23
鉄錆の匂い。散じた赤。ぐしゃり、ぐしゃり、と倒れていく肉塊。
誰かが悲鳴を上げた。怒声と絶叫が耳の奥に入り込み、頭の奥を揺らした。
奈緒から手を離しながら、後ろに下がろうとすれば誰かの身体にぶつかった。
「静様、お気を確かにっ」
ルイスが、静の身体を支え声をかけた、ような気がした。
何かが、静の中から消え去ろうとしていた。
「やだ」
ぽつり、と静は声を漏らしながら、その腕にいる先ほどまで動いていた白銀の見下ろす。
「やだ、やだ、だめ、駄目だよ、ねむらないでよ。ねぇ……ねぇ! 置いて行かないで、ユフィアータ!」
腕の中にいる子狼が、目を閉じ、脱力したものへ変貌していた。まだ温もりがある。温かな銀の毛並みのおかげだろうか。動かない。銀の両目が開かない。
もう一度強くユフィアータの名を呼ぼうと息を吸い、そして今までに感じたことのない激痛が身体の中から襲い始めた。
声なき絶叫が自身の喉から溢れる。無意識に喉元を搔きむしろうとし、誰かの手がその手を握りしめた。
「静様っ!」
今度はしっかりと、ルイスの声であると理解した。
どうしよう、どうすれば。
「るいっ……」
最後までルイスの名を呼べなかった。激痛の他、せりあがる何かを耐えきれずにそれを吐き出したからだ。
ごぼっ、と到底今まで聞いたことがないような音だった。加えて、まさか、こんなにも赤いものを吐き出すだなんて一瞬気が遠くなりそうになったが、体内を焼くような痛みがそれを赦してはくれなかった。
「っ……るい、す」
「話さないでください!」
身体を抱え上げられた、気がする。もはや全身にはびこる痛みによってそれさえも分からなくなっていた。
「お前ら、ここに入れ!」
ヴィンセントの声、だろうかが響く。
身体が大きく揺らされる。どうなっているのか、と言葉を発するよりも前に喉奥から鉄臭いそれがまた溢れ出した。
痛い、訳が分からなくなるくらいに痛い。喉も、どこかしこも。中から炎で焼かれているのではないかと思うくらい程。
声を発するのすら辛く、一つの呼吸すらも炎を体内に取り入れてしまっているようになる。喉を掻きむしる。無意味と分かっていても、無意識に取る行動を止める余裕すら静には何もなかった。
誰か、誰かっ。
複数の手が、喉を掻きむしる手を掴み、止めた。
「静っ、しっかりしなさい!」
「うっわ、ちょっと、血が出てるって!」
「ええっと、あった、ハンカチ!」
途端、炎に焼かれるほどの痛みはほんの少しばかり和らぎ、しっかりと三人の声が耳に届いた。
痛みで目さえも開けられなかった静がひゅうひゅうと呼吸を繰り返しながら目を開ければ、そこにはああやはり、奈緒、真咲、伊織の三人がいた。三人で静の片手を握りしめているのが見え、なるほど、こうしてあの時も助けてくれたのだと、静は悟った。
ここはどこか、と視線を動かす。と廊下ではなく応接室のような場所だった。
あの賊が来るまで使われていたのか、本や書類がそのあたりに散らばっており、椅子も倒れ、窓は開け放たれたまま。そして今、自分はどうなっているのか、と思えば肩の方から強く握られた感触が伝わり、視界に入った彼の手を見てようやく把握した。。
上半身だけルイスに抱えられるように支えられ、床に座らされている状態だった。周囲にはリーリアの姿はもちろん、ディック達が青い顔をしている。もちろん、他の護衛達の表情なんかはずいぶんと険しい。
その中、静は小さく笑った。
「あっは……、すっごいいたいんだけど」
「静、笑い事じゃないのよ……!」
奈緒の言葉通り、笑い事ではない。分かっているが、そうでもしないと正気がおかしくなりそうだった。
「……ほんっと、はらたつなぁ」
「こんな時に腹立つって何よ。あたしの方が腹立ってるわよ」
「だってさぁ……ほんと、いたすぎて、ねてられないし。っていうか、めのまえでじがいするとか、ほんとうくそ」
