第10話 仕舞う
宗十郎がいるうちにと、文乃は棚から桜色の風呂敷を取り出した。
「じゃあ、開けます」
「うん」
結び目に伸ばす手は緊張で震えている。
遺品。母の着物。結び目は固く結ばれていて、解くのに一苦労した。
「ふーっ……」
息を吐く。
風呂敷を取り払う。
その中には着物と、その上に折られた紙が載っていた。
「紙……たとう折り……手紙?」
手紙などを包むため、縦長の形に折られた和紙。表にも裏にも、記名も何も書かれていない。純白の紙。
「…………」
着物の方に目を落とす。見覚えのない着物だった。思い出せないのではなく、見たことがない。母はこの着物を文乃の前では着たことがない。一目見てそう思った。
鮮やかな赤。
手紙を一旦文机に置き、立ち上がって、着物を手に持ち、広げる。
「
丈が長い。普段使いとはいかない着物。婚礼の時に着る裲襠のようだった。
「……母君の婚礼の時の衣裳ではないか?」
「そう、でしょうね……」
「さすがに俺でもわかる。風呂敷の中に押し込めておいていいような品じゃない。
「お、お願いします……」
宗十郎が部屋を出て行った。中山達に頼むのだろう。
長い裲襠。立って持ち上げても、裾が畳の上についてしまう。
松竹梅、瑞雲に鶴とさまざまな吉祥文様が彩られている。豪華絢爛としか言い様がない。
必要以上に触るのがはばかられる。ただ目で何度もその表面をなぞる。目移りするほどどこもかしこも美しい。
「……きれい」
文乃はしばらくそれを眺めていた。
母がこれを着て婚礼に臨んだ日に思いをはせる。文乃が生まれるより前のこと。文乃が知るはずもない昔。どんな思いでこの裲襠を着ていたのだろう。
幸せだっただろうか。
宗十郎が衣桁を担いで戻ってきた。中山とハナも一緒だった。
中山が裲襠をきれいに衣桁に掛けてくれた。
「ひとまずは、このように」
「ああ、ありがとう」
中山は裲襠を眺め、嘆息した。
「こちら、ずいぶん長いこと仕舞われていたようですし、直した方がよろしいと思います。さすがにこれはわたくしがやるより、呉服屋さんに頼みましょう。文乃さまのお着物を仕立てていただくついでにお願いしたらよろしいかと思います」
「そうだな。文乃さん、それでいいだろうか」
「お、お願いしてよろしいのでしょうか」
「もちろんだ」
宗十郎がうなずいた。
「では、さっそく今週末にでも、来ていただけるか確認しておきます」
中山がそう言った。
「すっごくきれいですねえ」
ハナがにこにこと言った。
「これ、元はお母様が文乃さまの婚礼の時のために取っておいたんでしょうね」
「あ……」
そうか。そうなるのだろうか。母がこれを着て嫁入りしてから、死ぬまでに時間はあったのだ。処分や仕立て直しをしなかったということは、取っておいたのだ。いつかのために。
文乃はじっと裲襠を見つめた。ただ立ち尽くして、見ていることしかできなかった。
「文乃さん、そろそろ俺は部隊に戻らないといけない。他に何かあるだろうか」
「あ、あの、えっと、そうだ、紙……私が今後文字を書いた紙は、どうしたらよいでしょうか。長持に仕舞うのはよくないのですよね? 昼食後にでも、本日分を書こうと思っているのですが……」
「ああ、そうだな。部隊に戻ったら、祓井に声を掛けてこちらに寄越す。そのあたりの説明と実践は祓井が適任だ。あいつから教わってくれ」
「わ、わかりました」
「書き写すものが必要なら、新聞か、俺の書斎の本を適当に持って行って構わない」
「はい」
沈黙。宗十郎はしばらく文乃の様子を見ていたが、続く言葉がない文乃を見て、文机の上に視線を落とした。
「……手紙か、何かはわからないが、開けないのか?」
文乃も、紙を見つめる。
「……読んだ方がよいでしょうか」
「いや、君にとって最適な頃合いでよい。俺も中身は気になるが、君に強制したくはない。君が開けたくないのなら、開けなくともよい……でも」
宗十郎はまっすぐ文乃を見つめた。
「……開けるのが怖くて、それでも開けたくて、その時、背中を押してほしかったら、言ってくれ」
「…………はい」
文乃はただ頭を下げた。
その心遣いがただただありがたかった。
また宗十郎が神倉別邸を出るのを見送った。
「昼食にいたしましょうか」
「は、はい」
中山に促され、文乃は食堂へ向かった。
「ご飯ありますか~?」
軽い調子でそう言いながら、祓井がやって来たのは、文乃が用意してもらった昼食を食べ終える頃だった。
「ありますが、文乃さまのお食事はただいま終わりました」
中山が無情に告げた。
「おお、出遅れた……。じゃあ、お茶漬けください。さっさと食べるんで」
「すぐにご用意いたします」
「あ、あの、私なら、待ちますから……」
中山が去ろうとする背中に文乃は必死で呼びかけた。
「ああ、いいんです。俺、わりと食細いんで。ささっと食べられるのなら、それでいいんですよ」
