22
そうして迎えた夜会当日。
初めて王城の敷地に足を踏み入れた伊織は第一声、気だるげに呟いた。
「帰りたい」
「同感です」
伊織のパートナー役であるクラウスが間髪入れずに頷いた。
そろって死んだような目をしている理由があるとすれば、伊織はまずこの貴族という相手に対し、そこそこ見たくないものが多いと言うことだ。大神殿へ祈る為にやってくる信徒達の中には貴族もいるが、中には一体何をしてそうなった、と思わず三度も見てしまったようなものを纏っている貴族が平民に比べて多いのだ。
駄々に駄々をこねたがヴィンセントは冷徹にも全て却下した。が、代わりに最低限をこなせば即、大神殿に戻って良しと言われたのでそれまでは我慢である。
そしてクラウスであるが、自身の家というよりかは血縁者。具体的に言えば自身の父が大神官付きの護衛騎士であるわけだ。そして自身も貴族であるから、それはそれはつながりを得ようと人が群がる群がる。特に御令嬢については、語ることさえ拒否してしまうようなことが幾度も経験してきたわけで。クラウスはその事情を伊織に伝えたら、伊織は即座にやることやってさっさと戻ろうと、硬く誓ってくれた。ので、今日の二人は戦友のそれに近かった。
「とりあえず目の保養。そうね、綺麗なドレスを見て、堪能して。それで戻れば良いだけね」
「ドレスですか。近頃、また流行が変わったらしいですよ?」
「そうなの? 今度オリヴィアに教えてもらわなきゃ」
その後ろにいる奈緒とギルバートは比較的に落ち着いている、というかこれからのことをわざと考えないようにしているだけに過ぎない。変に考えれば落ち着きようもないし、さらにもっと悪い考えなりが次々と浮かんできてしまうからだ。だから考えることは別の事。とにかく楽しい話題に尽きる。
「あんた、本当に苦手なのね」
「平民には縁遠い世界だからな」
「あっそ。あたし初めてだからよろしく」
「……うっす」
そして最後の組みであるカルロスは片手で顔を抑えつつ、何とか返事をした。
あれからアイヴィのスパルタ指導のおかげで何とかダンスを身に着けたカルロスであるが、根っからの平民気質ということもあり、このような場自体にも苦手意識が強いということが発覚した。どうして発覚したかと言えば、夜会でのマナーやらを答えられなかったのだ。すぐさまアイヴィ、およびギルバードがマナーや礼節等々を叩きこまれていたのを横で見ていた真咲は、さすがに今日は大人しく、そしてなるべく後ろの方で目立たないようにしようと決意した。
「お前らなぁ……嫌なのは俺も分かるが」
「さっきからお腹痛そうだね」
「伊織、お前だけ残そうか?」
「ごめんなさいっ」
先頭に立つヴィンセントは、エドヴィンからの心配げな視線を無視しつつ、歩きながらわずかに視線を後ろに向けた。
「良いか。やることは」
「国王陛下に挨拶!」
「一曲だけダンスをすること」
「後は壁の花、だったわね?」
「そうだ」
伊織、奈緒、真咲が順番に答え、ヴィンセントは満足げに頷き、足を止めた。
「エドヴィン達はここで待機。やることやったら即座に戻ってくる」
「はい、かしこまりました」
途中まで付き添ってくれていた侍女達も、ここまでだ。それぞれ腕や肩には黒猫に、空色の鳥、白蛇と多種多様な動物達もそろっている。
伊織は小さく手を振り、奈緒はこんな状態でものんびりと尾を揺らして目を閉じている黒猫に呆れ、器用に片方の翼を広げている空色の鳥に真咲は手を振り返した。
「行くぞ」
「はーい」
「ええ」
「はいはーい」
奈緒以外の二人の何ともやる気ない返事と共に、人々のざわめきが聞こえる方へと向かうことにした。
王城に仕えている者だろうか。その者がよく通る声で、ヴィンセント達が訪れたことを告げられる。
わざわざ言わなくたって良いのに、と伊織はほんの少しだけ眉をひそめながらクラウスに手を引かれるがままに光に満ちる広間に足を踏み入れた。
そして伊織は、奈緒も真咲もまた、目の前に広がる荘厳な美しさに目を奪われた。
天井に並ぶいくつものシャンデリアは水晶だろうか。それが魔術で作られた光によって煌めき、十二分で広間を明るく照らしていた。天井から壁まで全て絵が描かれて、その細かさは気が遠くなりそうなほど。
