第8話 あなたのこと私のこと
朝の光を感じて、目を覚ます。
カーテン越しにでもわかる明るい光に包まれながら、文乃は寝台の上で身を起こした。
寝る前に「お目覚めの際には、こちらで呼んでください」とハナに言われた鈴を遠慮がちに鳴らすと、ハナはすぐにやって来た。
ハナが着替えに持ってきてくれたのはまた違う着物だった。またしても典堂のお下がりとのことだが、どうにも恐縮してしまう。
同じ季節の間どころか、衣替えだってそうそうしてこなかった身にとっては、昨日と違う着物というのがもうずいぶんな贅沢品だった。
ハナの手を借り、着替えを終える。
新しい着物で部屋を後にする。
二階の廊下は、今日も日当たり良好だった。
食堂に入ると、宗十郎は熱心に新聞を読んでいた。今日も軍服姿だった。
昨日、書写のために持ってきてくれたものもそうだったが、この家では新聞を複数社から取っているようだ。
「おはようございます」
張ろうと努めてみたが、文乃の声はどうにもか細かった。
宗十郎は新聞から顔を上げて、微笑んだ。
「おはよう、文乃さん。体調の方は?」
「えっと、問題ないです」
「それは何より」
昨日と同じく宗十郎の隣に掛ける。ハナが朝食の準備のためにいったん退室する。
体調のことを聞かれて、典堂の顔が思い浮かんだ。
「あ、あの、典堂さんって、次はいつこちらにいらっしゃる予定でしょうか……?」
「典堂なら数日おきに診察をしたいから何度か来ると言っていたが、呼べばすぐ来るはずだ。何か心身に気になることでも?」
「いえ、その、体調ではなくて、あの、この着物のお礼を改めてしたくて」
「ああ。それならまずあさってには食事をとりに来るはずだ。……そうだ、これを」
宗十郎は新聞の下から、分厚い紙の束と一枚の布を取り出した。
「こちらは昨日言っていためくり暦だ。部隊に余っていたのを持ってきた」
文乃は受け取る。めくり暦には今日の日付がどんと全面に書かれていた。
次いで布。紺色の艶のある布だった。
「こちらは
「ありがとうございます」
「うん」
うなずいて、宗十郎が文乃の着物に目を向ける。
「
意匠をじっと見てから、宗十郎はそう言った。
「八橋……?」
「物語を題に取った意匠だ。川に架かった橋と杜若で構成されていることが多い。八橋は地名だ。ここで在原業平が『かきつばた』の歌を詠んだことで知られている」
「宗十郎さん、お着物の柄にもお詳しいのですね」
「いや、伊勢物語を読んだことがあるだけだ」
伊勢物語。
文乃もいくつかの話を読んだことはある。あるとき座敷に、名作をまとめた本が差し入れられて、そこに数段が収録されていた。
主人公の男が浮名を流す逸話が多かったように記憶している。
いわゆる恋物語で、宗十郎が読んでいるというのは少し意外だった。
「お好きなんですか、伊勢物語」
「いや、鬼が出てくるから読んだ」
「鬼」
言われてみれば、文乃が読んだ本にも載っていた気がする。
「えっと、主人公の男がおぶっていた女性が鬼に食われてしまって……というやつでしたか……?」
「それだな。鬼が出てくるのはそこくらいだ。鬼目当てに読むにはいささか的外れだった」
どこか懐かしむように、宗十郎がそう言った。
「……伊勢物語ならまだ俺の部屋の本棚にあるはずだ。興味があるなら、あとで探しておこう」
「あ、ありがとうございます」
本棚。昨日はあまり見られたくなさそうだったのに、こうして勧めてくれる。なんだか不思議だ。
そうこうしているうちに、朝食が運ばれてきた。ハナと中山がワゴンを押してやってくる。朝食も昨晩と同じく和食だった。
「本日は量を少なめにしておりますので、おかわりが必要であれば、じゃんじゃんお申し付けください」
ハナが文乃にそう言った。昨日は残してしまったから、ありがたかった。
「今日は朝食後に散歩。その間に君の部屋に畳を運び入れさせる予定だ」
食事をとりながら、宗十郎がそう言った。
「あ、はい。ありがとうございます」
迅速な対応に文乃はぺこぺこ頭を下げた。
「だから散歩前に部屋を片付けておいてくれ……といっても荷物はほとんどないか」
「そうですね」
文乃が塵塚家から持ち出したのは長持と筆だけだ。
いや、そういえばもうひとつ、塵塚家から持ってきて、今は手元にないものがある。
「私があの日着ていた着物って……」
「ああ、中山に手入れをしてもらっている。厚くてもう季節ではないから、手入れが終わったら仕舞ってしまおうかとも話していたが……思い入れがあるものなら、手元に置いておくか」
