第6話 使命

 中山に続いてハナも戻ってきた。

 ハナは宗十郎に新聞を渡す。

「……政治家の辞職、著名人来日……」

 ざっと見出しを読んで、宗十郎が微妙な顔をする。

「こちらはいかがでしょう。婦人附録。女性向けの記事になっております」

「新婚の華族令嬢、身の上相談、園芸案内……」

「お気に召しませんか?」

「いや、これは……読んでいて楽しいものか?」

 宗十郎は心底わからないという風だ。

 宗十郎とハナが新聞を挟んで停止してしまった。

 文乃もともに止まる。本当はなんでもいい。けれども宗十郎が異を唱えていることに、それでいいと言ってしまうのも気が引ける。

「差し出口を挟ませて頂きます」

 そこへ中山が声をかけた。

「宗十郎さま、大切なのは文乃さまが必要とされているかどうかでございます。彼女に読ませるにふさわしいか、楽しんでもらえるか。それを気にされるのは宗十郎さまの優しさ故のこととは思いますが、文乃さまに決めていただくのが一番かと」

「は、はいっ」

 中山の助け船に文乃はすばやく飛び乗った。

「あの、わたくし、本当に中身はいっそなんでもよいので……はい」

「……そうか」

 宗十郎はうなずいて、手に持っていた新聞を、文乃に手渡した。

 開かれていたのは『婦人附録』というページで、宗十郎が読み上げた見出しが躍っていた。

 そこには知らない女性の顔写真も載っていた。新婚の華族令嬢某であると説明がある。

 書いてあることは平易でわかりやすかった。文乃はひとまずそれに取りかかる。

 机に向かう。中山が置いてくれた和紙の横に新聞を置く。

 いつものように筆を握る。

 筆先が自然と黒く染まる。

 後方でヒュッと息を吸う音がした。

「これ」

 小さく中山がたしなめる声がした。

 ならば息を吸ったのはハナなのだろう。驚かせてしまった。申し訳なく思う。中山に叱られてしまったことも。

 終わった後に、ハナが文乃のことを怖がっていなければ、謝りたい。

 謝りたいけれど、でも、謝れるだろうか。

 だって、文字は、暴れるのに。結界は、ここにはないのに。そんな自分を怖がるなと言う方が、無理があるじゃないか。


 文乃の手が止まる。

 怖い。

 座敷にこもっていたときには、微塵もなかった感情が湧き出てくる。

 文字がまた暴れ出したらどうしよう。この部屋を汚したらどうしよう。

 神倉宗十郎の部屋を。


「文乃さん」

 その声は、優しかった。

「大丈夫だ。何が起きても、俺がまた斬る」


 そうだ。この人なら、斬れるのだ。文乃が制御できなくとも、宗十郎がいれば、大丈夫。


 ふーっと息を吐き、集中する。

 和紙に筆を押し当てて、文乃は書き写しを始めた。

 文字はいつも通り、おとなしく和紙の中に納まっていった。


 新聞の一頁をまるまる写し書くのに、そうそう時間はかからなかった。

 書き切ると、文乃は一旦手を止めた。普段ならそう問題にはならない文章量であった。

 しかし筆を握る手からは力が抜けかけていた。

「よし、休憩にしよう」

 宗十郎が声を掛けてきた。

 経験上、もう少し書いておいた方が安心である。けれども体がいつも以上に疲れていて、休息を欲していた。

「はい……」

 体を椅子に預けようとして、バランスを失った。ぐにゃりと体が崩れ落ちていく。

「わあ……」

 気の抜けた声とともに、椅子から滑り落ちそうになった文乃の体を、宗十郎がぐっと支えた。

 肩を抱き寄せられ、宗十郎の腕と胸の間に挟まれた。

 ハナが座るのを補助してくれたのとは違う。力任せの、しかし、力強くて安心してしまう手。

