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静は分かりやすく顔を背けようとしたが、それは許さないと奈緒が静の頬を挟み、無理やり正面に向けさせた。
「しーずー? なかなか戻ってこないって心配していたのに、その態度ってないんじゃなあい?」
「ふぁい」
「しかもいきなり呼び出されてよ? 何があったのよっていうか、肌荒れてない? ちゃんとお手入れしているの?」
「やめてぇ」
そのまま奈緒に頬をもにゅりと触れれ、静は何とかそこから逃れようとするも、いつの間にか両隣には真咲と伊織が寄ってきていた。
「あたしもちょっと気になってたのよ。肌もだけど、髪とか傷んでない?」
「あ、枝毛みっけ」
見つけないで欲しい。
確かに静は今の今まで身なりのあれこれをおろそかにしてきたのは間違いなく事実で、今も最低限の清潔感さえあれば良いと思っているくらいだ。
頭では気にしたほうが良いのは分かってはいるが、正直言えば面倒で放置している。
「お前ら、何のために集まったか分かっているのか?」
静を中心に集まっている四人に向けて、ヴィンセントがようやく声をかけた。
折角の端正な顔立ちが、疲労の色のせいだろうか、その空気感も、相まって何故か若干色気を増していた。目を奪われかけるも、舌打ちが聞こえてきたので静の達はようやく、この紅星の間に用意された椅子にそれぞれ腰を掛けた。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
少し時を遡る。
地下の書庫から戻ってきた時、窓から差し込む光はずいぶんと傾いていたことから、想像していたよりも長くこもっていたのだと静は知った。もちろん、ルイスの宣言通りに抱えられて戻ってきたし、戻った直後すぐに下ろしてもらったのはまた別の話だ。
ルイスにはヴィンセントにあったことを報告しに行ってもらう間、静は正体を明かしたネーヴェとの距離を測りかねているリーリアに向かって、遠慮なくネーヴェを渡そうとしたり、リーリアが恐れ戦いて距離をとったりという、何ともよく分からない攻防を繰り返しつつ自室に戻ろうとしていた。
まだ距離としては半分にも満たないくらい。そのぐらいにルイスがあっという間に戻ってきたかと思えば、取り急ぎ紅星の間へ集まるようにとのことだった。
とにかく急ぎ、ということで否応なく本日三回目となるルイスに横抱きされた静は、そろそろ無心になろうとしたが気恥ずかしさがやはり勝ってしまい、また負けてしまったのだった。道のりはまだまだ遠い。
そうして紅星の間へと急ぎ向かえば、先にヴィンセントの姿があり、他にもエドヴィンがひじ掛けの部分はないが背もたれがあるこじんまりとした椅子を五つほど並べながら待っていた。
抱えられていた静の姿を見たヴィンセントは、静の膝の件のこともあって納得していた様子だったが、鼻で笑われたのは大変遺憾なので、後で何かしらの方法で鼻で笑い返そうと決意した瞬間だった。
それからしばらくヴィンセントと静が用意された椅子に座り待っていれば、三人もほどなく集まり、先ほどの通りのようなやり取りになったのであった。
アルカポルスの前に円になるように並べられた椅子に座るヴィンセント、静、奈緒、真咲、伊織達五人は、ルイスから地下の書庫で何が見つかったのか、というものを口を挟まずに聞いていた。
静が見つけた一人ということもあって、それを耳に傾けながらそれぞれの反応を見る余裕があった。
先にある程度聞いていたヴィンセントだが、片手顔を覆いうつむいたまま動かない。奈緒は書店員だということもあってか、両手で口を覆い、全身で驚きを見せていた。真咲は対して、少々事の重大さが分からぬ様子で顔をしかめつつ、首をかしげる。そして伊織は視線をわずかに落とし、じっと耳を傾けながら、首元にいるヨルの頭を指先で撫でていた。
その他、侍女達は奈緒に近い反応を見せ、エドヴィンは直立不動ではあったが、顔の険しさは増していた。
「――以上になります」
ルイスが報告を終えてすぐ、ヴィンセントが深い息を吐きだした。
「はぁ……情けない。情けなさ過ぎる。まさかそのような……」
「誰がそんな……! 一冊とか、二冊だけ、じゃないのよね。たぶん」
「見つけたのは四、五冊。その棚の方は、無いことを触って確認しただけで目隠しは外していないから正直分からない。とはいえ、一部だとは思う」
奈緒は絶句していた。