「で、でも……」
「ちゃんとおいしいんですよ、神倉さんちのお茶漬け。塵塚さんも今度食べるといいですよ」
「はあ……」
祓井は神倉家にずいぶんとなじんでいるようだった。
祓井はかき込むようにお茶漬けを食べ終えると、居住まいを正した。
「神倉さんに言われて、紙の処理のためにお邪魔しました。塵塚さんは今後、基本的には二階のご自分の部屋で文字を書かれるということでよろしいでしょうか?」
「は、はい。お部屋に畳を敷いていただいたので、そのつもりです」
「じゃあ、普段の作業場でどう処理するか実演しましょう。もう一つ、文字を書かれた紙なのですが、塵塚さんは手元で保管したいですか? それとも処分してもよいですか?」
「ええと……」
今まであの座敷で長持に仕舞ってきたのは、他に方法がなかったからだ。取っておきたいと強く思っていたわけでもない。
けれども、時たま、長持から昔書き写した紙を取り出し、その日に差し入れられた本がかつて読んだ本の続きであることを確認することもあった。
それに昨夜書いた自分の感情については、どちらかというと取っておきたい気持ちがある。
かと思えば、昨日の新聞の書き写しは、神倉に預けてしまえる程度のもので、さほどの思い入れはない。
つまり、すべてを取っておこうとは思わないが、取っておきたいものもある。
「ど、どっちもです。捨ててよいものもありますが、取っておきたいと思うものも一応あります」
「わかりました。では、それぞれの対処法をお伝えしましょう。捨てていいのは、例えばこれでしょうか」
祓井が取り出したのは、昨日の新聞の書き写しだった。
「あ、それ、祓井さんがお持ちだったのですね」
「昨夜、隊舎に戻ってきた神倉さんから預かりました。取っておきたいものは、今、ありますか? あ、長持に入れてるの以外だとありがたいのですが」
「い、一応」
「おや」
祓井が意外そうな顔をした。
「わかりました。それならやりやすいです。すぐに用意できますか?」
「部屋にあります……」
「よし、じゃあ行きましょう」
祓井が勢いよく立ち上がった。文乃、中山とハナが後に続いた。
「おお、畳」
文乃の部屋を見て、祓井は楽しそうな声を出した。
「鬼神対策部隊の人たち、いい汗かいたぜーって楽しそうに戻ってきてましたよ」
「え、あ、そうなんですね……」
そういえばあの人達にお礼を言いそびれていた。宗十郎は「次はない」と厳しいことを言っていたが、頼めば会わせてくれるだろうか。くれる気がする。
次に祓井は壁際に置かれていた衣桁に掛かる裲襠を見つめた。
「そして豪勢な裲襠だ。いいお品ですね。一番上の姉が嫁いだときのことを思い出します。なんです、これ、神倉さんが浮かれて買ってきました?」
「ち、違います。母の形見です」
浮かれて裲襠を買ってくる宗十郎。祓井も本気で言ってはいないだろうが、想像がつかない。そもそも宗十郎にとっては、この結婚に浮かれる要素がないだろうに。
「ああ、なるほど……。塵塚さん、これ婚礼の時に着たいんですか?」
「う……えっと……」
そもそも、結婚を自分事と考えたことがない文乃に、その質問は難しかった。結婚も、家族すらも、縁遠い。ましてや婚礼に主賓として出席する自分。着たいかどうか以前に、想像がつかない。裲襠を着ている母を思い浮かべても、自分を思い浮かべることはできなかった。どちらも見たことはないのに。
答えあぐねている文乃をどう思ったか、祓井はにこりと笑って言葉を続けた。
「着たいのなら、ちゃんと神倉さんに言っておいた方が良いですよ。あの人そういうのすごい疎いし。じゃ、まず、こっちからですね」
文乃を畳に座らせて、祓井は新聞の書き写しと小さな手帳を取り出した。
「えーっとですね、文車家の書いた文字には呪詛が篭もります。ただしこれは本来、意識してやらなければ、発動しないものす。ただ十年前の呪詛事件の後は、防衛反応のために、呪詛が勝手に篭もるようになりました。文字に呪詛を篭めることで、体内から排出していると捉えてください」
手帳の中身を見ながら、祓井は語る。
「現在、文車家の上級者は呪いを篭めるか篭めないか自在に選べますが、多くの方はそうもいきません。塵塚さんがどうなるかは、今後の訓練次第だそうです」
「はい……」
「神倉家に嫁いだ場合、塵塚さんに降りかかる呪いは二種に増えるわけですが、この場合、基本的にどちらの呪いも篭められるのではないかと文車家の人たちは予想しています」
どうやら祓井の手帳には文車家の人間から聞き取った内容が控えられているらしい。
「塵塚さんが自覚されていたように、一日に一定の文字数を書くことで、呪いを濾過することが出来ます。その日、その後、書いた文字には呪詛は篭もりません。『一定の文字数』には個人差があります効率が違うって感じですね」