「いえ、えっと、行方が気になっただけなので……季節が合わないのなら、仕舞っておきます、はい」
自分が着る着物の季節など、これまで気にしたことはなかったが、文乃はそう言った。
典堂が持ってきてくれた菖蒲も杜若も季節は合っている。神倉家に嫁いで、人前に出ることもあるのなら、自分は季節についても考えた方がいいのだろう。そう思った。あまり詳しくはないから、これから覚えていかなければいけないが。
「そうか。……ああ、そうだ、中山」
「はい」
中山は呼ばれただけで宗十郎の意図を把握したらしく、食堂を出て行った。
食事をとりながら、中山を待つ。
この隙間に何か訊ねられるのなら、文乃の疑問は少しずつ減っていくのだろうが、文乃にはどうにもそれが出来ない。気力が、勇気がわかない。
宗十郎の方をちらりと見る。
宗十郎はてきぱきと食事をしている。昨夜もそうだったが、宗十郎は食べるのが速い。
文乃はといえば、やっぱり食欲はあまりない。
少なめにしてもらったけれど、じゃんじゃんおかわりどころか、食べきれるか少し不安だった。
もちろん、昨夜同様、残したところで許してもらえるだろうけど、文乃の心はそうもいかない。
せっかく出してもらったものを残してしまうことへの焦りがある。
ぐいぐいと押し込むようにご飯を食べた。
戻ってきた中山は、手に風呂敷を抱えていた。
「それは……?」
「塵塚家の使用人のご婦人から託されたものだ。君の母君の形見と言っていた」
使用人、ご婦人。誰だろう。文乃は記憶を辿ったが、誰の顔も思い浮かばなかった。
母親のことを知っているのなら、十年前から塵塚家に勤めていた使用人になるだろうけれど、この十年ほとんど誰とも顔を合わせなかった文乃には、心当たりがなかった。
母の遺品。
言われてみれば、塵塚家にそういうものが残っているのはおかしくない。
神倉家まで持ってきた長持だって元は母の嫁入り道具だ。
困惑しながら、風呂敷を見る。
淡い桜色の風呂敷。かわいらしいが、見覚えはない。
どしりと重さを感じさせる風呂敷の中には何が入っているのだろう。
「えっと……」
「どうする?」
どうする?
宗十郎の簡単な問いかけに、文乃は簡単に答えられない。
母の形見。何が入っているにせよ、文乃にとって貴重なものになるだろう。母の面影を残すものはほとんど手元にない。
「な、何が入っているのでしょう……」
「口ぶりからすると着物のようだった」
「着物……」
母の着物。駄目だ。思い出せない。臥せっているときの白襦袢ばかりが頭に浮かぶ。
元気なときだってあったはずなのに。文乃の頭の中にはもう残っていない。
ぎゅっと胸が痛んだ。
「あ、あとで、えっと、ひとまず中身を確認したいです……」
やっとのことでそう言った。
「うん」
宗十郎はこともなげにうなずいた。
そのあとは、無言の食事が続いた。
食事を終えて、まず自分の部屋に戻る。
脱いだ襦袢などはとっくに片付けられていたから、文乃がやることはほとんどなかった。
とりあえずテーブルの上の和紙と筆は仕舞っておこう。宗十郎にもらった袱紗で筆を包む。
桜色の風呂敷とめくり暦も持ってきてしまった。これもどこかに置かないと。
「文乃さま、全部こちらの棚に一旦しまいますか?」
ハナがそう声を掛けてくれた。
部屋の隅には、引き出しのついた棚があった。
「は、はい」
「よし」
ハナがガタガタと引き出しを開けた。
「これ重たいんですよねえ」
彼女は苦笑いでそう言った。
「……あの、こちらの部屋って、今まで誰かがお使いになってたのでしょうか?」
なんとも微妙な実用性の棚が気になって文乃は訊ねた。
「えーっと、まず二階の居住部分には主に四つの部屋があります。こちらの文乃さまの寝室と、お向かい、昨日お邪魔した宗十郎さまの書斎。書斎の隣には扉を挟んで、宗十郎さまの寝室。あともうひとつこの部屋の隣にも寝室があります」
必死に頭に思い浮かべた。
「宗十郎さまの書斎とそこに繋がる寝室は、昔は宗十郎さまのご両親がお使いで、ここの隣の寝室は宗十郎さまが子供の頃に使っていたそうです。だからこちらは客間になります」
「なるほど……」
あまり使われていない客室だから、棚ががたついていても、気にせず放っておかれていたのだろう。
それにしてもあまり使わない客室でも、見た目見事な調度が用意されているとは。
今の話にも宗十郎のきょうだいの話が出てこなかった。その人はどこに住んでいたのだろう?