「だ、大丈夫か?」

 宗十郎がさすがに慌てている。

「は、はい……。すみません、えっと、なんか気が抜けました」

 慣れない椅子に座り続けていたせいで、体の変なところに力が入っていたらしい。なんだかあちこちこわばっていて、うまくいうことを聞いてくれなかった。

「ゆっくり」

 そう声を掛けてもらいながら、ほとんど宗十郎に体を預けたまま、文乃は椅子から立ち上がる。

 そのまま部屋の中の一脚だけのソファに座らされた。

 机の前の椅子と比べると、くつろぐためのつくりをしているようで、体重を全力で預けても、問題なかった。しばらく体を休める。

「……そろそろ夕食にするか」

 宗十郎がそう声を掛けたのは、中山に対してだった。

 言われて窓の方を見る。カーテン越しでもわかる。陽の光が和らいできていた。夕方を過ぎた頃だろうか。

「はい。用意は済んでいるはずです」

 中山の答えから察するに、この屋敷には中山とハナ以外にも、食事を用意している使用人がいるらしいと気付く。

 部屋に畳を入れるために使うと言っていた男手だろうか。

 それとも、そちらとはまた別の人間なのだろうか。

 文乃にはその規模感がぴんとこない。そもそも、自分が住んでいた塵塚家にだって何人の使用人がいたのか、文乃は知らない。

 ましてや他人の、それも別邸に何人の人間がいるかなど、わかるわけもない。

「厨房に確認して参りますね」

 ハナがそう言って、パタパタと部屋を出ていた。


 しばしの沈黙。

 こうして動きがなくなると、独りだけ座っているのがどうにも申し訳なくなる。

 ちらりちらりと宗十郎と中山を窺うが、ふたりはすらりと背筋を伸ばして立っている。

 宗十郎は文乃のソファの目の前に、少し距離を置いて。中山は戸の傍に。

 ふたりとも立ち姿がなんともさまになっている。立っていることが苦でも何でもないように見える。

 こうなってくると気を回すのもなんだかおかしい気がする。

 そもそもここは神倉家の屋敷で、宗十郎の部屋なのだ。文乃がお掛けくださいと促すのもおかしな話である。


「食欲はあるか?」

 しばらくして宗十郎が言葉を発した。

「……ええと」

 言われてひとまず腹に視線を落とす。食事というものは文乃にとってただの日課である。

 お腹が空いたから食べるとか、お腹が空いていないから食べないとか、そういう選択肢はなかった。出されたから、食べる。

 だから食欲というものを気に掛けたことがなかった。

 少し考えてみたが、結局わからなかった。

「……わからないです」

 仕方なく素直に答えた。

「そうか」

 宗十郎は相変わらずの淡々とした様子だった。

 そしてまた沈黙。


 今なら、時間がある。聞きたいことを、聞けるのではないか。

 そう気付く。

 まだまだわからないことがたくさんあった。

「あ、あの……」

「ああ」

 宗十郎は、うなずく。文乃のおそるおそるの声がけに気分を害した様子もない。

 じゃあ、何を、聞こう。何を自分は知りたいのだろう。何を知っておかなければならないのだろう。

 いや、知っておかなければいけないことがあるのなら、宗十郎達は教えてくれると思う。

 だったら、知りたいことを第一にすればいい。

「……宗十郎さんは、どうして私を、私に……」

 なんと言ったら良いのだろう。

 宗十郎は自分をあの座敷から連れ出してくれて、今も親切にしてくれる。

 でも、その理由がよくわからない。だから知りたい。

 でも、あれはなんと表現したら良いのだろう。

 助けてくれた?

 目を掛けてくれた?

 教えてくれた?

