に済ませておかなければいけないことを考える。
「ああ、そうだ本日分の紙を、祓井さんが宗十郎さんに預けるようにと」
「そうだったな」
紙を取り出す。伊勢物語の写し。宗十郎が中身に目を落とす。
「ああ、見つけられたか。一緒に探せればよかったんだが」
「いえ。おっしゃってた『八橋』と鬼の話、読みました」
「うん、どうだった」
「『八橋』は……ええと、昔の人は、よく泣くなあと思いました」
なんとも締まりのない感想だ。しかし歌の巧拙などはわからないから、そのくらいしか触れられることがない。
「確かにな」
宗十郎は文乃の感想に呆れた様子もなく素直にうなずく。
「あと、鬼の話は……驚きました」
「驚いた?」
「……鬼って退治されるものばかりではないんですね。そういう話しか知らなかったので……」
「なるほど」
宗十郎がうなずいた。
「これは子供の頃に聞かされたおとぎ話の影響かもしれません。子供には、退治されない鬼は怖いから……。ああ、でも、宗十郎さんなら鬼も斬れますか?」
「もちろんだ」
宗十郎はうなずいた。
「そのための俺だ」
「頼もしいです」
文乃は、笑った。
そこに再び戸を叩く音がした。
「それではお風呂、失礼します」
「うん、俺はまだ書斎で起きているから、何かあったら、声をかけてくれ」
「はい」
文乃と宗十郎は一緒に部屋を出た。
風呂場は二階の四つの部屋を抜け、階段を通り過ぎた向こう側にあった。
「こちらの更に奥は使用人の控え室になっています」
浴室の前で、ハナが奥を紹介してくれた。
文乃達の部屋についているものより、簡素な戸がついていた。
「文乃さま、お背中お流ししましょうか?」
「いえ、一人で入ります」
「わかりました。私は外で待機していますので、お困りのことがあれば、お声がけください」
「はい」
お風呂。
湯につかるのは、いつぶりだろう。まず十年ぶりだ。
浴室には水蒸気が充満していた。
浴槽は猫足付バスタブだった。
ここまで西洋式だ。
恐る恐るまず手をつっこむ。
「あったかい……」
熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうどいい温度のお湯。
かけ湯をし、つかる。
全身染み渡るようなあたたかさに包まれて、文乃は十年ぶりの入浴を堪能した。
体が
大丈夫。墨はこぼれていない。
「はあ……」
ため息は湯気とともに消えていった。
襦袢に綿入れを羽織り、部屋に戻る。ハナには「おやすみなさい」を告げて、下がってもらった。
眠りにつく前に、畳に正座をし、少し室内を見る。
衣桁に裲襠。
文机、その上の文箱と筆、それに読みかけの伊勢物語。植物図鑑は宗十郎が持って行った。明日には典堂に返すと言っていた。
明日。明日の朝も宗十郎と散歩が出来るだろうか。宗十郎の兄、冬一が来るのなら、その準備で忙しいかもしれない。
そっと文箱の上の鷹の羽紋に触れる。
「…………」
そういえば、祓井は保管したいものを書くときは、墨と硯を使うよう言っていたが、肝心の用意してもらうのを忘れていた。
そもそも墨と硯は、この屋敷にあるだろうか。
祓井は付けペン、万年筆、鉛筆とも言っていた。それらを使うのは彼にとって普通なのだろう。神倉家にとっては、どうなのだろう。
そういえば鉛筆はともかく付けペンや万年筆のインクが足りないときに、文乃や文車家の人間が使うとどうなるのだろう?
呼べばハナや中山は来てくれるだろうが、さすがにあるかもわからない筆記用具をこの時間から探させるのは気が引ける。
しかし宗十郎はまだ起きていると言っていた。書斎に声を掛けるくらいはいいかもしれない。
でも、と自分の格好を振り返る。
襦袢に綿入れだ。もう休む姿だ。この姿で宗十郎の前に出るのは、少し恥ずかしい。
自分の見た目が恥ずかしい、か。
ずいぶんと意識が変わったものだ。
「これは、いいことなのかしら……」
ぽつりと呟いた。
見た目が気になると言っても、自分ではろくに手入れも出来ない。そもそも自分の着物もろくに持っていないのに、見た目を気にするなんておこがましいのではないか。
さすがに襦袢が恥ずかしいからと言って、その上に裲襠を羽織るわけにもいくまい。
「…………」
頭の中に言葉が渦巻く。ごまかすように文箱の蓋に手を伸ばす。
開けると、そこには自分が書いた文字の紙と、その上に『手紙』がある。
「…………」
手紙を持ち上げる。
結局まだ読めていない。
祓井には持ち運ぶことを勧められたが、読む前に持ち歩いて、万が一汚したり落としてしまったらと思うと抵抗がある。
手紙を両手で挟み込むように持つ。こんなことをしても、何も感じない。悪いものか良いものかもわからない。祓井は護符と言っていたけれど、わからない。
そういうものなのだろうか。
母が作ったものだというのなら、文乃にも近い力が宿っているのではないか。
それなのに、この手紙からも、他の自分が書いてきた紙からも、何も感じないのだ。
ふと視界に入る。手紙を持ち上げたことで、その下に敷いていた自分の文字が見える。
『塵塚家の呪い』
これは結局なんなのだろう。
宗十郎も祓井も、何も言わなかった。
たしか文乃の力は塵塚家の呪いだと塵塚家の人たちが勘違いしていたという。
それは本当に勘違いだったのだろうか。
手から、手紙が滑り落ちた。
手が震えていた。
この手にあるものが、本当に文車家の力だと誰が証明してくれるというのだろう。
本当はただの呪いなのではないか。
だとしたら、自分は――。
「……寝よう」
落としてしまった手紙を、文箱に戻す。
その途中でもう一つの文字が目に入った。
『紫陽花』
「…………」
来週、見に行くと約束した。
もし自分に宗十郎が求める力がないとしても、せめて宗十郎と紫陽花を見たい。
文乃は小さく息を吐いた。
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