疑問が湧いたが、ハナも知らないかもしれないと思うと、口にできなかった。
ハナがなんとか開けてくれた棚に、荷物を仕舞う。
仕舞いながら、書き終わった紙を今後どうしたらいいのだろうとようやく気付く。
祓井は長持を「駄目」だと言っていた。ならば今後は違うやり方で紙を仕舞うべきなのだろう。あるいは焼却でもしてしまうのかもしれない。
ああ、ちゃんと昨日のうちに聞いておけばよかった。
昨日の新聞の書き写しの方は、宗十郎がどこかへ持って行った。
あれの行方もきちんと聞いておくべきだった。
自分の気の回らなさに嫌気が差して、ふうとため息をついた。
「他に何か仕舞っておかなければいけないものはございますか」
ハナが気にしていない様子で言った。
ため息に気付いていないわけではないと思う。気付かないふりをしてくれたのだと思う。
「大丈夫です」
「では戻りましょう」
そうだ、宗十郎が、待っている。
一階に下りる。
宗十郎は玄関で待っていた。
昨夜、宗十郎を見送ったときにはもう夜だったから気付かなかったが、この館は玄関も明るい。磨りガラスから光が差し込んでいる。
光は柔らかくまぶしい。
「寸法が合えば良いんだが」
そう言って宗十郎が玄関に置かれていた女物の草履を指し示した。
「あ、ありがとうございます」
スリッパから草履に履きかえて、宗十郎と外に出る。
玄関の扉、大きな扉を宗十郎が押し開き、そのまま抑えてくれる。
文乃は外へ、足を踏み出した。
風が頬を撫でた。
朝の風は微風ながらまだ冷たかった。ふわりと髪を揺らして吹いていく。
光。太陽の光が、全身を照らす。カーテンや窓越しではなく、直接まばゆい光が降り注ぐ。
冷たくて、あったかい。
文乃は思わずそこに立ちすくんだ。
外だ。
神倉別邸の中も文乃は外だと感じた。しかし神倉別邸は座敷とは別の場所であって、外とは厳密には違ったのだと気付く。今までいたのはあくまで屋内だ。
ここが本物の外だ。
背にした玄関以外、広がる庭に遮るものはない。壁はない。緑が生い茂り、遠くまで続いている。
空。青い空。今日は雲一つ無い。高い。どこまでも高い。
おそるおそる息を吸う。
空気が口と喉を通って肺に満ちていく。
外の、空気。
「文乃さん」
いつの間に持っていたのか、宗十郎が文乃に日傘を差し掛けてくれた。
「あ、あの、えっと、私、自分で」
「いや、重たいから」
静かな、でも優しい否定。
「あ、ありがとうございます」
「今日は庭の……あの松のあたりを一周しようか。疲れたらすぐ言ってくれ」
「は、はい」
洋風の屋敷の作りとは裏腹に、庭は和風だった。
松や灯籠が配置されていて、遠くには背の高い生け垣が見えた。
足下には横幅の狭い川、大小の石。よく目をこらせば、木の向こうに茅葺き屋根のようなものが見えた。
塵塚家にも庭はあったが、大きさは比べるべくもない。自分の家の庭に出たのは十年も前の記憶だが、それは間違いない。
すべてを見渡せないほど広大な庭の中にいる。
数歩行ってから、後ろを振り向く。
神倉別邸がそびえ立っていた。
白い壁、水色の柱。二階建て。大きな扉と窓がいくつか確認できる。
あの中に自分がいたということが、なんだか不思議だった。
敷石の上を歩く。
外はとにかく目に入ってくる情報が多い。
それをひとつひとつ処理していると、考えている時間がない。
ましてや雑談など出来るはずもない。
宗十郎がゆったりと歩くのに合わせて、足を動かしながら、庭をぼうっと見つめる。
遠くに紫色の花が咲いているのが見えた。
「……紫陽花」
思わず口をついて出た。
「いや、うちの庭に紫陽花はなかったと思うが……好きなのか?」
「好き、というか……、思い出して……」
