第12話 悪夢

「では、自分の言い渡された仕事は終わり! 文乃さんからは何かありますか?」

「……ああ、そうだ」

 文乃は紙を取り出した。母の遺品が入っていた風呂敷から出てきて、今まだ中身を読めていない紙。

「おや、手紙ですか?」

「わからないんです。あの、こちらは呪いとか、どうでしょうか? 母か、あるいは塵塚家の誰かが書いたものだと思うのですが」

「ふむ」

 文乃が手に持った状態のまま、祓井は紙をじっと見た。

「……呪いはないです。というかこれ多分十年前の呪詛事件よりも前に書かれたものだと思います。呪いがない代わりに護符の力があります」

「え?」

「もともと文車家は呪いの浄化のみならず、おまじないもする一族だったんです。護符とか作るの得意だったんですよ。呪詛事件のせいでそんなことやっている余裕はなくなりましたけど……だから中に書かれているのは塵塚家の人によるものではなく、ご母堂の、もしくは文車家の誰かの筆によるもので間違いないと思います」

「あ、ありがとうございます」

「それ、持ち歩くのがおすすめですよ。いろいろ守ってくれます」

「は、はい……」

 護符。母が遺した護符。

「えっと、中を見たら効き目がなくなるとかは……?」

「それはないです、大丈夫。そういうやつなら、表面に『封』とか書いておくはずです。宛先がないあたり一応誰に読まれてもいいと思ってこしらえたものかと」

「そう、ですか……」

 見つめる。誰に読まれてもいいのなら、文乃宛ではないのかもしれない。それでも母の面影がここにある。

「…………」

「……他には、どうです?」

「今は大丈夫です」

「承知しました。では、自分は失礼します。だいたい隊の方にいますので、何かあったらご連絡を」

「あ、はい」


 祓井が帰り、中山も見送りのために退室した。


「はー……」

「お疲れ様です、文乃さま。今日は朝から動きっぱなしでお疲れでしょうし、いったんベッドでお休みになられてはいかがですか?」

 ハナの言葉に、自分が猛烈に眠気に襲われていることに気付く。

「……そうですね、一旦午睡を……ああ、でも、その前に今日の分を書いてしまった方が……」

「お望みの時刻にお起こししますよ」

「……それじゃあ、ええと、遅くとも夕飯の一刻前になっても、起きていなかったら、起こしてください……」

「はい」

 畳の上から立ち上がる。体がふらりと揺れた。ああ、ずいぶんと疲れている。散歩と祓井との会話くらいで、こんなに疲れるとは思わなかった。

「お疲れでしょうが、お着物は一旦脱ぎましょう」

「はい……」

 ハナに手伝ってもらって、着物を脱ぐ。

 寝台に潜り込む。

「……情けない」

「そんなことないですよ」

 小さく呟いた声を、ハナは拾った。

「えっと、私も初めてお屋敷に来たとき、気分が上がりすぎて、翌日熱出してしばらく寝込みました!」

「まあ……」

「クビになるんじゃないかって思いました!」

「ならなくてよかった。ハナさんがここにいてくださってよかった」

「きょ、恐縮です……」

 ハナの声が遠ざかる。意識が勝手に離れていく。


 文乃はしばらく眠った。


 墨が、溢れていく。

 腕から溢れていく。

 必死で拭いても、拭いても、溢れていく。

 違う。そうだ、書かなければ。

 書いて、紙に封じ奉らなければ。

 筆、筆はどこだ。

 筆が見当たらない。

 墨は溢れていく。墨の香りに包まれて、息が苦しい。

 筆、筆さえ、あれば。

 筆が、なければ。


「んん……」

 目を覚ます。慌てて起き上がり、腕を見る。ちゃんと白かった。墨の汚れはどこにもない。

「夢……?」

 悪夢を見るのはずいぶんと久しぶりだった。

 座敷で暮らし始めた頃はしょっちゅう見たが、ここ数年ではすっかり慣れてしまっていた。

 少し嗅いでみても、墨の香りはもうしない。

 そういえば、墨の香りがしない方が、自分にとっては平常ではないのだと、今更気付く。

 あの座敷は空気が篭もりきりで、だから墨の香りがいつもほのかに漂っていた。

 昔から。

「ふー……」

 息を吐いて、心を切り替える。


 カーテン越しでもわかるほど、まだ外は明るい。昼過ぎに祓井と話をしてから、どれほど時間が経ったのだろう。

 起こされなかったということは、夕飯まではまだ時間があるのだろう。

 寝台の横には、脱いだ着物の他に綿入れが置いてあった。ひとまず綿入れを襦袢の上に羽織る。

 厨房には他にも使用人がいるようだったが、中山とハナも食事の準備をしているかもしれない。

 むやみに呼び出すのも申し訳ない。

 どのみち文字を書かなければいけない。まず、それを済ませてしまおう。

 書き写すものを探そう。