「では私の文字数は……」
「経験則でなんとなくわかりませんかね? わかりやすければ、紙の枚数でもなんでも良いんですけど」
「……そうですね」
文乃は祓井の持っている和紙の方を見る。昨日はこれに加えて、夜に『気持ち』を書いた。その文字数であれば、寝ている間に墨が勝手に溢れるような問題は起きなかった。
「たとえばこの和紙は五・七判ですね。五尺と七尺だから、えーっと、メートル法だと、十五センチかける二十センチくらいだっけかな……?」
祓井は自分の手で大きさを測りながら、そう言った。
文乃はうなずく。
「そちらの大きさで三枚か四枚。そのくらい書いていれば、経験上ひとまず安心できます」
「わかりました。まあ、ここらへんは時間をかけて様子を見ていきましょう。この新聞の書き写し三枚には、呪詛が篭もっています。これは祓井家の人間として断言できます。感知できます」
そうなのか。わからない。
ただ手から墨が不用意に溢れてしまわないようにと続けていた習慣だ。そこに呪いや呪詛があるというのが、文乃にはわからない。感知できない。
「まあ、感知には得手不得手ありますので、あまり気にせずに。神倉さんだって感知はそこまで得意じゃないですし。あ、この場合の神倉さんとは神倉宗十郎単体のことです。他の神倉家の方なら、感知くらいは出来る方もいます。でも、あの人は完全肉体派の、とにかく行動、ごり押し人間なんで……」
祓井の表情がどこか物言いたげになる。そういえば文乃の座敷の結界を斬ったと聞いたときも微妙な反応だった。
宗十郎の細かいことはさておき斬り伏せればよいという方針に、思うところがあるようだ。
わからないでもない。
「はい、というわけで呪詛の篭もった紙対処法やっていきましょう」
祓井は和紙を文机の上に置いた。
「えー、今回この紙は書き写しただけの内容なので、不要とのことです。ということで、最終的には焼却処分をします」
「ここで燃やせばいいんですか?」
「駄目です。絶対やめてください」
祓井が真顔になって文乃を見た。
「すみません……」
「いや、はい、大丈夫です。とりあえず止めただけなんです。怒ってるとかじゃないです、はい。正直に言うと、びびっただけです」
実際、祓井はちょっと冷や汗をかいていた。本当に申し訳ない。
祓井は改めて手帳に目を落とした。
「書いたばかりの呪詛はまだ紙に定着していません。まあ墨が乾いていないみたいな感じだと思ってください。定着するまで一日ほど待ちます。そうすると紙と墨が定着し、一体化します。墨にしか篭もっていなかった呪いが、紙そのものにも広がる感じですね」
「昨日書いたからその紙は、もうその状態ということですね」
「そうなりますね」
祓井がひらひらと和紙を揺らした。
「そうしたら、燃やします。墨のまま燃やすのは、液体って燃えるの? って感じなんですけど、紙なら、燃えるよなって感じです。完全に感覚の問題なんですけど、呪いとかってそういうところあるんで……わかりますかね?」
「あ、はい。宗十郎さんが座敷にいらっしゃったとき、墨を斬ってましたけど、斬れるんだ……ってびっくりしました。そういう感じですか?」
「それですね。……墨、斬ったんだ、あの人。ごり押し人間……」
祓井が苦い顔をしたが、一瞬でやめて、話を戻す。
「燃やし方ですが、文車家では
「……塵塚?」
「ああ、ゴミ捨て場のことです。あ、そっか、塵塚か。ご実家の姓でもありますね……」
祓井の顔から表情が消えた。先ほど注意されたときの真顔とは違う。むしろ心ここにあらずというような、どこかぼんやりとした表情だった。
「んー、名は体を表すとは言うけどさ……」
何か考えこんでいる。
「塵塚……文車……うーん、これどっかで……あー出てこない……」
祓井が顔をしかめる。
「神倉さんか典堂さん、部隊の人たちに……いや、違う気がするな……
祓井は首を横に振った。
「いや、まあいいや。こちらではそういうわけにもいかないので、自分が浄化の焼却を代行します」
「お、お手数をおかけします」
「はい。まあそれも週一くらいでいいと思います。自分は鬼神対策部隊の方に常駐して、他の道具も浄化とかしているので、神倉さんに持たせてください」
「……それだけ、ですか?」
「それだけです。ただし今後は、ですね。長持の中のやつの処分はもうちょっと人員揃えて改めてやります。もう少しお待ちください」
「はい。あの、いろいろとありがとうございます」
「いえいえ、それにまだまだ前半ですよ」
「そうでしたね……」
処分する方法はわかった。問題は保管しておく方法だ。
「ま、ちょっと疲れたし、一旦お茶でももらいますか?」
「あ、はい」
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