「……痛いって言いながら実は結構元気だったりしないわよね?」
まるでそうであってほしい、と願うような真咲の問いに静は答えずに黙って笑みを浮かべた。
それが答えであると分かった真咲が強く唇を噛み、視線をそらした。
静は伊織の様子を見て、ああ、と理解した。あれほどまっすぐに黄金に輝く目を向けていたというのに、今は全く視線を向けずにずっと俯いたまま。見たくないものを見せてしまったことに罪悪感を覚えながら、近くにいたリーリアを呼んだ。
「リーリア」
「っ、はい!」
「ネーヴェを、おねがい」
自身の手で、白銀を手渡そうとするも、持ち上げるほどの力すら今は無くなっていた。代わりにルイスが掬いあげ、リーリアに手渡してくれた。
リーリアは両手で受け取り、すぐさま両腕で白銀を抱きしめてくれた。
「ルイス」
「……はい」
「どうやって、なぐりにいく……?」
そしていつもと変わらないように、静はルイスに声をかける。と、ルイスは深緑の瞳を何度か瞬かせ、そして眉間に深く皺を刻んだ。
「……その前に、その状態から回復しなければ無理かと思いますが」
「ははっ、だよねぇ」
無難な、けれどもルイスらしい小言めいた返答に、静はまた小さく笑った。
「……お前はその状態でも変わらんな」
「けふっ……おどろいた?」
「ああ、驚いたとも」
呆れるヴィンセントに、静は小さく咳をこぼしつつも、何一つだって変わらないいつものような返答を繰り返す。
こんなもの、ほぼほぼ気力の問題だ。頭がぐらぐらとするし、痛みだって三人のおかげで和らいでいるとはいえ、内部からのじわりと焼けつくような痛みはまだ消えてはいない。
「……これからどうするか、だ。それに守護伯殿にもどう説明をしたものか、だが……」
気を失えないほどの痛みが和らいだことで、少しずつ意識が混濁していきそうだったが、ヴィンセントの言葉を聞いて、なるほど、彼もいたのかと知った。
ルイスの伯父、ジェラルド。周囲の様子から敵ではないだろうが、ルイスが会いたくはなかったと言わんばかりの表情を見せたのが気になってしまう。
「ルイス」
「……はい、伯父上」
「いくつか聞きたいのだけど」
「手短に」
「分かっているよ」
頭上で、ルイスと彼の会話が聞こえる。
焦りを滲ませているせいで、少し早く言葉を発するルイスに対し、彼は先ほど同様に、少々比べてゆったりと話始める。
「そちらの聖女様をお守りする役目を任せられているのかな。その様子を見る限りでは」
「はい」
「状況がまだ理解出来ないのだけど、聖女様のそれの原因は分かっている?」
「……おそらく、ですが」
「すぐに回復するようなものかい?」
「いいえ」
「敵についての正体は把握している?」
「……情けないことですが、ほとんどが不明です」
一つずつ、漏れがないようにジェラルドは問う。ルイスはそれに簡潔に、無駄な情報を一切削り取った返答をしていく。
「ルイス。そのお方を守っているのは、その役目があるからかな?」
「それも、あります。ですが、俺の意思でもあります」
「意思か。どの程度のものかは不明ではあるけれども」
「この命を捧げる程度には」
周囲が少しざわついた、気がした。
それはそうなるだろうなぁ、と事前に聞かされていた静は納得する。もちろんであるが、今も許してはいないし後で殴るとは決めている。
だがジェラルドは何も驚くこともなく、平然と続けた。
「そうか。しかし死ねばそれ以降守れないよ?」
「そう簡単に不覚をとるとお思いですか、俺が」
「思えないけど万が一の話だよ」
「静様の命が無ければ死ねないので、それは難しい話かと」
「……ルイス、あとではなし」
「承知しましたから、さっさと寝てください」
「くそがきぃ」
さすがにそこまでは聞いていなかった静が文句を言おうとするが、ルイスは静の目元を手で覆い、本格的に寝かせに来た。
