第7話 綴りしもの

 廊下に出ると、差し込む陽の光は夕焼け色に変わっていた。


 宗十郎も、文乃も、言葉を発さずに、階段を降り、一階に立った。

 一階の廊下の先には、食堂があった。

 長方形の大きなテーブルと六つの椅子。

 部屋の奥、短辺の主賓席に宗十郎が向かい、文乃は宗十郎から見て、左側、角を挟んですぐ隣を勧められた。

 六つの椅子。

 宗十郎と両親がかつては使っていたのだろう。

 それから、もしかしたらきょうだいも。

 宗十郎はきょうだいについては、詳しく語らなかった。

 しかし、神倉家には年頃の子女がいないとハナが言っていた。

 つまりきょうだいは男性なのだろうか。仮に姉か妹だとしても、年が離れているか、遠方に住んでいることになるだろうか。

 宗十郎はこの屋敷で育ったと言っていた。

 その時に上のきょうだいの話にならないのも不思議だから、弟か妹になるだろうか。

 そもそも宗十郎は神倉家の次期当主なのだから、男子の中では年長の可能性が高い。

 そして、もし年の離れた姉だとしたら、こちらは婚姻などで神倉家を離れていてもおかしくない。

 神倉家の呪いは家から離れれば逃れられると宗十郎は言った。

 弟か、年の離れた妹、といったところだろうか?


 なんで、こんなことで悩んでいるんだろう。


 宗十郎本人がすぐ横にいるのだ。

 そのようなことは単純に聞いてしまえば良い。

 なのに、聞けない。

 聞けない。聞きたいことがいくつもあって、それを聞いたのに、なぜだか聞けないことが増えていく。

 たとえば、破談になった婚約者殿ってどういう方だったのですか? とか。

 婚約者。宗十郎に婚約者がいた。

 その事実を頭の中で繰り返すと、文乃は胸が詰まる。

 文車家の人。文乃の血縁。しかし文乃が知らない人。

 その人と宗十郎が破談にならずに、そのまま結婚していれば、文乃はここにいなかった。

 そう思うと、足下が抜けたような恐怖心に襲われる。

 頭の中でいろいろなことがぐるぐると駆け巡って、それを考えているだけで、疑問を口に出す気力がなくなっていく。

 ずんと押し黙ったまま、文乃は椅子の上で凍り付いていた。


 しばらくして夕飯が運ばれてきた。意外にも食事は和食づくしであった。

 米に椀物、一尾のアジに煮物と漬物。

 洋館なのでてっきり洋食が出るものと思っていた。しかし宗十郎はこの館を建てた祖父のことを西洋かぶれと評していた。

 宗十郎の祖父が特別西洋びいきなだけで、宗十郎は洋風の暮らしをそこまで好んでいるわけでもないのかもしれない。

 宗十郎の服装だって、洋服と言っても、軍服である。着ることを定められている制服だろう。

 そういえば、とちらりと宗十郎を窺う。

 宗十郎は食事の時間になっても軍服のままだった。

 折良く宗十郎が目を上げ、こちらを見た。目と目が合う。

 宗十郎はしばらく文乃の言葉を待ってくれたが、文乃の口はもごもごと言いよどむばかりで、何も音を出してくれなかった。

 せめて「なんでもない」と言えればよいのに、それすら口から出てこない。

 しかし宗十郎はあまり気にした様子もなく、自分から口を開いた。

「文乃さん、食事は多めに用意させているから、食べきれないようなら、残してくれ。もちろん足りないなら、おかわりもある」

「あ、はい……」

「それで、何かあったか?」

 宗十郎は首をかしげた。

「あ……あ、えっと、宗十郎さんはお着替えされないのかなと……」

 やっとのことで文乃はそこに言及した。

「ああ、これか。食事が終わったら、俺は一旦部隊の方に戻る。食事の席に無骨ないでたちですまない」

「こちらこそ、あの、気にさせてしまって、申し訳ありません。まだお仕事中だったのですか?」

「ああ」

 なんとなくだが、どこか言葉少なな答えのように感じる。仕事について聞くのは控えた方がいいのかもしれない。

 むぐと口をつぐんだ文乃をどう見たか、宗十郎は柔らかな声音で続けた。

「部隊の宿舎は神倉別邸の敷地の目と鼻の先にある。呼ばれればすぐ戻るから、安心してくれ」

 じっとこちらを見ながら、そう言われた。

「お、お呼びしなくて済むよう気をつけます」

「いや、その必要はない」

「え……」

「君は思うままに動いてくれていい。まあ、外出の時には付き添いをつけるが、それは典堂も言っていたように、君の体が心配だからだ。この家にいる間、当面は好きにしていい」