真咲がこそこそと伊織と話をしているのが見えるが、伊織から何やら補足説明をされたからか、ようやく事態の事の重大さというものを理解したように目を丸くしていた。しかし反応はそれだけで、この雰囲気ということもあってか、真咲はとにかく口を強く真横に結び、ひたすら聞く体制に入った。
その様子に気づいているのか、気づいていないのか、ヴィンセントはようやく顔を上げ、深く椅子の背もたれに寄りかかった。
「ああ、静の言う通り、探せば多くの文献が失われている可能性がある。とは言え……、公にするわけにはいかない。となると、だ」
「……漆黒を動かすのなら、王城へと話をしなければなりませんよ」
「ああ、だろうな。だが神殿内の騎士達だけで対応できる問題ではない。一番は漆黒の手を借りることだ、が……やはり王城の奴らが面倒だな」
ヴィンセントの考えていることが分かったのか、後ろに控えているルイスが口を開く。相も変わらず、その漆黒について静は知らないままだが、おそらく暗躍みたいなことが得意というのだけは理解しているつもりだ。後、騎士だと言うことも。
「はい。質問」
「何だ、奈緒」
律儀に手を上げた奈緒に、ヴィンセントも律儀に指した。
「今更だけど、その漆黒とかそういうの教えて欲しいのだけど? それに、私達はこの国についてほとんどを知らないわ。王城と神殿が別っていうのは、この前のあのクソと会った時に分かったけれども」
「相手はこの国の王子だぞ、クソは分かるが」
静はまだ会っていないこの国の王子に対し、なるほどクソなのか、という印象が強く残った。明らかな風況被害あろうが、実弟らしいヴィンセントが言うからには事実に近いだろう。
「全く……、何故我らが神は……」
全く知らないと言う奈緒の問いには答えず、ヴィンセントは頭を抱えていた。そう言いたくもなるだろう。
まさか神自ら選びなさった聖女というのが、この国の人間ではなく、しかも何も分かっていないときたものだ。頭も抱えたくなる。そしてこの流れになったことで静は遠慮なく手を上げた。
「はい」
「次は何だ、静」
またも律儀に静を指すヴィンセントの顔はだいぶ険しい。静は内心指してくれたヴィンセントに平謝りをしつつ、他三人に顔を向けた。
「その、ごめん。えーっと、いろいろとあって言いました。彼女達についてもそうだし、その経緯とかいろいろ」
奈緒達が一瞬何のことかと呆気に取られている中、膝の上にいる子狼がきゃんと鳴いた。
三対の瞳が子狼に集まり、そして自身の小動物達を見て、ようやくそこで静の言葉の意味を理解したのだった。
「え、静? そうなの……? だから戻るの遅くなったの……? というか、なんで相談も無しに……」
「ちょっとぉ、何先に言っているのよ。こういうのって一緒にいる時に話すもんじゃないの?」
「そうだったの……? けど、なんだろう。ちょっと、なんだかなぁ」
「うん、だからそうなの。ごめん、言う必要があるって思って」
想像していた通り、三人からの苦言やら不満やらが向けられた。予想はしていたがやはり予想と現実はやはり抱く罪悪感はぐわんと大きくなり、ちょっと後悔しかけそうになった。
視界の端に見えるルイスは、ほら見たことかと呆れた目線を向けてくるのが見えた。ちょっと泣きたくなった。
「……まぁ、けど。一応、考えてそうしたのよね?」
「うん。考えて、必要だと思って」
「それなら仕方がないわね」
「奈緒……!」
少しだけ精神的に追い詰められそうになっていたが、奈緒がそれよりも早くにつめてくるのを止めてくれた。
救われた静はぱっと顔を明るくして、奈緒を見やる。が、何故だろう、奈緒の満面の笑みがこれほどまでに恐ろしいとは初めてのことである。
「今日は一緒に寝ましょうね? 可愛い服着なさいよ?」
「あ、それ良いわね。あたしのところも可愛いのがあるから、一緒に着ようかしら」
「わぁ! お泊り会だ!」
「ワア……、タノシミダナー……」
許される代わりにお泊り会と、可愛らしい恰好をすることが決まってしまった。大変乗り気な真咲はともかくも、友達元ゼロ人の伊織が目を輝かせて喜んでいる手前、拒否することなんて出来るはずなく、静は大人しく頷く他なかった。
「……いいか、話に入って」
話が一段落つきそうになったのを見計らい、話に入らずに待っていたヴィンセントが口を開いた。
静は奈緒と目線を合わせ、頷いたのを見てから静が答えた。
「ごめん。それで、この子等についてなんだけど」
「……ああ、ずっと側にいるな」