何度も瞼を瞬かせ、必死に開けようとしていたのだ。さすがに気づかれていたらしい。
ルイスの手から伝わる温かな温度が、ずいぶんと心地よい。体中の痛みもそれに溶けてしまうくらいだ。それでも耐えようとしたが抵抗空しく、静はあっという間に意識を手放した。
腕の中にいた静が、すぐに深い呼吸をし始めたのを確認したルイスは深く息を吐きだしながら、その手をどかした。
青を通り越して、真っ白になった顔色。それに対比するように、静の口元は吐血により赤く汚れており、ルイスはその口元を袖口でぬぐい取った。
「クソガキか」
「……聞きたいことは以上ですか」
「いや、まだ残っているとも」
静が眠る直前に言った言葉を愉快そうに繰り返すジェラルドに、ルイスは睨みつけるように見上げる。
ジェラルトは困ったように眉をひそめながらも遠慮なしに続けた。
「もし、仮にだ。聖女様を狙うのが、味方だと思っていた者からだったら」
「静様の敵とあれば、全て排除します」
「神殿でも?」
「はい」
「王族でも?」
「当然です」
「陛下だろうとも?」
ルイスは、即答することが出来なかった。
表情は一切変わらず、ルイスの出方をうかがうジェラルドは今、伯父としての顔を見せていたいない。そこにいるのはエヴァンハイン家当主として、ルイスの目の前に立っていた。
「……何を、ご存じですか」
「少しね。けど、今回ので確信できた。とは言え、証拠その他諸々はまだつかめていない状態だから、確証ではないのが歯がゆいところではあるのだけど。それで、どうするんだい?」
「答えは変わりません」
しかしそれがどうしたと言うのか。
この命の全て、静に捧げる覚悟はとうに決まっている。加えて静に対して、後追いして死にますと宣言までしているのだ。もちろん脅しではない。その時になったら、最低限の憂いを払ってから凍土へと眠る心づもりでいる。だがしかし、もし、生きてくださるのならばなんだって良いとさえ思っている。離れてしまうのはやはり気に入らないが、それでもその事実さえあれば、どうとでもなる、とルイスは今、そう思い込むことにしていた。
だからこそ、静の為。よりも自分自身の為に、全ての敵を排除しようと決めていた。
ルイスの淀みない返答に満足したのかジェラルドはまだ伯父としての顔を見せ、くつり、と笑みを深めた。
「おそらく、陛下は銀の聖女に対し、何らかのお触れを出すだろうね。ここでも起きていると言うことは、城内でも起きているはずだ」
予想はしていた。でなければ、静がこのような状態になるとは思えなかった。
特に今日は夜会。多くの貴族達が集まっている中、同じような事態が目の前で起きればそれこそ、ユフィアータにとっての最悪な一撃になるのは明白だった。
「しばらく身を隠しなさい、ルイス。一先ずはここの屋敷になるが、その後すぐに我が領土にまで行けばそう簡単には見つからないだろうから」
「伯父上、何故そこまで」
「何故? 僕のかわいい甥が困ったことになっているんだから身内としては助けないっていう選択は最初からないよ? ああ、だからそんな嫌そうな顔しないでおくれ」
この身内に甘すぎるところさえなければ、ルイスもまたそれほど嫌うつもりはなかった。
反射的に顔を歪めるルイスに、ジェラルドは慌てて言い直す。
「我らがエヴァンハインは守護する者。それを守ると決めたならば、命を懸けて当然のこと。例え相手が国であろうとも、我らは容赦はしない。そうだろう、ルイス」
「はい」
「我がエヴァンハインが守るものは何か」
「我らが神、アルカポルスです」
「であれば愛娘を守るのは当然のこと。ましてやその聖女とあれば、我々が動かずにいるとは、まずもってあり得ない」
幼い頃から言ってきかされてきた。
我が一族は、王の為にあるのではない。我らが神、アルカポルスの為にあるのだと。故に、この地へと追いやられたのだと。