「うん」
「昔、母と紫陽花を見たみたいで、えっとその時の……紫陽花そのものは覚えていないんですけど、日記を書いたんです。それを昨夜、思い出したんです」
「そうか」
宗十郎の感情は読めなかった。怒っていたり不快であるわけでないのはわかる。ただ淡々としている。
「……見られるところを探しておく、今度見に行こう」
だからその淡々とした感じから、優しくもどこか寂しそうな声でそう言われると、ちょっとびっくりしてしまう。
宗十郎は多分、頭の中でいろいろなことを考えているし、感じている。それをすべて表に出すことはないが、優しいことを考えてくれているのはわかる。それは、嬉しいことだった。
「……はいっ」
嬉しさが、つい漏れる。宗十郎が文乃を見て、微笑む。
二人並んで歩くと、文乃は宗十郎にほとんど見下ろされてしまう身長差があった。
けれども見上げることも、見下ろされることも、何故か、どこか、胸躍るような楽しさがあった。
「あそこらへんに咲いている花は紫陽花ではなく…………なんだろうな」
しばらく宗十郎は考えていたが、諦めてしまった。
「花のことはあまり知らないんだ。見分けがつくのは
「ショウブのことはどうして?」
「厄除けになる」
「ああ……」
読んだことがある。アヤメとショウブは漢字は同じ菖蒲だがそれぞれ違うもので、アヤメは青。ショウブの花は黄色だという。
「……宗十郎さんの興味がなんとなくわかってきました」
鬼の話を読むために伊勢物語を読み、厄除けだからショウブを覚えた。
つまるところ。
「……仕事人間?」
「そうかもな」
宗十郎はちょっとだけ苦笑いをした。
「我ながらつまらない男だ。うん」
「そのようなことは……」
「ああ、あれだ、ショウブだ」
宗十郎が指さした先、細い川沿いに鋭い葉っぱがピンと上向きに伸びていた。
「これだ。この黄色い……なんかよくわからないものがショウブの花だ」
なんかよくわからないと宗十郎が言った花は、確かに花と言われて思い描いていたものとはずいぶんと違っていた。太くて長い磨る前のワサビのようなものが茎からひょっこりと生えている。
「……うん。あんまりきれいとは言いがたいな」
「えっと……特徴的で、えっと間違えなさそうでいいですね……」
「うん」
宗十郎が再び苦笑いをした。
「あと厄除けで有名なのは……南天と桃あたりか。桃の花の盛りはもう過ぎたな。南天の花はこれからか。あの特徴的な赤い実は冬だが」
「桃、南天……」
「どちらもうちの庭にあるはずだ。季節になったら、一緒に見よう」
「……は、はい」
ドギマギしながら、うなずく。
季節になったら、それはつまり、少なくとも桃がまた咲く約一年後まではともにいられるということだろうか。
いや、結婚をするというのなら、一年と言わず添い遂げるつもりでいるのが普通ではある。
宗十郎が文乃としようと思っているのは、実利の伴う結婚だ。夫婦として合わなかったからといって、そうそうお役御免というわけにもいくまい。
でも、文乃がきちんと呪いに対処できても、そのうち完全に呪いが解けるのなら、その時は、文乃は不要になるのではないだろうか。
「……宗十郎さん」
「うん」
「か、神倉家の呪いとは、あの、どういうものなのでしょう。どうして文車家のものとは違うのでしょう。あ、えっと違うというのは、その、神倉家は家から出れば解けると、おっしゃっていたと思うのですが、文車家のは、私の母はそうではなかったので……」
母が死んだとき、彼女は塵塚家に嫁いでいた。宗十郎の母親は、神倉家を離れれば呪いから逃れられるという。それは素人目には、明らかに違うものに感じる。呪いという点が同じでも、その顕れ方は明らかに違う。