「うん。愛娘だしね」
ヴィンセントの動きがピタリと固まったのを言いことに、静は膝の上にいる子狼を掌で指した。
「こちら、ユフィアータ」
『やはり驚くものだな』
「それじゃあ次は私ね。この子、メルヴェアータ……って、いつまで寝ているの?」
『寝てないわぁ』
「次、あたし? この子、ラウディアータよ。美人でしょ」
『よろしく、人間』
「それでこの子がリディアータ。かわいいでしょ!」
『この姿は満足しているのですが……、しているのですが……!』
次いで黒猫がくわりと大きな欠伸をこぼし、空色の鳥が片方の翼を広げ、白蛇が尾をぐるりぐるりと回した。
数秒か、数十秒かそれ以上か。その程度の時間を置き、ようやくヴィンセントが僅かに視線を動かし、静の後ろを見やった。
「ルイス」
「紛れもなく、本物です」
ルイスに真偽を確かめ、嘘偽りのないことを確認したヴィンセント達はすぐさまにルイス達がした姿勢を取ろうとした。
『ああ、そのように畏まらず……! これは私達の力不足で起きたことですので……!』
すぐにそれを察知した白蛇の姿に扮したリディアータが、慌てて即座に止めた。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
「……理解、した。おそらく」
片手で顔を覆っているせいで、どのような表情をしているのかはよく見えない。だが、この短時間で相当の疲労を積み重ねてしまったせいもあり、声はずいぶんと覇気がなかった。
「ああ、しかし……そうか。それなら納得がいく。お前らと話をして、どうもあまりにも知っておかなければならないようなことでさえ、お前達は何一つ知らない。だと言うのに、この国の言葉を器用にも使いこなし、ましてや文字を読める。なるほど、これも愛娘達の力か」
「そうだね。別にわたし達は、この国の言葉を話ているわけじゃないから、時々変な言葉になっている時もあったかもしれないけれど」
「勝手に言葉が翻訳されているのか? 一体どういう……いや、今はこの話をしている場合ではない」
言葉の自動翻訳に興味を示したヴィンセントだが、すぐに気を取り直した様子ではじめの時よりはやはり覇気はないものの、すぐに調子を取り戻したように口を続けて開いた。
「簡単にこの国について説明してやる」
こそっと真咲が伊織に、いつもの上から目線云々、とかそんなことを呟いたのがうっすら聞こえた。ヴィンセントは無言で睨みを利かしつつ、それ以上構う事はなかった。
「この国、ロトアロフは他の国から『北の鉄壁』とも呼ばれている。今の季節は過ごしやすいが後数ヶ月もすれば一気に涼しさは寒さに移り変わり、冬が訪れる。長く、そして厳しい冬だ。そこにいる我々はその冬に耐えうる為に、力を結集し、高め、知を深め、独自に開発と研究を繰り返し行い、強国へと君臨した。ただ君臨はしたが、どうしたところで冬の自然の恐怖というものに打ち勝つことなんぞ出来なかった。だからこそ、我らは我らが神を心の拠り所にし、こうして祈りを捧げている」
外は草木が茂り、花が咲き誇っている。その様子からは全く持って、この国が北に位置する国だとは到底思わなかった。が、確かに言われてみれば、昼間はだいぶ心地よい陽射しが降り注ぐが、夜になれば肌寒さを感じるほどの寒暖差が大きい土地柄だった。
そう思いつつ、静は別に抱いていた疑問を投げかけた。
「王族と神殿は完全に別もの?」
「ああ、完全に独立したものだ。我らは神の為に在り、あちらは今この国に生きる国民の為に在るからな。役割が異なるんだ。だから我ら神殿側は、この国の政にはほとんど関与はしていない」
神殿は神に。王族は国民に。多少なりとも互いの干渉はあるのだろうが、ルイスとヴィンセントのやり取りを見ていた限り、とくにヴィンセントは王族の手を借りることを控えているようにも見えた。
それについての疑問は今、解決する必要はないだろう、と静は一つ納得したように頷けば、ヴィンセントはわざとらしく肩をすくめて魅せた。
「とはいえ、あちらは神をないがしろにはしているわけではない。現に俺がここにいるのがその証拠だ」
「確か、元王族だったと」
「ああ。とは言え、この世に生を受けた瞬間、俺が神殿に行くのは決まっていたから、本当に名ばかりの元王族という奴だ。分かりやすく言えば、供物のそれだ。我らが神へと、最上級のものを捧げ、誠心誠意、我らが神がおわすこの国を正しき方へと導き、お守りいたします。という意味がある。これは最初、神が我ら人間が悪しき方向へと向かっていた際、天罰を下したのがきっかけとされている。これはその戒めの意味もあるわけだが……」