「それと、やはり王族の下で動くだなんていい加減に反吐が出るからね。これで堂々とやり合えるというものだよ」
だからこそエヴァンハイン家はとくに、王族に対して遠慮というものを持たない。そして必要であれば剣を向けることさえ厭わない。
全ては我らが神、アルカポルスの為であるならば。
「大神官様。私の一存ではございますが、よろしいでしょうか」
「ああ、構わない。にしても相変わらずの王族嫌いだな」
「当然でございましょう? 我らは元からそういう一族でございますれば」
「恐ろしいな」
狂信染みた一族と言われればそれまでだが、長きにわたって淘汰されることもなく今日まで続いている一族はそう見ないだろう。
何せ、一切それを表に出さない程度に欠片もにおわせず、隠しきっているのだから。
その一片を知るヴィンセントは口元をわずかにひきつらせているが、ジェラルドは素知らぬふりをしてルイスに向きなおした。
「さて、時間が無い。ルイス、こちらにある僕の屋敷に先に向かってくれるかな?」
「分かりました。この四人と、それと静様の侍女殿もよろしいですか」
「わ、私もですか?!」
驚きを隠せずにいるリーリアに、ルイスは何故そのように驚くのか理解できずに怪訝な顔を浮かべた。
「静様からネーヴェ様を任されたでしょう。それに誰が静様のお世話をするのですか」
「確かに、そうですね」
リーリアの腕の中にいるのはその白銀。静から直接頼まれたリーリアは、ルイスに言われようやく理解したように強く頷いた。
「うん、大丈夫。問題ないよ。ヴィートがあちらで留守番をしているから、良いように手配してくれるだろう。それに協力者殿が……到着しているかは分からないけれども、いるから必要に応じて頼ると良い」
「……父上がいるのは予想していましたが。協力者ですか?」
「会えば分かるよ。さて……」
やることが決まれば後は行動するのみ。ルイスは静の手を絶対に離さないと言わんばかりの聖女達三人に、視線を向ける。
もう行かねばならないがしかし、三人が手を離したがらない理由もルイスはしっかりと理解をしていた。だからこそなんと言うべきか迷ってしまった。
しかし、急いで行かなければ。
一先ず、一番話が分かるであろう奈緒に手を離すよう言葉をかけようとしたとき、頭を持ち上げた白蛇が視界に入り込んできた。
『ルイス』
「……はい。ヨル様」
ジェラルドが目の前にいると言うのに、ヨルがそっとルイスを呼び止めた。
白い蛇が言葉を発したことにジェラルドがわずかに目を見開くが、何も言わずにいるのが見えた為、ルイスはとくに何も言わずにヨルに返答をする。
ヨルはさらに頭をぐっと持ち上げ、ルイスと視線を合わせる。
『ユフィアータの眷属達に会うのです。あの子は、眷属達に自身の力を私達に比べて多く渡していましたから。だから、見つけ、静にその力の一部を分けてもらうのです』
「承知しました。しかし、眷属の方々はどちらに」
国中を探すにしても、当てもなく、しかも見つけるにしても見ることも聞くこともかなわなければ、ただ放浪しているのと変わらない。
ヨルはちろり、と舌を出した。
『ええ、ですから見つけやすいようにいたします。伊織、彼の手に触れてくれる? ラウディ』
『分かっているわよ。真咲、ちょっとルイスの手に触れといて』
何事か、と伊織と真咲は互いの顔を見合わせつつも、ルイスが差し出した手を二人が重ねた。
『私からは姿を映す目を』
『あたしからは導きの目を』
『それさえあれば、きっと彼らは応えてくれます。あの子の眷属達は、同様に人間を愛していますから』
『そういう事。にしても久しぶり過ぎてちょっと加減が難しいわね。痛いかもしれないけど耐えて』
「え、ヨル。痛いの駄目だよっ?」
「ディーヴァ、ちょっと頑張んなさいよ」
