第5話 外へ

 宗十郎達が再び部屋に入って来た。ハナと中山、典堂も一緒だったが、祓井はいなかった。


「ん、顔色よし。着物よし。かわいい」

 文乃あやのを眺めて、典堂が満足そうにうなずいた。

「取っておくものね」

「そうだな、感謝する」

 宗十郎が文乃の向かいに腰掛けながら、そう言った。

「着物、ありがとうございます、典堂さん」

 慌てて文乃も頭を下げた。

「いいのいいの」

 典堂は文乃の隣に腰掛けながら、話を続ける。

「今頃と夏くらいまでの着物しか持ってこなかったけど、必要なものがあったらいくらでも言って。なんでも持ってくるから。いや、お下がりなんかに甘んじず、買ってもらいなさい。買いなさい、若旦那」

「ああ」

 宗十郎はうなずいた。

「寸法まではわからなかったから、今回はひとまず典堂の着物を借りたが、今後の着替えは急いであつらえさせる。頼むぞ、中山」

「かしこまりました」

 壁際、ハナと並んで控えていた中山が頭を下げる。

「あ、あの……えっと……」

 なんだか申し訳なくなって、文乃は声を上げた。もごもごと要領の得ない言葉になってしまった。

「どうした?」

 宗十郎がこちらを見た。じっとまっすぐ見る。困る。人にまっすぐ見つめられるのは、慣れていない。自然と目線が下がる。

「お、お着物はありがたいのですが、その、そこまで凝ったものをいただかなくて、大丈夫です」

 顔を上げられないまま、宗十郎の表情を確認しないまま、さらに続ける。

「……その、着物より、筆と紙、書き物をする場所が、私は……」

「そうか、わかった」

 宗十郎は淡々とした調子で肯定した。あまりにも淡々としていて、その感情がわからない。

 気分を損ねたり怒ったりしてはいないか、本当にただわかってくれたのか。

 気になってしまって、文乃はおそるおそる顔を上げた。宗十郎は文乃から視線を外して、今は部屋を眺めていた。

「この部屋はデスクがない。しかし椅子に座って書くよりは、今まで通り畳の上で文机を使って書く方が都合がいいだろうか?」

「う、えっと、できれば……?」

 本当のことを言えば、椅子に座って書くという行為がぴんとこないだけで、書けるのならどちらでもよかったが、文乃は慣れている方を選んだ。

「…………」

 宗十郎がじっくり部屋を眺める。

「うん。家具を動かせば、畳二枚程度なら入るか」

「そうですね」

 宗十郎の言葉に中山が同意する。

「さすがに今日は遅いから、明日、作業させる」

「あ、え、ありがとうございます……でも、あの、今日の分も書かないと、あの、墨が……」

「ああ、なるほど」

 宗十郎が目を閉じた。なにか考えこむようなそぶりを見せる。

「……制御できるようになるのが一番良いが、不安はまず取り除くべきか……」

 どうやらそれは独り言のようだった。宗十郎は目を開け、文乃に向かって言葉を発する。

「今日の分は別室で書くといい。紙はある。筆はこちらに」

 宗十郎が軍服のポケットから、見慣れた筆を取り出した。

「は、はい!」

 文乃はほっとして立ち上がった。

「あー、待って待って。先に医者からいくつか言わせてちょうだい」

 典堂がなだめるように、文乃の肩に手を置いた。

「は、はい……」

 息せき切って立ち上がってしまったのが恥ずかしくなってしまい、文乃はすとんと座り直した。筆は宗十郎の手の上に残った。

「まず、今の文乃ちゃんは体力が全然ないから、そこに十分気をつけること。眠くなったり疲れたら、すぐ休む。あと太陽の光にも慣れてないから、外には徐々に出てほしいけど、最初は朝夕の陽ざしが弱い時間帯にすること、これからどんどん暑くなるしね」

 立て板に水の如くそう言ってから、典堂は文乃の頬に手の甲で触れた。

「すでにちょっと赤くなってるもの」

「すぐ運んだんだがな……」

 ぎりりと歯をかみしめてから、宗十郎がそう言った。

 慌てて文乃は首を横に振る。

「だ、大丈夫です」

「大丈夫じゃない」

 ぴしゃりと典堂。

「大丈夫じゃないってわからないのが、一番大丈夫じゃないの。言ったでしょ、痛くても、苦しくても、わかんない状態なの、今の文乃ちゃんは」

「わからない……?」

「たとえば、ほら」

 典堂は帯の中から何か取りだし、文乃に渡した。何かと思えば丸い手鏡だった。

「あの、これをどうしたら」

「顔を見て、自分の頬が赤いってわかる?」

 鏡を見る。自分の顔を見る。

「……わかんないです」

 そもそも鏡を久しぶりに見た。

 文乃の生活は座敷で完結していた。顔や体を洗うのには、湯が張られたたらいが差し入れられ、それを使って手ぬぐいで拭いていた。ご不浄が土壁の中にひとつ作られていて、湯もそこに流していた。