「…………」

 黙ってしまった文乃に、ちいさく笑いかけると、宗十郎は手を合わせた。

 この人の笑顔を初めて見た気がする。文乃の頭の中は、一瞬見せた宗十郎の柔らかな笑みでいっぱいになってしまった。

「食べよう。いただきます」

「あ……いただきます」

 ぼーっとしたまま、つられて手を合わせる。

「文乃さま、お米は一旦そのままを出しましたが、おかゆがよければ、すぐにご用意できます」

「は、はい」

 給仕を終えて、後ろに控えていた中山の言葉に返事をして、文乃は箸を取った。


 食事はおいしかった。

 お腹がさほど減っていなかったのか、あまり量が食べられず、半分ほど残してしまったが、それでもおいしかった。

 文乃はそれを必死に中山とハナに伝えた。

 半分しか食べられなかった文乃と、ご飯を一回山盛りでおかわりして、全部食べきった宗十郎が、食事を終えるのはほとんど同時だった。

 部屋に戻る前に、食堂から玄関に向かい、仕事に戻る宗十郎を見送った。

「今夜も遅くなる」

「はい」

 宗十郎の言葉に中山とハナが深々と頭を下げた。つられて文乃も頭を下げる。

「文乃さん、ゆっくり休んでくれ。何か不調があれば、ハナたちに言って、典堂を呼んでくれ。祓井が必要なら、典堂が判断するだろう」

「典堂さん達もお近くに……?」

「ああ、祓井はうちの部隊の隊舎に間借りさせている。典堂は典堂家の診療所があるので、そちらに住んでいる。週末はふたりともたいていこちらで食事を取る」

「週末……すみません、今日って、何曜日ですか……?」

 あの座敷で暮らしていると、日にち感覚などなくなってしまう。

「ん、ああ。今日は水曜日だ。……うん、今度、余ってるめくり暦でも持ってくる」

 宗十郎はそう言って、神倉別邸を後にした。


 文乃はハナに付き添われ、自分に与えられた部屋に戻った。

 部屋の中はすっかり暗くなっていたが、ハナが明かりを灯してくれた。

「あの、ハナさん。めくり暦ってなんでしょう……」

 文乃はソファに掛けながら、訊ねた。

「ああ、一日ずつ暦が書いてあるものです。今日が終わったら紙を一枚とっていくんです。日付やら曜日やら、ものによっては格言なんかが書かれています。日めくりですね」

「一枚ずつ……なんだかもったいないですね……」

 贅沢な紙の使い方があるものだと文乃は嘆息する。

「ですよねえ」

 ハナが朗らかに笑った。

「私なんて実家が素寒貧だったので、こちらのお屋敷に来てから、びっくりすることばかりですよ」

「そうでしたか……。あ、びっくりといえば、あの、ごめんなさいね、私が文字を書いたとき、驚かせてしまって……」

「え? あ……いや、いいえ!」

 ハナはぶんぶんと頭を横に振った。

「私が未熟なだけです! 文乃さまは頼まれたことを、ご自分にできることを、なさっただけですもの。私の方こそ、申しわけありません。今後もご不快に思われるようなことあれば、中山さんにでも、宗十郎さまにでもお申し付けになってくださいまし」

「いえ、これが普通ではないのはわかっているの。だから、その、ハナさんが嫌なら、私のお付き、やめてもらうよう言いますから、無理はしないでくださいね」

「……普通って、なんでしょうね、文乃さま」

「え?」

「私にとってこのお屋敷での生活は、実家のそれとはほど遠くて、普通じゃないなって、最初は思ったんです。でも、このお屋敷で育たれた宗十郎さまや、長くお仕えしている中山さんにとっては、ここが普通なんですよね。私も一年近くお邪魔してたら、このお洋服にも洋館にもずいぶん慣れちゃって……だから、普通って、なんだろうなって。私が昔感じてた普通って、どこいっちゃったんだろうって……」