「これらは呪いの性質が違う。まず神倉家の呪いは代々のものだ。古くから霊鬼神魔を斬り捨ててきた我が家には、多くのものが呪いを掛けている。幾年もかけて堆積した呪いだ。一朝一夕に解けるものではなく、神倉家に生まれ、そして神倉家で生きるのであれば、一生付き合っていくものだ」
「一生……」
「うん」
宗十郎はあっさりとうなずいた。
「だからこそ、すぐに死んだりはしない。神倉家を呪い続けるためには、滅ばれてもそれはそれで困るのだろうとも言われている。呪いは俺も専門外だから、詳しくは知らないが……。まあ最終的には死ぬにしても、症状はあくまで徐々に体が弱るもので、生命活動は維持できる。今回の文車家との縁談に限らず、神倉家は代々呪いに対処できる家柄のものを家に迎えてきた。祓井と俺も遠い親族だ」
「祓井家から神倉家に嫁がれた方がいらっしゃる、ということですか」
「そういうことだ。俺の祖母だ」
「お祖母様……」
「そういうふうにして、神倉家は代々滅ばない程度に呪いと共存してきた。一方、文車家。……文車家を襲った呪いは、呪詛だ」
「呪いと呪詛は違うのですか?」
「最終的には同じだが、俺たちがそれを言い分けるときは基準がある。呪詛は、今を生きる何者かによる明確な意思を持ってなされた呪いについて言う」
「…………」
それじゃあ、つまり。
「……文車家に誰かが呪いを掛けた。神倉家が背負っている真綿で首を絞めるようなじわじわとした呪いとは違う。滅びろといわんばかりの強力なその場で縊り殺さんばかりの呪いだ。その呪いを掛けた何者かは結局、十年経っても尻尾を掴ませなかった。……人を呪わば穴二つ。普通、あれだけの呪詛、本人にも撥ね返ってくるはずだが、その気配がないまま、呪詛は継続している」
「…………」
言葉がなかった。
その誰かのせいで、母が死んだ。
そう思うと、頭の中が真っ白になった。
宗十郎はそれを見越していたのか、体をそっと文乃に寄せた。
日傘を差し掛けてくれているから、文乃を支えられるのは片手だけだ。
その片手で、宗十郎は文乃の肩を優しく抱き寄せた。
宗十郎の手と、体に文乃は挟まれた。あたたかかった。
足から力が抜けても、多分宗十郎が支えてくれるだろう。そう思うと体はぐらつき頼りなかったけれど、なんとか歩き出せた。
けれども、今度は心臓の高鳴りがうるさくて、ちっとも安心はできなかった。
怖ろしいことを聞いて、よろめいたはずの体が、違う衝撃に震えている。
我がことながら、さもしいことだ。
「……私に何ができるのでしょうか」
ごまかすように、そう言った。
結局のところ、文乃が気にしなければいけないのは、そこだけなのだ。
原因も理由もさておき、自分に何が出来るのかを、文乃は知らない。
「まずは生きてくれ」
静かな声が、耳の近くでそう言った。正確には宗十郎の口はちょっと上にあったけれど、ずいぶんと近くに感じた。
「他のことは、全部ゆっくりでいい」
「でも……」
「いいんだ。君には無理を強いている。焦ってはいけない。なるようになる」
「……でも、私」
文乃はぐっとお腹に力を込めた。これだけは言っておきたかった。
「私、自分の力不足で宗十郎さんが呪いにむしばまれるのは嫌です。私が宗十郎さんの命を助けられるのなら、焦ってでも成し遂げたいです」
「……ありがとう」
小さな声で、宗十郎がそう言った。
お礼なんて、まだ自分は何もできていないのに。そう思ったけれど、宗十郎の言葉がただ胸に満ちてきて、文乃はとうとう何も言えなくなった。
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