 そんな空間に鏡など気の利いた物があるわけもなく、顔の仕上がりなど確認したことはない。

 まず青白い顔だなと思った。まわりに並ぶ人々の血色のよい顔とはまるで違う。

 そしてなるほどよく見れば頬に多少の赤みが差している。しかし文乃にはこれが異常なのかどうかがわからない。

「今も熱を持っているもの、日焼けよ。症状としては火傷に近いわね」

「そうなんですね……」

「というわけで朝夕どちらかに散歩はしてほしいけど、陽ざしの強いときは駄目。ひとりも駄目。倒れるかもだから。倒れたとき運べる男衆……若旦那が付き添うのが一番理想的」

「わかった」

 宗十郎の返事は早かった。一切のためらいがない。ちらりとそちらを窺う。宗十郎は典堂をじっと見て、典堂の指示を聞いていた。その手にはまだ筆が乗っている。

「食事は神倉家で出されている献立で申し分なし。ただし食事量は無理をしないこと。最初は抑えめ。徐々に増やしていって。それでも食べられないと思ったら、無理せず残すのよ。食べ過ぎも毒なんだからね」

「は、はい……」

「よし、そんなもんかな。他に異常が出たらすぐに連絡して。文乃ちゃん本人は自覚症状薄いだろうから、そこは周りがしっかり様子を見ること」

「ああ」

 宗十郎がうなずいた。

「中山とハナも頼んだ」

「かしこまりました」

 中山とハナがうやうやしく頭を下げた。


 典堂は話が終わると、「またね」と文乃に声を掛けて、部屋を後にした。


「よし」

 ソファに二人になり、宗十郎がまた文乃を見た。

 思わず視線が下がる。

 やっぱり、この人の視線には慣れない。

「まずはこれを」

 宗十郎が差し出してきたのは筆だった。典堂が話している間中、ずっと手の上に置いていたものだ。

「あ、ありがとうございます」

 筆を受け取る。ほっと胸元に抱き寄せる。

「……何か入れ物がいるかな」

 宗十郎がこちらを見ながらそう言った。

「あ、そうですよね……」

 ずっとあの座敷から出ることもなく筆を使っていたから、気にしたことはなかったが、今から場所を移すのなら、そして今後らも似たようなことがあるのなら、裸で持ち歩き続けるのもこころもとない。

「この筆は大事なものか?」

「あ、いえ、そこまで……これは、えっと、新しいものです」

「ん」

 宗十郎が微妙な顔をした。

 文乃もわかりにくい言い方をしてしまったと思った。

「あ、その……えっと、母と使っていた古いものは、処分されてしまったので、だからこれは新しく与えられたものなので……」

 それも十年前のことだから、厳密にはそこまで新しいとは言えないだろう。それでも文乃にとって。これはずっと新しい筆だった。

 新しくて、なじめなくて、でもこれしかなかった。

「なるほど、わかった」

 宗十郎はうなずいた。

「包みは何か用意しておこう。色や素材など希望はあるか?」

「な、ないです……」

 思いつかない。

「……わかった」

 宗十郎が静かにうなずいた。その目は今日一日だけで何度か見た「何かを言いたそうな目」をしていた。

「それでは続きは書きながら話そうか」

 そう言って宗十郎はソファからすくと立ち上がった。

「は、はいっ」

 声が少しうわずってしまったが、宗十郎が気にした様子はなかった。


 宗十郎が戸に向かう。その背を追いかける。

 がちゃりと戸が開く。宗十郎が外に出る。

 外。

 外に、出ていいのだろうか、文乃は。

 宗十郎が戸を押さえたまま廊下に出て、こちらを振り返った。足の止まった文乃を見た。

「文乃さん?」

 名前を呼ばれて、どくんと胸が鳴った。全身が震えるような錯覚に襲われる。くらりと体が浮くようなめまいがするのを必死に押し隠す。

「は、はいっ」

 宗十郎から掛けられたのは淡々とした一言なのに、必要以上に慌てふためきながら、文乃は宗十郎に続いた。慣れないスリッパを足からこぼさないように必死になりながら、進む。