 なんだかどれもしっくりこない。

 あの場所から助けてもらったのは確かだけれども、そこで終わりではない気がする。

「……私をここに連れてきてくださったのでしょう」

 文乃が選んだ表現は、ただ状況についてのものだった。

「……そうだな」

 神倉宗十郎は、少し考えこんだ。


「……最終的には君に俺と結婚してもらうため、だ」

 そういえば最初に言われた。

 結婚。

 やっぱりわからない。

 考えたこともなかった。今も考えられない。想像がつかない。

 とにかく自分が結婚するのなら、花嫁修業というものを、たくさんしなくてはいけないだろう。

 そう考えるほど文乃には足りないこと出来ないことが多すぎる。

「宗十郎さんは私と結婚したいのですか?」

 そうなると、そこがわからないのだ。

 宗十郎は文乃のことを知っていた。文車家の血筋で、塵塚家の座敷に閉じこもり、妖しい力を持っている。

 そこまではどうやら把握しているらしい。

 しかし、文乃の性格や容姿を知っていたわけではないはずだ。

 つまり宗十郎が文乃と結婚したいのは、文乃という個人が理由ではない。

 いや、もちろん自分に結婚したくなるような要素があるとも思えないし、実物のみすぼらしい女を見てもまだ結婚したいと言ってくれるのは、ありがたいことだと思う。

 感謝こそすれ、がっかりする資格はない。とはいえどこか釈然としないのも事実だ。

「……正直に言おう」

 宗十郎はしばらく考えこんだあと、そう言った。そして文乃の目の前に膝をついた。

 あの座敷で、結婚を申し込まれたときと同じかっこうだ。

 今回は文乃がソファに座っているから、文乃の方が目線が高い。

 だから宗十郎が少し文乃を見上げる形になる。

 こちらを見上げる目には迷いがない。まっすぐに文乃を貫いている。

 対する文乃は、今回ばかりは目をそらさない。ただ鼓動が高鳴ることもない。漠然とした不安が絶え間なく心を揺り動かしていて、それどころではなかった。

「俺は君の持つ文車家の力を必要としている。それを手に入れるためなら、時間と労力は惜しまない」

 宗十郎の言葉に文乃は反応出来なかった。

 予想出来た範疇の理由である。いまさら気にくわないわけもない。

 ただ、強いて言うなら、自信がない。

 文車家の力。

 宗十郎が口にするそれを、文乃は自覚していない。

 いや、自分の墨が湧き出る妖しい力はどうやら文車家由来と聞いたが、このようなものが何の役に立つのかわからない。

 神倉宗十郎は、塵塚文乃が書いた文字を斬った。

 言ってしまえば、文乃の力はその程度の力だ。

 宗十郎がその気になれば、斬り伏せられる程度の力だ。

 そんなものがどうして彼に必要なのだろう。

 自分に何ができるというのだろう。

 だから、質問を重ねた。

「それは私でなくては駄目なのでしょうか」

「…………」

 明確に宗十郎が沈黙した。

 怖い、と思った。

 自分で質問しておきながら、文乃はより大きな不安に襲われた。

 自分でなくともよいのなら、文乃を必要とする理由が消えるのなら、文乃はこの先どうしたらいいのだろう。

 自分の代わりがいるのなら、自分が宗十郎の求める力を十全に発揮できないとしたら、文乃はここにい続けることができるのだろうか。


 せっかく光の当たる場所に出てこられたのに。


「文車家には、他にも候補はいた」

 宗十郎の返答は、鋭く文乃の胸を突いた。

 喉の奥に形のない何かが詰まって、息が止まりそうになる。

「一度、訳あって破談になった」

 続いた言葉に、そっと宗十郎の顔を窺う。

 破談になったということは、裏を返せば婚約に近いところまで行っていたということになる。

 それを語る宗十郎の表情は相変わらず読めない。

 静かな表情だ。正も負もない真っ平らな感情で言葉を口にしている。そのように見える。

「……後任を探しているときに、君の話が出た。かつて文車家から塵塚家に嫁いだ女性の、忘れ形見の話が」

 後任。配偶者に使うにしては少々義務が勝ちすぎる言葉だと思った。

「調べてみると、君の状況が判明した。調べる方法は俺の立場でならいくらでもあった」

 宗十郎の立場。部隊を率いていると言っていた

 霊鬼神魔にまつわることであれば、調べることは仕事の内とも言えるのかもしれない。

「……だから君に目をつけた」

 そこで宗十郎は申し訳なさそうに目を伏せた。

 何を気に病んでいるのだろうか。

 たとえ宗十郎側の事情が発端とはいえ、その結果、文乃はここにいる。今までと比べ格段によい環境にいる。文乃が感謝こそすれ、宗十郎に謝られるいわれなどないのに。

「ありがとうございます」

 お礼を言った。ここに連れてきてもらったことへ、言っていなかった気がしたから。

 宗十郎は顔を上げたが、その表情は複雑だった。

 今日何度か見た「何かを言いたそうな顔」だった。

「説明は、これでいいのか?」

「は、はい。わざわざ私を選んでくださってありがとうございます」

「よくはないだろう」

 自分で聞いておきながら、宗十郎はわざわざそう言った。

「俺はまだ、君に何を求めているか教えていない」

「ああ……。いえ、でも……」

 文乃はもごもごと口を動かす。

「どうした?」

 宗十郎が続きを促す。

「えっと、言われても、その、今の私では叶えられないと思いますので……。いえ、もちろんそれが可能になるように努力はしますけど……今言われても、困ってしまう、と思います」