そしてその下にいるのは、色鮮やかなドレスに身を包む貴族の女性達。扇を片手におしとやかに微笑みを浮かべながら、その目はずいぶんと冷たく、好奇心に満ち、ああなるほど歓迎されていないのだというのが一目で分かるほどだった。
そして質のよさそうな衣服に身を包む男性達は伊織達の姿を見て、何か品定めをするかのような、ねっとりとした視線を寄越してくる。たまらずに伊織が視線を落としそうになるが、逆に視線を上に向けて天井の絵画にこれでもかと見ることにした。
「……伊織様、転びますよ」
「はーい」
しかしすぐにクラウスから咎められ、伊織は仕方がなく視線を落とすことにした。がすぐ、目の前に奈緒と真咲が集まってきた。
「伊織、あっちに椅子があるわ。まだ時間があるみたいだから、あのあたりに行きましょ」
「ああ、一応食べ物あるのね。食欲はないけど、飲み物ぐらいは後でもらいましょ。果実水とかあるかしら?」
ほんの少しだけ強引に奈緒が伊織を誘い、真咲が周囲を見て伊織が好きな果実水を探す。
伊織には丸わかりだというのに、二人は一切伊織の様子なんて気づいていないふりをしながら壁になってくれていた。
だから伊織がやることは一つ、気づかないふりをすることだ。
「私も果実水飲みたーい。けど、奈緒はお酒とかじゃなくて良いの?」
「こんなところでお酒なんて飲めないわよ。ほら、行きましょ。場所がとられちゃうわ」
席取りゲームか何かかのような言い方に伊織は笑いながらも楽し気に頷いた。
「ね、クラウス。あっちだって」
「分かっています」
クラウス自身も、早く壁の近くに行きたかったのか動きはとても早かった。
奈緒、真咲の後を伊織がついて行こうとする。
と、後ろからその言葉が確かに聞こえた。
「下種共が」
ヴィンセントが吐き出すように言った言葉を、伊織ははっきりと聞こえた。
まるで、何かを呪うような、そんな言葉だった。
国王陛下、並びに王太子殿下がやってくるまで、まだ時間はある。ということで、三人は揃って壁の花になっていた。
多くの貴族達の視線が集まり、周囲がそれぞれの出方をうかがっているのか、今のところは誰も声をかけては来ない。加えてヴィンセントの明らかに機嫌の悪さを隠していないということもあり、誰も怒りに触れたくないと言わんばかりに距離を置いているのだ。
だと言うのに、空気を読まずに近づいてくる何とも偏屈、というよりかはただの好奇心の塊が一人。
「……なんであんたがいるのよ」
「なんでと申されましてもぉ、招待されましたから?」
「奈緒様。あまり考えない方がよろしいかと」
その一人こそ、青藍、開発局所属のユアンである。
会えばいつも妙な匂いをまとい、ぼろと見間違うばかりの煤けたような服を着て、せっかくの美しい銀髪も何が悲しくて薄汚れた色になっているのか。
しかし今はどうだろうか。腰ほどまでに長い銀髪は綺麗に整えられ、青のリボンを使い、綺麗に襟足付近で一つに結ばれている。さらに身にまとう衣装だって、青藍を表しているのか海のように青い生地を使われた、一つの汚れも皺もない衣服であることに、奈緒は驚きを隠せないでいた。
「……やればできるじゃない」
「これでも貴族ですから、さすがに公の場ではきちんと身支度は整えますとも。ええ」
にんまりとほら、どうだと言わんばかりのユアンに、奈緒は面倒だと言わんばかりに視線を横に向け、手元にある果実水が入ったグラスを傾けた。
「そうそう、守護伯が来られるとかお聞きしたのですが」
「何故そのような話を貴方が知っているのでしょうね」
「ふふ、何故でしょうねぇ」
奈緒の興味を引けなかったことにユアンは少し不満げに首をかしげたがすぐに、隣にいるギルバートに標的を変えた。
周囲に聞かれないようにかずいぶんと声を落としての話題は、件の守護伯について。
奈緒はユアンから説明された話しか分かってはいない。確か、この国の一番南、国境付近を領地とする侯爵家。また、その持っている功績から守護伯と呼ばれている、と。