 宗十郎は小さくうなずくと、先へ進んだ。

 戸の外に出る。自分の足で、部屋の外へと出た。

「明るい……」

 思わず呟き、目を細めた。

 カーテンが閉まっていた部屋の中と違い、廊下は奥にある窓の雨戸が開いていて、陽の光がそのまま降り注いでいた。

「まぶしいか?」

 宗十郎が少し心配そうな声でそう言った。

「あ、大丈夫です。えっと、あの、久しぶりだから……」

 光の下に出るのは久しぶりだ。まぶしくて、どこか懐かしい。

「そうか。そうだったな」

 宗十郎の目が翳った。その憂い顔を見ると、何かを言わなければという気持ちになる。けれどもどうにも適切な言葉が出てこない。

 困って、あたりを見渡す。

 部屋の外の廊下も洋風だった。おそらく屋敷全体が洋館なのだろう。

 目の前にはくだりの階段がある。となるとここは二階だろうか。

 廊下には戸が五枚あった。

「こちらだ」

 宗十郎が向かったのは出てきた戸の向かいにある戸だった。どうやら出てきた部屋と同じようなつくりの戸だった。

「俺の部屋だ」

 宗十郎はそう言って戸を開く。

 なんとも殺風景な印象を受ける部屋だった。整然としている。だからこそ冷ややかで、生活感がない。

 文乃が寝かされていた部屋と違って、厚手のカーテンは開いていて、薄手のレースのカーテンから外の光が差し込んでいた。

 床には絨毯が敷かれている。文乃がいた部屋の、模様がある絨毯と違って、茶一色の地味な絨毯だった。

 書棚がいくつか置かれている。

 そして一人用の洋机と椅子。洋机はデスクと呼んでいたものだろう。

 ソファもあったが、一人しか座れないものが一脚あるばかりだった。

 人を招くつもりのない部屋だ。そう感じた。

「今日のところは、書き物をこちらで」

 宗十郎が机の前の椅子を引いてくれる。

「し、失礼します」

 恐る恐る腰掛ける。

 慣れない。今更文句も言えないが、高さのある椅子と机に、姿勢をどう置くべきか困ってしまう。

 結局、文乃は手を伸ばして、机の縁にしがみついた。

「…………」

「…………」

 宗十郎のなんとも言えない視線を感じる。

「……中山、紙を頼む。和紙を適当に」

「はい」

 宗十郎の指示で中山が部屋を出て行く気配がした。

「書くものの題材は決まっているのか?」

「えっと、基本的に書き写しです。差し入れられた書物でしたり、古新聞でしたりを……」

「新聞か。ハナ、新聞をいくつか持ってきてくれ」

「はい」

 ハナも立ち去ってしまった。

 手持ち無沙汰になって、文乃はそっと書棚の方を見る。

 一部分しか見えないので、はっきりとしないが、古い草紙から新しい単行本までさまざまな本が、書棚にはささっているようだった。

「……あまり面白い本はないと思うぞ」

 宗十郎がそう言った。

「そうですか……?」

 文乃は首をかしげた。そもそも文乃は書物に対して面白さを重視したことがない。とにかく読んで写すことが第一だった。

 知らない国の言葉で書かれているなら、お手上げだが、日本語であれば面白くなくとも使うし、外国語でも漢籍までなら、意味はわからなくともどうにか使えると思う。

「……こちらにあるのは宗十郎さんがお持ちの本ですか?」

「この書棚のはそうだ」

 机に一番近いところにある書棚を宗十郎は示した。

「それ以外は、以前からこの屋敷にあったものをそのままにしているだけだ」

「この屋敷……中山さんから神倉別邸とお聞きしました」

「ああ。西洋かぶれだった祖父が、明治の初め頃に文明開化だと浮かれて建てたものだ。建ててしばらくは父が使っていた。かつては父と母、生まれたばかりの俺と使用人たちで住んでいた」

「宗十郎さんはこのお屋敷で育たれたのですね」

「ああ。この近くに陸軍の鬼神対策部隊本部がある。父はそこの所属だったので、この屋敷に住んだ。今は俺がその部隊長を引き継ぎ、部隊を率いている」

「鬼神対策部隊……?」

「霊鬼神魔にまつわる諸々を担当する部隊だ。現代では物の怪や鬼神の類いは『ない』ということになっている。だから一応極秘部隊ということになっている。祓井と典堂はそこの外部協力者だ」

「はあ……」

「まあ、そこらへんはおいおい。……君にも無関係な話ではないからな。ここにあるのはそれにまつわる書物が多い」

「なるほど」

 説明を受けながらじいっと書棚を眺める。

 宗十郎が少し身じろぎをした。

 どうしたのだろうとそちらを見ると、なんだか微妙な顔をしていた。なんというのだろう、どこか居心地が悪そうな顔だった。自分の部屋で何が居心地の悪いことがあるのだろうか。

「宗十郎さん?」

「ん……いや、少し気恥ずかしかっただけだ」

「気恥ずかしい……?」

「……うん」

 説明に困ったようで、宗十郎が目をつむる。困らせてしまった。

「失礼しました」

 文乃は目を伏せた。

 理由はわからないが、宗十郎が困ってしまったのなら、それはやめたい。

「いや、いや……」

 宗十郎の声はさらに困って聞こえる。どうしよう。

「宗十郎さま、お待たせいたしました」

 ちょうど部屋に戻ってきた中山の声が、救いの声のように感じた。

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