「なるほど。でも、そう困ることではない。求めているのは、単純で簡単なことだ」

「…………」

 単純で簡単なこと。

 そういうことが出来ないのが文乃だ。

 笑顔一つまともに作れず、寝台からも独力で起き上がれない。

 出来ないことばかりだ。

 座敷を出て、他人と出会ってから、己れの不明を恥じることばかりだ。

「文車家の者であれば、大なり小なりその力は受け継いでいる」

 宗十郎は、言葉を切って、じっと文乃を見た。

 自信なく揺れ動く文乃を視線で穿つように見た。

「溜まった呪いを文字にして鎮める。ただそれだけだ」

「え、えっと……?」

「君が今までやっていたことも、同じことだ。今、君が文字にしているのは君の内側にある呪詛だ」

「わ、私の内側に……呪詛?」

「呪い、穢れ、厄、魔……言い方はさまざまだが、君の中に呪詛は渦巻いている」

「それは、私が悪いものだから……?」

「違う」

 きっぱりと、はっきりと、力強く宗十郎はそう言った。

「……現在、文車家の係累はほとんどがこの謎の呪詛に襲われている」

「えっと……」

「君の母君が塵塚家に嫁がれたときは、まだそうではなかった。しかし十年前、突如として文車の一族に呪詛が襲いかかった」

「それは、つまり、あの、母が死んだこととも……?」

「関わっている」

 母の死。倒れ、もがき苦しみ、病床でなすすべもなく弱っていった母。あれらが呪詛のせいだった?

「母君は血を吐いて亡くなったと君は言った」

「え、あ、はい」

 どす黒い血。

 母の口から大量に溢れて、その日から母は体を起こすことすらできなくなった。真っ黒だった。全部を消し去る色だ。

 母が血を吐いたとき、文乃は母と一緒にいた。いつもどおり字を書いていた。文字は母の吐いた血で消え失せた。あの日何を書いていたのか、文乃はもう思い出せない。

「君の母君と同じように、文車家の人間たちが次々と死んだ。しかし無事だった者も一定数いた。多くが持って生まれた能力が高い者たちだった。呪詛を撥ね除けるのではなく……濾過するとでも言おうか。とにかく、彼らは生き残った。俺の元婚約者殿もその一人だ」

 さらりと告げられた婚約者という言葉に、文乃はこっそり唇を噛む。どうにも心がざわめいてしまう。

「そして君も、生き残った」

「え?」

 言われて、気付く。

 確かに自分は死んでいない。母が死んだ。顔も知らない親戚もたくさん死んだという。

 それなのに文乃は生きている。

「誰にそのすべを教えられるでもなく……いや、厳密には母君が教えてはいたのだろうが、君は生き延びた」

「で、でも……えっと、それは私が宗十郎さんに必要としていただく理由には……」

「君には神倉家に代々続く呪いを、祓ってもらいたい」

「神倉家に……?」

「文車の元婚約者殿との婚約もそのためだった。しかし諸事情あって婚約は破談となった。しかし神倉家に呪いは今も残っている。誰かに祓う役目を担ってもらえなければ、おそらく俺の代で神倉家は途絶える。俺も死ぬ」

「そんな」

 突然、言われた言葉に文乃は衝撃を受ける。

 宗十郎の顔を見つめる。

 その顔には何の表情も浮かんでいない。恐れすらない。

 宗十郎は死ぬことが怖くないのだろうか?

 文乃は話を聞いただけで、驚き、怖ろしくてたまらないのに。

 宗十郎が、目の前のこの人が、死んでしまうなんて。

「文車家の呪詛は血縁に広がる呪詛だったが、神倉家の呪いは神倉家に属する者への呪いだ。外から嫁いできた者にも関わる。結婚すれば、君にも呪いは降りかかる」

「私にも……」

 今の文乃には、よくわからないが文車家に関する呪詛がかかっているという。さらに神倉家に嫁げば、神倉家の呪いが増えるわけだ。

 しかし文乃はそれについては怖いとは感じなかった。あまりにも実感がなくて、現実感がなかった。

 現に今の文乃は、妖しい力こそあるが、死ぬわけではない。病気でもない。伏せってもいない。ただ生きている。

「……現在、俺の母も神倉家の呪いにむしばまれている」

 宗十郎が、そう言った。

 母、宗十郎の母親。

「神倉家にかかる呪い故、離縁さえしてしまえば逃れられるのだが、どうにも昔気質むかしかたぎの女性で、離縁はしないと腹をくくっている」

「…………」

「母と、それに俺にはきょうだいがいる。自分の命ももちろん惜しいが、俺は彼らを助けたい。だが、俺にそんな力はない」

 宗十郎は、深く息を吐いた。

「だから君に助けてほしい」

 まっすぐに向けられた言葉に、文乃は何も返せなかった。

 助けてほしいと言われて、助けてあげたいと心の底から思ったのに、宗十郎に何も答えてあげられなかった。

 ただ重たい何かが全身にのしかかって、動けなかった。

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