 宗十郎は書斎から適当に持って行っていいといっていた。

 寝台から出る。スリッパを履く。

「…………」

 カーテン。寝る前に自分で閉めた覚えはない。おそらくハナか中山が閉めてくれたのだろう。

 自分で開けてみる。

 文乃の部屋の窓からは、神倉別邸の庭が見えた。今朝、宗十郎と歩いた庭。


「ふう……」

 少し見つめてから、文乃はきびすを返して、部屋を出た。

 廊下は明るく、誰もいなかった。

 正面の戸に向かう。

 一応、軽く戸を拳で叩く。

「……硬い」

 というかちょっと痛かった。しかも出た音もそこまで大きくなかった。これでは中に人がいても、音が届かない気がする。とんだ叩き損だ。

「……失礼します」

 恐る恐る戸を開ける。

 中には当然ながら誰もいなかった。

 書棚を見つめる。

 伊勢物語。朝、宗十郎と話したことを思い出す。

 ひとまず探してみようとも思ったが、とにかく本が多い上に、背表紙がかすれて文字が読めないものも多かった。

「んんん」

 思わずうなる。

 諦めて適当な本を選ぼうかと思ったとき、その本が目に飛び込んできた。

『評釈伊勢物語』

「あった……?」

 そっと書棚から抜き取る。

 中身をチラリと見る。評釈というだけあって、本文のあとに、訳文と解説文がついている。

「うん」

 分厚い本をしっかり抱きしめて、文乃は書斎を後にした。


 自分の部屋に戻り、いざ伊勢物語を持って、畳の上に座り、はたと気付く。

 宗十郎の言っていた『八橋』が収録されているのが、どのあたりかわからない。鬼の話も同様だ。

「…………」

 どうしたものか。少し悩んだが、とにかく頭から読みつつ、書き写していくことにした。どのみち、書かなければいけないことにはかわりない。

『昔、男ありけり』から始まる物語を、文乃は読み始めた。


「……ふー」

 今日も四枚分を書き写し、文乃は一息つく。

 身構えたわりに、『八橋』も鬼の話も、最初の方にあった。というか鬼の話の次の次に『八橋』があった。

 ちらりと脱いだ着物を見る。この意匠が、あの『八橋』の物語から作り出されたということが、なんだか不思議だった。確かに杜若も橋も出てくるが、歌の題にとられたというより、杜若の頭文字を取って歌を詠むというどちらかというと技巧のために使われていて、杜若の美しさに感銘を受けるのとは、少し違う気がした。ある種の洒落と取った方がいいのかもしれない。

 鬼の話の方は大体覚えていたのと同じであった。それにしても鬼の存在がずいぶんあっさりしていた。鬼の話だと思って読んだ宗十郎も拍子抜けだっただろう。


 そんな風に感想を振り返っていると、こんこんと硬い音がした。

「文乃さま、ハナでございます」

「はい、どうぞ」

 ハナが入ってきて、文乃の姿を目にする。

「起きてらしたのですね、呼んでくださればよかったですのに」

「ごめんなさい……」

「いえいえ、あと一刻でお夕飯ですが……もしかして書き終わりました?」

「はい」

「あら、では……どうされますか? 宗十郎さまはまだお戻りではありませんが……。とりあえずお着替えされますか?」

「お願いします」


 八橋の着物に着替えながら、文乃は尋ねる。

「宗十郎さんは遅くなることもあるのでしょうか?」

「普段はこちらでお夕飯を召し上がれないこともしばしあります。ただ、しばらくは夕飯までには一旦必ず戻るとおっしゃっていました」

「しばらくは……」

「文乃さまをこの屋敷にお迎えになったのですから、出来るだけご一緒したいのではないでしょうか」

「したい、というか、しなくてはいけない、とお考えな気もします……」

「ああ……」

 ハナは否定はしなかった。

「そうですね、宗十郎さまは責任感がお強い方だと思います」

「ええ」

「でも私はそれだけではないと思いますよ」

「そ、そうですか……?」

「はい、だって、文乃さまと一緒にいる宗十郎さまはこれまで見たことないくらい楽しそうですもの」

「た、楽しそう?」

 なんだか宗十郎の印象とそぐわない。彼が楽しそうな場面などあっただろうか、大体淡々としていて、ごく稀に微笑んでくれて、たまに辛そうな顔すらさせてしまっている。

「楽しそうですよ」

 そうなのだろうか。そうだったらよいのだけれど。

 そもそも平時の宗十郎というものを文乃は知らないのだ。

 文乃が来たことで、現在の宗十郎の生活は、通常と同じとは言いがたいだろう。

 簡単にうぬぼれることはできないけれど、少しは喜んでもいいのだろうか。

 文乃は小さく息を吐いた。それはため息とはまた違う、心を落ち着かせるための吐息だった。

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