「遅れているそうです。偶然この付近で商談があったらしいので、珍しく出席出来るとのことでしたが」
「なるほどなるほど。僕もまだ、ご当主殿には直接にはお会いしたことがないものだったので、楽しみにしていたのですが……」
ああ、残念だとユアンは肩を竦めた。
しかし、と奈緒は貴族には似つかなそうな単語について、つい気になってしまった。
「商談?」
「ええ。あそこは今や、この王都についで商業が盛んですからねぇ。とくにご当主殿の義弟殿が、そちらを得意としているのですよぉ」
「へぇ、やけに詳しいのね。直接会った事がないのに」
「いろいろと聞こえてくるんですよぉ。それに直接お会い出来ないのは、なかなか領地から出られないうえに遠いという点で、来られないというのが正しいのですがねぇ」
一体どこまでその情報網が広がっているのかは定かではない。何か底知れぬものを感じるが、奈緒はそれ以上は聞かないことにする他なかった。
「ああ、一番南の国境にあるから」
「そうです。だからここ数年以上、王都へは滅多に来られないようでして」
それほどまでなのか、と奈緒がそう返答をしようとした。瞬間、隣にいるギルバートが奈緒の腕を引き、自身の背後へと移動させた。
「伊織っ!」
「貴様っ!」
一体どうしたのか、と問おうとしたが、突如聞こえたヴィンセントとクラウスの二人の鋭い声が響き渡ったかと思えば、続く金属音に、硝子が割れるような音。そして何かが倒れるような、いや、何かが叩きつけられたような音が続けざまに聞こえたのだ。
ギルバートの背後から奈緒は恐る恐る様子を見れば、驚きか、恐怖か、固まる伊織。そしてその伊織を自身の身を盾にしようとしたのか、ヴィンセントが腕の中に抱え込み、その二人の前に細見の剣を片手に持つクラウス。と、一体どこにいたのか、件の漆黒の三人が男を取り押さえていた。
真咲はどうなっているのか、と急いで確認をすれば、カルロスが真咲の肩を抱き寄せながら、腰に佩いている剣をいつでも抜けるように構えている姿があった。真咲も突然の事に硬直し、理解するのにまだ時間を必要としているように見えた。
「……なんとまぁ、こんなところに賊が」
いつもと変わらぬ口調のユアンだが、不愉快と言わんげにどこか刺々しい。
賊。ついに、静以外にも狙われるようになったのか、と奈緒は何故だろうか、この状況だというのにずいぶんと冷静に物事を考えることが出来た。
近くにいた貴族達は徐々に発生したこれを理解し始め、火が燃え広がるがごとくに騒ぎ出す。この広間にいる騎士達が慌てて落ち着かせようとするも、それ以上に騒ぎは燃え広がろうとする。
ああ、このままでは混乱が満ちてしまう。何もできないと分かってしまっている奈緒は、ただこの状況を見守るしかなかった。
そして、厳かな、ずしりと重たいような低い声がこの広間全体に広まった。
「なんと言うことか。大神官殿並びに、聖女様方を狙う賊をここにも入れてしまうとは……!」
たった一人の声だ。しかし周囲に良く響くその声の主を目にした奈緒は、一目でその人物が誰か理解した。
白金の髪。琥珀の瞳。どことなく、ランスロットやヴィンセントが年を取ったらああなるのだろうな、と訪仏させるほどによく似たその人物こそ、この国の王。
アウグスト・マルク・ロトアロフ。その人であった。
それは突然のことであった。
椅子に座り、周囲をあまり見ないようにとわずかに顔を伏せた伊織の顔色はやはり、ヴィンセントが予想していた通り良いものではなかった。
ああ、こうなるならばどうにかして夜会以外の何かに代替えを提案しておけば良かった。聞き入れてもらえるかはともかくも。内心そう後悔を抱いていたヴィンセントは、伊織に近づく一人の男に気づくのに遅れた。
男は銀の盆に飲み物を運んでいた。伊織の空のグラスに気づいたのだろう、とそのままに流そうとしたのはクラウスも同様だった。
難なく伊織の側に立った男は、柔和な笑みを浮かべ、そして無駄な動作一切なく、小ぶりの白銀を翻した。
そして先ほどの通りだ。ヴィンセントとクラウスがほぼ同時に気づき、ヴィンセントは自身の盾にするように伊織の身体を強く引き寄せ、そしてクラウスは腰に佩いていた剣を抜き、白銀のナイフをはじいた。そして身を隠していた漆黒達が一斉に取り押さえたのだった。