ヴィンセントはそれぞれの小動物の姿に扮する愛娘達の様子をうかがう。
彼女達は今の話を聞き、怒ったり、笑ったり、ということもなく、何故か不思議そうに話をしていた。
『天罰なんてしたかしら?』
『リディ姉上ではなかったか?』
『天罰だなんて……。どうだったかしら? もしかして母様かしら』
『私は覚えているわよぉ。確かぁ、かわいらしくって美しい子がいたのよぉ。それでぇ、助けてくれたら母様に捧げるとか言ってたから、ちょぉっとお仕置きしたのよぉ』
『メル姉様じゃない。で、その子、どうしたのよ』
『ちゃぁんと母様の元に連れて行ったわぁ。後は分からないけどぉ』
『メル姉上の気まぐれだったか』
メルがゆらり、ゆらりと尾を揺らし、ころころとしている紫の瞳を笑っているかのように細めた。
ネーヴェの言葉の通り、メルはおそらく相当に気まぐれなのだろう。そして偶然、気まぐれで助けただけで、そして人間が望んだとおりに供物として神たるアルカポルスの元へと連れて行った。たったそれだけだったのだ。
「……そうね。彼女達はこういうものよね。ね、静」
「まぁ、そういうもん、だよねぇ」
彼女達と、今こうして自然に会話が出来ている。そして静達は美しい少女の姿の彼女達と相対した。まるで同じ人間のような、愛らしい少女達。
だがその正体は人間ではなく、それこそ神に近い存在だ。長い、とても人間では想像できないほどの長い時の中で過ごしてきた彼女達にとって人間はどうしたってちっぽけで、弱い存在になるだろう。そも、同列にさえ見ていないのかもしれないとさえ、言葉の節々から感じる時さえもあった。
「神話が変わるな」
「ヴィンセント様……」
「今は秘匿にしておけ。お前らもだが……、耐えきれぬというのであれば幻覚の魔術を施す。多少の記憶の混濁はあるだろうが、それでも良いとあれば後で申し出ろ」
長い長い神話の真実に触れている今、受け止めきれずにいる者もいるように見えた。彼女達は侍女であり、そのように訓練されているわけではない。あくまで使える主人となる者の世話をするのが役目だ。であるからこそ、ヴィンセントはそれを分かって言ったのだろう。
静はちらり、と己の傍に控えているリーリアの振り返る。リーリアは少しばかり顔色を悪くしながらも真剣な顔つきで前を向いていた。
「では、続けるぞ」
各々の様子をうかがいながらもヴィンセントは遠慮なく続けた。
「この国は強国になったが、元々の気質というものもあって、周辺国とほとんど関わりを持たずに閉じていたんだ。だが、いつまでも閉じたままでは国として成り立たん。加えて強国となったおかげで、名はあっという間に世界に広がり、周辺国はもちろん、海の向こうの国もこの国へ訪れるようになった。喜ばしい事ではあるが、同時に煩わしい問題も起きてしまっている」
「起きているってことは、今も?」
「ああ、そうだ。ずっと、昔からな。お前らを外へ出さず、王族側の人間にはもちろん、信徒相手であろうと接触を禁じているのは、ほとんどその理由だ」
ちらり、とヴィンセントの琥珀の瞳が、静の方へと一瞬向けられた。が、あまりにも一瞬で、しかもそれは静の向こう側を見ていたような気がした。
「この国はあまりにも閉じこもりすぎた。故に、異国民に対して不信感であったり、異なるなにかと表現する者もいれば、あきらかに虐げる者も現れるようになり、ましてや穢れた血、なぞとほざく者がいるとも聞き及んでいる」
この国の人間達の容姿を思い出す。誰も彼も、皆、比較的に白い肌を持ち、地球で言う所の西洋人のそれとほとんど似ていた。その中で、だからこそ、褐色の肌を持っているルイスはよく目立っていた。
伊織、真咲が無意識なのだろう、静の後ろに視線を向けていた。そして奈緒もわずかに頭を動かそうとし、中途半端な位置で止まり、また前に顔を向けていた。
「……わたし達が、この国の人間ではない以上、そのような目に合う可能性がある、と」
「ああ。すでに伊織には申し訳ない事をしている手前、過剰になっているところはあるが」
無意識にこちらに視線を向けていた伊織がはっとして顔を伏せた。真咲が無言で伊織を見やるが、伊織は何も言いたくないのか口を固く閉ざしたままだ。
伊織ははじめ、この大神殿に落ちたと言う。その時に何かがあったのだろう。だが、その様子から見るに何も言いたくないように見えた。