伊織と真咲が言うのと同時、バチッ、とまるで小さな雷でも流れたような音が大きく響いた。
驚きでつい二人が手を離すと同士、ルイスが自身の右目を強く抑え、耐えるように身体を丸める。それでも静の身体を支える手だけは維持でも保ったままだが、手が僅かに震えていた。
『あ、えっと、本当にごめんなさいっ、痛くないようにしたのだけど……』
『一つだけだったら痛みはそこまでなかったかもだけど、二つ同時だもの。こればっかりは難しいわね。けど、良く叫ばなかったわね。偉いわよ、ルイス』
慌てて白蛇が長い身体を伸ばしてルイスに巻き付き、空色の鳥がルイスの肩の止まり、頭でも撫でるように翼を器用に羽ばたかせている。
「……おやめ、ください」
『あら、元気そうね。良かったわ。って追い払わないでくれる?!』
『ご、ごめんなさいっ』
しかしすぐにルイスは顔を伏せたままだが、器用に肩からディーヴァをどかせて巻き付くヨルを外して伊織に返す。
二匹は慌てて戻る様子を横に、奈緒の足元にいた黒猫がゆるりと尾を揺らした。
『あらぁ……そうねぇ。えーっと、リーリア』
「はい!」
『貴方、魔術使えないわよねぇ?』
リーリアの肩が大きく跳ねたのと同時、ディックがリーリアの前に出た。
「それ、何か関係があるんです? メル様」
『リーリアの私の力をちょっと授けてあげようと思っただけよぉ。私だけ何もしないのって寂しいでしょう?』
「……そんな理由で? けど」
『ふふっ、良いでしょう? それに私達の力は魔術とは違うものだもの。だから元から使えない子の方がきっとうまく使ってくれると思ったのよねぇ』
言い方は少々考え物だが、その理由にディックが困惑しながらも納得したのかリーリアの前から退く前に、振り返り見た。
「どうすんだよ」
「……当然、授けてくださるのなら喜んで、受け取らせていただきます」
リーリアは腕の中にある白銀を見下ろし、ぐっと瞳に強い光を宿した。迷いは一切そこに無かった。
『ふふっ、ありがとうねぇ。ほら、奈緒、早く』
「分かったわ。けどその言い方、どうにかした方が良いわね」
『あらあらぁ』
奈緒が足早にリーリアの前に移動し、先ほど二人がルイスに行ったように、リーリアの手に触れた。
『大丈夫、痛みは……なるべくないようにするわ』
「メルっ?!」
慌てて手を離そうとしたが、リーリアがしっかりと手を握っていたのもあり、その手は離れることがなかった。
そして先ほどとは違い、ぼう、と繋がれた二人の手の周囲を囲うように白い光が収束し、一気に散じた。先ほどのあまりにも痛そうな光と音が無かったが、すぐにリーリアの身体が大きく揺らいだ。
ディックがすぐに肩を掴み支え、零れ落ちそうになった白銀をもう片方の手で支え持つ。
「リ、リーリア?」
「くらくら、しますぅ」
『あらぁ、酔っちゃった? けど痛くないだけ大丈夫よねぇ』
「メルっ」
そういう問題じゃない、と言わんばかりに黒猫の首根っこを掴んだ奈緒に、黒猫がにぁあん、とわざとらしく鳴いた。
彼女達はそれぞれ呆れたように、困ったようにそれぞれの愛娘達に小言を漏らしているが、彼女達は誰も力を与えたことには何も気にしてはいない。それがどうしたと言うように。
しかし周囲はそうは見ない、見れなかった。
それがどれほどに信じられないものであるか、彼女達は知りえないのだ。
古来より、神の愛娘達は人の近くにいた。そして祈り、願いによっては人にその力をわずかに与えてくださった、と神話に残されている。そう、残される程度に、愛娘達は幾年もの間、人に力自体を与えることをぱったりと止めてしまったのだ。
そして今、聖女を通してであるが愛娘達は今、この国の人間にまた力を与えてくださった。与えられた方は痛みやらの症状が出ているがしかし、強大な力の一滴を与えられたのだ。それぐらいは二人も分かっていたことだろう。