「……伊織、平気か」
「え、あ、うん」
ゆっくりと身体を離しながら、なるべく伊織の視界を覆い隠すように問う。伊織は黄金の瞳をずっと丸くしたまま、けれどもゆっくりと頷いた。
「そうか。少し待っていろ」
「うん」
素直すぎる伊織の返事に、ヴィンセントは無意識に口元が緩みそうになるのを耐える。そして伊織の姿を隠すように、目の前にいる男、この国の王。そして自身の実父、アウグストへと振り向いた。
「なんと言うことか、か。それはこちらが問いたいところではあるなぁ、国王陛下」
「……ああ、確かにそうだろう。完全にこちらの落ち度ではあるな」
「はんっ、落ち度か。気まぐれにずいぶんと早く戻ったかと思えば、こうして夜会をこちらの了解も得ずに開くことを聞かされたんだ。それなりに対応してもらわねな困るというものだ」
アウグストの側に控えているランスロットがぐっと口元を強く結んだ。
全くもってランスロットを責めているわけではないが、あの愚兄、全ては自分の責だと思っているのだ。全く持って不要な行為である。ヴィンセントは隠さずに舌打ちをこぼした。
「大神官殿、それについては申し開きも出来ぬ。ああ、完全に私の判断によって起きた事だ。後日、そちらの祈りの間にて懺悔をしたいのだが」
「勝手に懺悔をするが良い。こちらにもあるのだから、そこに向かってやれ。こちらに来るな」
「……相も変わらず、大神官殿は私に手厳しいな」
何が手厳しい、だ。
大神官たるヴィンセント、国王であるアウグストは互いに対等である。だが実際、蓋を開けて見れば、そういうわけではないのだ。互いの利権なりを調整し合い、見えぬところで奪い合い、何代目前あたりか思い出したくもないが、神殿の力というのは実を言えば弱くなってきているというは紛れも無い事実であった。
だから、この夜会を断るなんてことは出来やしなかった。
ヴィンセントの代になり、ようやくいくつかは取り戻せたがそれでも全盛期に比べればまだ弱い。
自身はただの吠え散らかしている犬にすぎない。そしてこの目の前の男は、ヴィンセントをいかに懐柔しようかと思案しているだけなのだ。
全く持って腹立たしい。
「ランスロット」
「はっ……」
アウグストが軽く手を上げる。ランスロットが自身の配下としている騎士達を指示し、漆黒達が抑え込んでいた男を代わりにその騎士達が抑え込み、捕らえる。
ここで起きた事だ、王城側が尋問する流れになるのは当然の事。であるが、その結果の報告を正しくヴィンセントにまで伝わるかと言えば疑問であるが、そのあたりはランスロットが秘密裏に動くであろう。
「我々は大神殿へと戻らせてもらう。このような公の場において狙われてしまった以上、享楽に身を投じることは出来ぬからな」
「享楽とは。ささやかながらに楽しんでいただければと思っていたが……。ああ、清貧を是とするのだから、そのように見えても致し方が無いか」
「その目は節穴か何かか? それとも感性の違いか? ああ、それならばこれ以上の会話は無意味になるな。何はともあれ、我々はもう戻らせていただくがよろしいな」
何かを思案しているのか、アウグストは答えずに琥珀を細めるだけだ。
ここで返答なく戻れば、それこそこちらの分が悪くなる。さて、どう出るべきか。
ヴィンセントが思案し始める時、群衆の中から迷いなくこちらに向かってくる何とも久しい顔を見つけた。
「……これは一体、どういうことでしょうか」
カツン、と一つ床を叩く音が響いた。
ざっ、と周囲がその声の主に視線を向けた。
一人の男であった。他の貴族達とは半面、装飾等が少ない落ち着いた紺色の衣装をまとっていた。年はおそらく中年あたりだろうか、目元のうすらとある皺がより深く刻まれ、深緑の瞳が周囲を見やる。後ろに撫でつけた黒髪のおかげもあってか、どこか威圧も感じてしまう。
この場にいる半分以上は、その者を見て訝し気に見やるが、残りの者達は驚愕し、心なしか数歩後ろに下がってしまった。
アウグストがゆらり、と男の姿を認めると、王自らが男の元に歩み寄った。