 ハナが苦笑いをした。

「余計なことでした。お休みになられますか? 文乃さま。入浴の方はいかがされますか?」

「入浴……」

「二階の廊下の奥に浴室があります」

「ああ」

 まだ知らない部屋がいくつかある。そのうちのひとつが浴室だったらしい。

「えっと、今晩は布で拭くだけで……」

「そうですね、お疲れですと、湯船につかるのもかえって大変ですものね。では、お湯を用意して参ります」

 ハナが退室していった。

 一人残されて、文乃は深くため息をついた。

 自分はうまくやれたのだろうか?

 いろんなことがありすぎて、頭の中が混乱していた。

「ああ、そっか……」

 こういうときのために、筆はあるんだ。

 いつもの筆は今、寝台のそばの小さなテーブルの上に、和紙とともに置いてある。

 宗十郎の部屋から食堂へ移動するとき、こちらの部屋に寄って置いておいた。


 頭の中にあることを言葉にする。

 それは筆と紙の役割のひとつのはずだ。

 随筆と呼べるような立派なものは書いたことはない。そもそもここ十年、文乃は書き写しばかりをやっていた。

 でも、幼い頃はどうだったろう。

 日記を母と書いた気がする。それはたかだか数行のものだった。子供の頃だ。単純なことしか書かなかっただろう。

 でも、数行でいいのかもしれない。単純なことでいいのかもしれない。そんなことすら、文乃はこれまで書いてこなかったのだから。

 文乃は筆に手を伸ばした。


 寝台の上に腰掛けながら、小さいテーブルの上の和紙に物を書くのは想像以上に骨が折れたが、それでも文乃は書いた。


『神倉家の呪いを文車家の力で祓う。それが私の求められた役割』

『神倉宗十郎と彼の母ときょうだいを呪いから救う』

『文車家の筆であれば、それが可能』

『文車家の人間』『宗十郎の元婚約者殿』『文車家の呪詛』

『神倉家の人間になることで、文乃は神倉家の呪いを受ける』

「あれ」

 そういえば、宗十郎はもうひとつ他の呪いの話をしていた。

『塵塚家に伝わる呪い』

 どれも、文乃は知らないことだ。

 神倉家のことはともかく、自分が生まれ育った塵塚家に呪いがあるということも文乃は知らなかった。

 ただ自分が『悪いもの』なのだと思ってきた。

 呪い。ぞっとしない言葉である。

 呪いの逸話は数多い。古くは古事記の神々にはじまり、呪詛をなしたとして政治的な立場を追われた話にも事欠かない。

 神話から、歴史まで。

 呪いという概念は、書物の中には確かに息づいていた。それを読んできた。

 開国以来もたらされた知識によれば、異国にだって似たような話は枚挙にいとまが無い。

 つまり呪いは『ある』のだ。形はどうあれ、真実はどうあれ、ある。

 けれども自分自身の、あるいは周囲の人間のこととなると、途端にそれは遠く感じてしまう。

 実害を感じていないせいだろうか。いや、墨が湧き出るような妖しい力は実害と言えば実害のはずだが、それで文乃が死んだわけでもない。

 苦しかったり倒れてしまったりはしたけれども。

『呪いとは何か』

 文乃は最後にその一文を紙にしたためた。それで一枚の紙はほとんど埋まった。

「…………」

 できあがった紙、そこに躍る文字を、なんとも言えない気分で見つめる。


 これは文乃の気持ちだ。


 疑問がどうしても多くて、これをただ感情と呼ぶのはいささかためらわれるけれど、文乃の心に浮かんだものを書いた言葉だ。

 ただの箇条書き。随筆などとはほど遠い。日記にすらなっていないと思う。

 でも、こんなことすら、母が死んでからは、書いたことがなかった。

 どこか、懐かしかった。

『むらさきいろのおはながきれいだった』

 ふいに子供の文字が脳裏に浮かんだ。

 自分の文字だ。ひらがなばかりの、拙い文字。

 いつの思い出だろう。わからない。ただ、母はその花の名前を教えてくれた。漢字を教えてと頼むと、横に字を添えてくれた。

『あれは紫陽花あじさい

 母の字。きれいな字だった。文乃の憧れの字だった。