我らが神よ、我らが愛娘よ。
誰かが、そう呟いた。
祈るように、感謝を述べるように。全ての人間ではなく、特定の人間のみだけであろうと、また信じてくださった片鱗を目にした瞬間だったのだ。
「ぅ……」
「静さ、ま……?」
苦し気な呼吸音と共に、小さく身じろぎながら静がゆるり、と瞼を開けた。
さすがに周囲の騒がしさに眠りから覚めてしまったのだろう。まだ眠ってくれ、とルイスがまだずきりと痛む右目に耐えながらそう言おうとしたが、言葉を詰まらせた。伊織達もまた、それを見て愕然とする。
焦点が合っていないぼんやりとした瞳に光は無かった。いつものあの強く、柔らかな光も、月の光のような銀の色も。今は黒く陰り、それこそ、静が元来もっていた色に戻っていたのだ。
「目の色、戻って……?」
「そんな、けど」
動揺か真咲や、急いで駆け寄った奈緒が声を漏らす中、ふるり、とぼんやりとした漆黒がぐるりと周囲を見やる。何度目か、吐血交じりに咳をこぼしながら片手を上げたかと思うと、静の身体を支えるルイスの腕に触れた。そしてそこから伝うように手が移動し、ルイスの顔に触れ、そして静はああ、と吐息交じりに声を漏らした。
「こまったなぁ……あんまり、みえないや」
そして、痛い、ああ、痛いなぁ、なんて静は呟いた。
軽く、あまりに簡単に言う言葉に、誰もが理解をするのに時間が必要だった。理解をすることを拒否しようとしていた。
だって、それは、まるで、本当に、死の気配がすぐ近くにあるような――。
「あ、きれいな緑」
「……色は、判別出来るのですね。静様、お聞きください」
「? ……いろ、かわった?」
「黙らせますよ、静様」
ルイスの言葉は何とも強い。しかし声が震えているのを必死に抑えようとしているようにも聞こえた。
添えられた手をそのままに、ルイスは続けた。
「しばらく身を隠します」
「……そっかぁ」
「詳しいことは後ほどご説明させていただきます。一先ずは、ここから移動します。リーリア殿もディック達も一緒です」
きょろり、と静は何かを探すように頭を動かした。それを見て、ディックに身体を支えられていたリーリアが飛び出し、静に駆け寄った。
ルイスは自身に添えられている手を握りながら下ろさせ、リーリアに手渡す。リーリアは無言で、しかしここにいると言うようにしっかりと小さな手を両手で包み込んだ。
静の反応はずいぶんと遅く、にぶくなっているのか、分からないようにぼんやりと空虚を見ていた。けどもその手が誰か理解したのか、嬉しそうにほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「……奈緒、真咲、伊織。ごめんねぇ」
「可愛い服の着せ替えで勘弁してあげるわ」
「とっておきの選んでおくから!」
「任せてね!」
「あれぇ……?」
奈緒、真咲、伊織のこの場にはずいぶんと似つかない返答に、静は困ったような声を上げた。そして咳き込みながらも笑う静に、奈緒がぐっと唇をかみしめ、耐えるように囁くように、そして祈るように言った。
「待ってるから」
「……しかたが、ないなぁ」
眠たいのか、静の瞬きが多くなる。うつらうつら、と空虚を見つめる光が消えた瞳はゆっくりと瞼の下に隠された。
「……ルイス」
最大限、限界まで急かすのを待っていたであろうジェラルドが、ルイスの背中を押す。
静の手を掴んで離そうとしなかった聖女達、そしてリーリアが手を離す。それを待って、ルイスはくたりと力なく眠る静を抱えながら立ち上がり、ジェラルドに無言で僅かに頭を下げ、迷わずに開け放たれている窓へと足を進めた。
ディック達もまたルイスに倣うように不慣れさが滲みでているがきっちりと頭を下げ、順番に窓へと向かう。ディックだけは座り込んでいるリーリアを片腕で器用に肩に担ぎ上げた。
「きゃっ」
「おら、さっさと行くぞ」