「おお、久しいな。いつ以来振りか」
「はい、陛下。大変遅くに参じたこと、申し訳なく……。それでこれは」
「ああ、これは」
アウグストが男に説明をしようとした、時だった。
広間にエドヴィンが息を切らしながら勢いよく飛び込んできたのだ。
「火急の知らせでございます、ヴィンセント様!」
「今度は何だ!」
「大神殿に、賊が侵入してきたと!」
ヴィンセントの動きは早かった。即座に伊織を見やり、掌を返すような仕草をする。伊織は大きく頷いて、奈緒と真咲の手を掴んだ。
「行こっ!」
「え、だ、大丈夫なの?!」
「いや、行くけど、行くんだけども!」
「ヴィンセントが戻るって言ってるからたぶん平気。それにほら、クラウス達もいるし」
ね、と伊織が小首をかしげて笑って見せれば、二人は顔を見合わせて一つ頷きあった。
「それもそうね。ギルバート、戻るわよ」
「確かに。むしろ予定より早く戻れるってことだし、助かったわ。ほら、カルロス。行くわよ」
聖女達の判断は早かった。加えて自分達についている騎士達の実力に一切疑う事もなく信頼を寄せているからこその判断力に、ギルバートは小さく肩をすくめ、カルロスは笑みを深めた。クラウスは呆れた様子を見せつつも、伊織を止めるような様子はない。
いつの間にか姿を消していた漆黒達は先回りをしているのだろうが、エドヴィンのあの様子を見る限り、とにかくもすぐに戻らなくてはならない状況であるのは間違いなかった。
「待たれよ、大神殿殿。聖女様方。一体どこへ行こうと」
そしてやはり黙って見過ごされるはずはなく、アウズストがわずかに声を張り上げた。
「戻るに決まっているが?」
「しかし、敵は」
「そんなもの知っている」
ヴィンセントが足を止めると同時、アウグストに振り返り睨みつけるように、琥珀を細めた。
「ああ、敵の狙いは残された聖女だろう。そこで俺が赴けば、まさに敵の思うつぼだ。なれど、あそこは我らが神のための場所。この大神官たる俺が、黙って我らが神がおわす場所を守らんで何を守るというのだ!」
身を挺し、我が神を守ってこそ。それこそが全てを言わんばかりの言葉に、アウグストがわずかに口元を歪める。
それを黙って聞いていた男が柔和な笑みを浮かべながらアウグストに言葉を向けた。
「陛下。私も参りましょう」
「……しかし」
「守護伯と呼ばれている私がお側に付いているのです。もちろん、お怪我なんてものはさせませんとも。それとも、陛下は私を信用できない、と?」
笑み、ではあった。しかしその深緑は一切笑っておらず、感情さえ読み取れないほどに鋭くアウグストを見据えていた。
アウグストはしばらくの沈黙の後、軽く額を抑えながら深く息を吐きだした。
「我が騎士を貸す」
「おや、陛下の、ですか? ランスロット殿下の騎士でもよろしいのですが」
「お前こそ、私に信用をしていないと?」
ランスロットがすかさずに何かを言おうと動きを見せる。が、男は手を挙げそれを制した。
「それでは、有難くお借りいたします」
恭しく礼の姿勢を取った男に、アウグストはすでに興味を失ったのかゆったりとその場から離れていった。
それを見届けた後、男はヴィンセント達へと顔を向けた。
「聖女様方も、参られるおつもりでしょうか……?」
「ああ、当然だが?」
何をとぼけたことを言っているんだ、お前は。と、言葉の裏の言葉が聞こえてきそうなヴィンセントの言葉を受け、男はゆるりと深緑の瞳を細めた。
「かしこまりました。それでは参りましょう」
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
「きゃあ!」
「っと、おい! 暴れんなって!」
ディックの肩に担がれているリーリアが小さく叫び、慌てて落ちないようにとディックの服を強く掴んだ。
掴まれたディックが不満な声をあげるが、その動きは淀みなくなめらかに大神殿の長い廊下を駆け抜ける。
一番前にはヘクターが先駆けとして先導し、その後ろを静を抱えたルイスがノーマン、フィルに指示を出しながら駆ける。
指示を出された二人は小さく頷き、後方へと振り向き、一気に飛び出した。