 その日に見て、日記に残すほど感銘を受けたはずの紫陽花の姿は、もう思い出せない。日記だってどこにいってしまったのか。

 それでも母の文字だけは覚えている。

『紫陽花』

 文乃は紙の隅に小さくそう書いた。

 この紙はこれで完成したのだと思った。


 ハナが持ってきてくれたお湯と布で体を拭いてから、襦袢に着替えて、文乃は寝台に潜った。

 柔らかな布団の中で、彼女はゆっくり眠りに落ちた。


◆◆◆


 神倉宗十郎は神倉別邸を後にし、一人道を行く。部隊単位の移動であれば車を使うこともあるが、基本的にはその必要が無いくらい、鬼神対策部隊の本部は神倉別邸の目と鼻の先にある。

 移動にかかるのはほんのわずかな時間だが、物思いにふけるのには十分な時間だ。

 夜の空気は冷たい。少し吸い込んでから、ふうと息を吐く。

 今日はいささか多くのことが起こりすぎた。とはいえ、すべては自分が始めたことなのだから、心の中であろうと、弱音を吐くわけにはいかない。

 神倉別邸に残してきた文乃は休めているだろうか。自分がこれだけ疲れているのなら、それ以上に彼女は疲れているはずだ。

 いきなり新しい環境へ引きずりこんでしまった。

 不安や不満はあるのは当然として、必要以上に抱えこんではいないだろうか。

 自分は察しの良い方ではない。宗十郎はそれを自覚している。

 彼女が今、何に困り、何を一番必要としているのか、先回りできるほど、器用ではない。

 なんなら自分の名前すら名乗り損ねていた。

 このていたらくを考えると、他のことも心配になってくる。

 他に言いそびれていることがあるような気がする。いや、多分あるのだろう。ないと思わずにいたほうがいい。対応はそちらの方が格段にしやすい。

 問題は宗十郎はそれに気付けないし、文乃もそれを指摘できない。

 今までほとんど座敷に閉じ込められてきた文乃に指摘しろ、質問しろというのは酷だ。今日のような受け答えをまっとうにできているだけで、上出来である。

 周りの助けを借りるのにも、限度がある。

 祓井や典堂はよくしゃべるし、宗十郎より気遣いができるが、それぞれに専門の職務がある。なんでもかんでも駆り出すわけにはいかない。

 熟練の使用人である中山は人心にもよく気が回る。ハナも人の心を和ませる朗らかさがある。

 ただ彼女たちは霊鬼神魔にまつわることについては、ほとんど知らない。

 宗十郎、文乃、それに典堂や祓井、部隊の隊員たちと違って、彼女らは異能と呼ばれる力を持たない。

 だから知らない。知らないことまで補足するのは、いかに練達の使用人といっても無理である。

 だから最終的には宗十郎がやらなければいけない。

「……ふう」

 そうだ。やらなくてはいけない。それが自分に出来ることだ。

 気は利かなくとも、やらなくてはいけないことを突きつけられたら、こなしていくしかないのだ。

 名前を聞かれたときのように。

 手帳を軍服から取り出す。鉛筆で覚え書きをしたためていく。

『筆の入れ物』『文乃さんが読んで楽しい本』『畳と文机』『めくり暦』

「……うん」

 大丈夫だと思う。今日話題に出たもので、宗十郎が用意しなければならないのは、こんなところのはずだ。失念していたら中山が指摘してくれるだろう。

「それと、これか」

 家から持ち出してきた紙に目を落とす。文乃が本日、新聞から書き写した文字。

 文乃は書き上げた物には頓着がないようだったので、預かってきた。

 長持の中はろくに見られなかったので、文乃さんが書いた新しい文字と紙が見たいと祓井が言っていたので、彼に持って行く。


 気付けば、部隊の本部前に着いていた。

 もう一度の深呼吸で思考を切り替える。

 この門をくぐれば、自分は神倉宗十郎個人ではなく、神倉隊長だ。

 自分のやることを刻み込んで、神倉宗十郎は部隊の門をくぐった。

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