「え、あの、そちらは窓、では……?」
「ああ? 窓から出るから決まってるからだろ。だから叫ぶなよ」
「叫ぶなって……!? せめて別の抱え方を!」
「両手が塞がれるから無理」
ルイスが先に窓から外に危なげなく飛び出す。ヘクター、ノーマン、フィルも順次後を追い、そしてディックが外へと出る時、リーリアが必死に腕の中にいる銀の子狼を抱え直し、小さな悲鳴と共に宵闇の中消えていった。
侍女達三人が、慌てて窓へと駆け寄るが一切の影すら見えず、まるで最初から何もなかったかのような静寂が満ちていた。
だが、遠くの方で金属同士がこすれる音が響いて聞こえてくるのが耳に入った。
「王城から騎士が押し寄せてきそうですね」
「ああ、そのようだな。エドヴィン、迎えてやれ」
「はっ」
短い返事と共に、エドヴィンは足早に部屋を後にする。
ヴィンセントは乱雑に置かれた椅子に近寄り、どかりと腰を下ろした。
「……騎士が来るということは、お前の言葉の通り、あちらでも同様のことが起きたということだろうな」
「ランスロット殿下がご心配で?」
「変に手を出す癖があるのもそうだが、この国の王太子殿下だ。多少なりとも御身について心配するのも仕方がないと思わんか?」
「相変わらず素直ではない」
ジェラルドがわざとらしく大きく息を吐きだした後、小さな動物達にルイスとよく似た深緑を向けた。
「確認ではありますが、あちらの動物達は」
「愛娘達だ」
「……なるほど。では、我らが神は、今どうなさっているのかはご存じでしょうか」
「我らが神、アルカポルスはすでに眠られている」
空気がざわり、と揺れた。
真咲が小さく喉奥で悲鳴を漏らし、奈緒は震えそうになりながら抱き寄せた。そして伊織は黄金の瞳で、その、確かな揺らぐ炎のようなものを目にした。
「……さて、どうやって陛下に問い詰めるべきか」
「魔力を抑えろ、侍女達もそうだが、聖女達が怯えている」
「これは失礼を」
「にしても、堂々と陛下に敵対しようとしているとはな。俺は構わんが」
「ええ、この場だからこそ許される発言なのは承知しておりますとも」
あれは明確な怒りだ。それも、少しどころではない、どろりとした怒りだった。
「あれらは我らの翼を奪ったのです。それなりの対価を支払ってもらわなければ」
守護伯は静かに、そして苛烈に微笑みを浮かべていた。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
夢を見ている、とすぐに分かった。白銀の世界だというのに、冷たさもなく、素足で立っているからだ。
そしてこの夢の中で、ようやく以前見た夢だと思い出した。
夢だ。たかが夢。だというのに、全身から感じる焦燥感が現実だと訴えてくる。
以前に見た祭壇は長い時が経ったかのように朽ちはじめているのかヒビが走り、欠け始めている。上に置いてあった黄金の天秤は片方の器が落ちてしまったがゆえに、もう片方にずっと傾いたまま。足元に咲いていた紫の花弁を持つ花々は、すっかり枯れて黒く染まり、天上は厚く昏い雲に覆われて何もかもが見えない。
それでもまだ、まだ、平気だと思えたのは周囲に吹き荒れる暴風雪のおかげだった。
不吉ともとれるような天候の荒れようではあったが、雪は彼女を表すものだから何一つ怖いことはなかった。
足元に広がっていた黒が、白銀で覆い隠される。
荒れ狂う風のおかげで、呼びかける声は聞こえない。
静は祭壇の目の前にゆっくりと座り、身体を倒す。
ああ、守られている。まだ、ここにいる。
「ネーヴェ……」
ユフィアータは眠ってしまった。けれども、ネーヴェはまだ、ここにいる。
静は確かに感じる気配に安堵し、小さく体を丸め、瞼をゆっくりと下ろした。
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