「ルイス、数は」
「十を超えたあたりで数えていません」
「嫌になるな」
大神殿にいる騎士達が突如侵入してきた賊達に応戦しているが、どうもただの賊ではないらしく、素早い動きで騎士達を乗り越えてルイス達を追ってきていた。
「ネーヴェ。平気?」
『ああ、もちろんだとも。リーリアが少し危ないが』
「この者が手荒なんです!」
「仕方がねぇだろ」
ぎゃあぎゃあと言いあうというか、リーリアが一方的にディックに向かって何かしらを言っているが、それぐらい言うことが出来るほどの元気があるなら問題ない。
確かにバランスを崩せばディックの腕から落ちそうではあるが、見るからに軽々と担がれているのできっと危なくはない、と静は判断した。
「それにしても……狙いがわたし一人にしては、だいぶ多いね」
「それほどのことなのでしょう。ディック」
「はいはいっと。リーリア、ちょいと耐えろよ」
ルイスが冷静に、少しばかり呆れ気味に答えながら、ディックの名を呼ぶ。ディックは分かっているようにやる気のない返事をしながらも、しっかりとリーリアの腰を掴みながら身体をいきなり反転させる。
リーリアがまた叫ぶが、ディックはそんなものに一切気にも留めずに魔術により空気を固めた透明の十以上のナイフを一気に放った。
途端、暗闇に身を潜めていたのであろう二つの人影が姿をあらわし、挟み込むようにディックに迫る。
だがディックは無駄なく、最小限の動きで懐に入りこみ片手で一人を廊下に大きな音と共に叩きつけ、もう一人を足技で蹴り上げ、もう一回というように蹴り落とした。
「あ? こいつら弱くね?」
そして本人はこの言葉である。
しっかりと聞こえたルイスと静はそろって顔をしかめた。
「……もしかしなくても、ディックだけいればなんとかいける?」
「腹立たしいですが、おそらくは」
「わぁ、腹立つー」
「すみませんね、俺が強いばっかりに。おーい、リーリア、生きてっか?」
返事をする余裕すらないのか、担がれているリーリアは何かを訴えるように力なくディックに何とも軽い拳を背中にいれようとしていた。
それが面白いのか、ディックは体を揺らして愉快だと言わんばかりにくつくつと笑い始めながら、倒れ伏したそれらをルイスから教わったらしい魔力の縄で縛り付けていく。
「……ねぇ、あれって強くなってる?」
「不本意ですが」
教えた側のルイスのその視線の鋭さときたら、完全に敵に向けるようなものにさえ見えなくもない。
ディックはそれに気づき、肩を竦める仕草だけをするものだから余計に腹立たしくなるのも仕方がないだろう。
「おーい、ついでにこいつらも頼むわ!」
「ああ? てめぇでやれよ!」
「俺苦手なんだって!」
いつの間にかヘクターも先回りして待ち構えていたであろう敵を難なく倒したらしく、片足を掴んでずりずりと引っ張って持ってきている。
なめらかな大神殿の廊下だから痛み等はないだろうが、ここが外であればなかなかに痛そうではある。
ディックは文句を言いつつも手早く縄で縛り付け、廊下の片隅へと足を使って移動させる。
「おい、ルイス。ノーマンとフィルは」
「後方の様子を見に行かせたのと、情報を吐かせやすそうな奴を数名持ってこさせる」
「ああ、それならあいつらの得意分野だな。少しここで待つかぁ。リーリア……は、しばらく立てねぇな」
今まで経験をしてこなかった状況であり、ディックの先ほどの動きから察するに絶叫マシーンなんかに乗った後の状態に近いのかもしれない。さすがに担いだままというのは気が引けたのか、ディックがリーリアを下ろすも、リーリアは廊下にぺたりと座り込んだまま動かない。
腰でも抜かしてしまったのだろうか、と静は思いながら自分も降ろしてもらおうとルイスの腕を軽く叩いた。
「何ですか」
「ちょっと降ろしてほしいのだけど」
「……分かりました」
無駄な無言の抵抗があったような、無かったような。ルイスは不満だと言えるような、言えない様な、そんなよく分からない顔をしつつも大人しく静に従った。
一体どうしたのか、と静は一瞬だけ疑問に思ったがすぐに消え去り、この状況にすぐに頭を抱える羽目になった。
「どうするかなぁ」
「伝令を飛ばしてから時間も経っているので、そろそろヴィンセント様が戻られるとは思いますが、待たれますか?」
「……いいの、それ。っていうか、危なくない?」
「自衛くらいならヴィンセント様も心得ておりますので」
あの程度の賊なら問題ない、と言わんばかりのそれは信頼かと一瞬思ったが、ルイスはきっと事実を述べているに過ぎない。
信頼も重要だが、事実に基づいた言動は静にとっては何よりも心強いものだった。
そうこうしているうちにノーマン、フィルが戻ってきた。それぞれ片手にはさきほどのヘクターと同じく敵を引きずり運んでくる。少し違うと言えば、ちゃんと縄で縛っていることだろうか。
「なぁ、こいつら、なんかおかしくね?」
「どこがだよ」
「……いや、どこがって言われても、なんか変っていうかさぁ」
集まったことで待っている間に早速簡単な尋問を始めているディック達だが、その中でヘクターが大きく首を傾げた。
何か、気になることでもあったのか。
静が声をかけようとする前、聞こえてきた足音に全員が警戒を滲ませる、もすぐにその警戒は解かれた。
「あ、おかえりぃ」
「おかえりぃ、じゃないわよ! 怪我はない?!」
「ないよぉ。というかよく戻って来たね、大丈夫だった?」
一番に駆け寄ってきた奈緒が静に飛び込んでくる。夜会用に用意されているドレスのスカートのボリュームで少しばかり身体が傾きかけたか、ルイスが後ろから支えてくれた為倒れるなんてことはなかった。
もちろん、腕の中にいるネーヴェがつぶれないように配慮はしているが、ちょっと苦し気にきゅう、と鳴いてしまった。
「ええ、大丈夫……というか、あっちでもその、いろいろとあったというか……」
「いろいろ?」
一体何があったのか。
話を聞こうと思いながらも、わざわざ全員が戻ってきているとは思わずに驚きを隠せずにいる中、深紅を騎士達を引きつれた見知らぬ人物の姿に目を止めた。
その人物は、よどみなく騎士達に指示を出しながらディック達が捕えている賊達へと向かわせながら、一人遠慮なく近づいてくる。
後ろに撫でつけた黒髪、柔和な笑みで細められた深緑の瞳が、何故だろうか、ルイスの姿を彷彿とさせた。
似た色を持っているせいなのかかと、思ったがどうもそれは違っているようだった。
「知らなかったよ、ルイス。まさか聖女様付きになっているとは」
静は奈緒を腕の中から離しつつ、ルイスを見上げ、僅かに目を丸くした。
そこには初めて見るのではないかというくらいに、これ以上なく口角を下げて、不機嫌と言わんばかりに目を細めているルイスがいたのだ。
あからさまに嫌だ、と言わんばかりのそれに静はうっかり驚きを隠せないでいれば、さらに続く言葉に驚愕を覚えた。
「……お久しぶりです、伯父上」
「そんな嫌そうな顔をしないでくれ」
静はもちろんだが周囲の、ルイスの事情を知る漆黒やヴィンセント達以外が、その事実に動揺を隠せずに誰もがその二人を、そしてルイスを見やった。
ルイスは居心地の悪さか僅かに視線を落とし、明らかに静から視線をそらしていた。
「……伯父?」
「……はい」
確か、ルイスはこの国の国民だと静は聞いてる。であるから、身内はもちろんこの国の人間である。だがしかし、だ。
あれどう見ても貴族とか、そういうご身分があるような方ではないか、とルイスとその男を何度も往復して見てしまった。
そんな静に、くすりと小さく笑った男はわざとらしく咳ばらいをしたのち、ゆったりとした動作で静に恭しく礼をした。
「お初にお目にかかります。ジェラルドと申します。そこにいるルイスの伯父になります。また、エヴァンハイン領当主ですが、守護伯とも呼ばれております」
「あ、はい。静と申します」
この状況下でもご丁寧に名乗るジェラルドに、静は慌てて姿勢を正す。奈緒もすぐ横にずれたおかげで難なく挨拶は出来たが、しかしこの状況下ですることではないだろう。
それはあちらも同じだったようで、騎士達が賊を引っ立てている様子をしり目に、ジェラルドはこめかみを軽く指先で叩いた。
「この状況ではゆっくりとは話せないね。さてと、これらをどうするか……、だけど」
例の如くあれらはまた王城へとの牢にでも詰め込まれるのだろう。
うまくすればまた、ディック達みたく、仲間にでも出来るだろうかとは思ったが、ヘクターのあの様子を見る限りでは止めておいた方が無難だろうか。
にしてもだ、せっかくこちらが捕えたのだから、数名残してほしいところだ。だが神殿と王城との関係性云々、静が把握していないそれが関係しているのであれば下手に言えることではない。おそらく後からロビンを使ってランスロットが何かしらを伝えてくれるのだろうから、それを待つ他なさそうだった。
「大神官様、我々は一度、あれらを王城へと引き渡します。その後、お話をしに伺いたいのですが」
「ああ、そうしてくれ」
ヴィンセントがずいぶんと疲れた顔をしながら言った。
ルイスがさらに顔を歪めている程度に、避けたい事態になっているらしい。さてどうしたものか、と静はその様子を少し楽しくなりながら眺めて、そして――突如、それが起きた。
それは、大きな鐘の音であった。この大神殿に鐘なんてあったのか。いや、大神殿と言うくらいだ、何かしら音を奏でる何かしらがあってもおかしくはない。
しかしヴィンセントの様子を見る限り、それは予想だにしていなかった事態であるのは明白だった。
「お前ら、何をしているんだ!」
カルロスの怒声が響いた。
一体、何が起きているのか。カルロスに続き、他の深紅、そして身を隠していた漆黒もまたそれぞれ手に得物を構えながら、見知らぬ深紅を相対していた。
見知らぬ深紅はすでに剣を抜き、何かを言っている。小さな声だったが、すぐにそれらは吠えるように声を上げ、剣を掲げた。
「罰を、罰を!」
「不届き者に罰を!」
まるで壊れた人形のように繰り返し言い放ち、そして、引っ立てていた賊に、容赦なく剣を突き立てた。
「お前らは見るな!」
ヴィンセントが吠える。と同時にカルロスがその大きな体で真咲の視界を塞ぐ。伊織にはアイヴィが手で優しく目元を覆い、すぐ近くにいた奈緒には静がその頭を強く抱き寄せ、視界を塞ぐ。ネーヴェが身体の伸ばして、静の視界を塞ごうとするも届かず、代わりにルイスが塞ごうとしてきた。
しかし、その前に狂った深紅はまた、何かを言い放ちながら、切っ先を自身に向けた姿を静は目にしてしまった。
「お赦しを!」
「お守りください!」
「俺は、罰を! ああ……!」
「ユフィアータ様!」
聞きたくはない名を口にした深紅は、身勝手にもその場で自らに剣を突き立てた。
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まさしく、天啓であった。
我が神からの有り難いお言葉を使いの者が届けてくださった。
渡された一振りのナイフ。赤い宝石が埋め込まれたなんとも美しい逸品だ。
「私が、我ら神に選ばれたのか。ついに」
「はい、旦那様の今までの功績が、我らが神の目に留まったようです」
「おお……!」
男は杖を突きながら、その場に片膝をつき、与えられたナイフを掲げながら祈りを捧げた。
またとない、これ以上ない誉れであった。
鐘の音が聞こえた。
周囲の貴族達が一体何事かとざわめく中、突如として悲鳴があがったのが聞こえた。
誰か、誰かっ!
ああ、何故どうしてっ?!
男は一体何が起きているのかという疑問を何一つ抱くことは無かった。むしろ、ああ、早くしなければ、と次々に沸く悲鳴を聞きながら急いていた。
何一つ、疑問には思わなかった。
それが当然であった。
なんせ、これは天啓であったから。
「ああ、我らが神よ」
祈りの言葉を吐く。そして与えられたナイフで、男は遠慮なく自身の心臓に突き立てた。
その瞬間、男は何かが離れていく感覚と共に、一体どこにあったのか溢れ出る悔恨が男を一気に満たした。
「……ああ……お赦し、を。ユフィ、アータ」
歪む視界。倒れる身体。誰も男に気に掛ける者はおらず、むしろ絶叫と悲鳴とに囲まれる。
男の最後の遺言は、周囲の悲鳴によってかき消され、誰の耳にも入ることはなかった。
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