それならばあえて聞くことはせず、静は独り言のように呟いた。
「ああ、だから聖女、か」
『すまんな、静』
「良いよ。それなら納得した。あ、いや、一つ疑問があるのだけど」
『どうした?』
「最初に誰がわたし達を聖女だと言ったの?」
ネーヴェが聖女でなければならないと言った理由までは理解出来た。が、それならばだ。
一体誰が、静達を聖女であると告げたのかが問題になってくるのだ。
「……そう言えばそうよね」
「確かお告げがあったって聞いたわよ」
「うん、私も。えーっと、確か……、夢の中で、声がしたって」
今更なように気づかなかった奈緒の他、とくに気にもしていなかった様子を見せる真咲に、誰かから聞いたであろう伊織が首を捻る。
正直静も今更ながらに疑問に思ったことだった。別に気にすることもないのかもしれないが、聞けることなら聞いておくべきだろう。
静の問に、ヴィンセントがああ、と声をもらした。「俺や、ほか複数の神官。そしてこの王都にいる国民の一部が、夢の中でそれを聞いてな。まさか我らが神がお告げをくださるとは思いもしなかったが……どうかしたか?」
静は奈緒と顔を見合わせた。
「いや、うん」
「だって、ねぇ? ねぇ、メル。その、確か記憶違いじゃなかったら、アルカポルスって……」
『えぇ、母様は眠ってしまっているから、私が母様のお声を真似て、告げたのよぉ』
「……我らが神が、お眠り……に?」
ヴィンセントが驚くのも当然だった。
なんせもうすでにアルカポルスは眠ってしまっているのだ。だからこそ、神たるアルカポルスが告げられるわけがなかった。
メルが首をゆるりと首を持ち上げ、ゆるりと大きく黒く長い尾を揺らした。
『そうなのよぉ。もう眠られてどのくらいになったかしらぁ』
『分かるわけないでしょ、そんなの』
時間の概念がどれほど異なっているのか定かではないが、静はおそらく十年、二十年そこらの話ではないような気がした。もっと、もっと前。それこそ人が何かを忘れるのに十分なほどの時間だろう。
「愛娘達にお聞きしたいことがございます」
『ええ、何でしょうか?』
「この国は、いつから……貴方様方に剣を向け始めたのでしょうか」
『それが……よく分からないのです』
両手を組むように膝の上で強く握りながら問うヴィンセントに、ヨルは伊織の首から膝の上に移動してとぐろを巻き、ぐっと頭を上げた。
『思い出せないとかではないのです。ぽっかりと、何かが失ってしまったような、そんな感覚なのです。そうよね、メル』
『ええ、気づいたらだいぶ時間も過ぎ去ってしまったわぁ。ああ、そうね、まさしく本の頁が抜け落ちてしまったような、そんな感じかしらねぇ?』
ゆるり、ゆるり、ゆらり。そこまでに温度が感じない言葉が紡がれるたび、蛇の頭は揺れ、猫の尾が左右に振れる。
一見すれば日常会話をしているかのようで、けれどもその言葉の節々にはどこか諦めかがにじみ出ていた。彼女達にはもうすでに一切の焦りがないほどに、焦ることすら無駄だと言わんばかりに今日は何があって、そして今日ちょっとした失敗があったとか、それぐらいの感情の幅での話し方をしていた。
誰もがなんと言葉を発せばいいのか迷う中、真咲が肩に乗る鳥に視線を向けた。
「ねぇ、ディーヴァ。今こうして話しているじゃない、あたし達って」
『そうね』
「なんであたし達にこうして会う前に、ヴィンセントとか、この国の神官とかに話さなかったのよ。ほら、お告げとか」
『無理よ』
「なんでよ。メルがさっき助けたとかなんとか言っていたじゃない。後、お告げもしたんでしょ? それならこうなる前にどうにかならなかったの?」
『無理っていうか無駄よ、無駄。だってお告げしたり、話をした人間、殺されちゃったもの。だから無理よ』
「……え?」
真咲の肩から膝の上に下りた鳥は、驚き固まる真咲を見上げた。
『人間ってそういうものなんでしょう? 同じじゃないとすぐに拳を振り上げたり、排除しようとする。今だって他の国にいる人間に対して排除しようとしているんだもの。そんなの見せられたら無駄な力使いたくないわよ。けど、真咲達は違う。あたし達が巻き込んでしまったから、だから聖女として告げたのよ。うまくいくか分からなかったけれど、なんだかんだ人間達が単純だったから助かったわ』
「……ディーヴァってさぁ。けっこう人間、好きじゃないわよね?」
『そうね。だって導いてくれって願われたから導いても、結局は周りが邪魔するか負けるかで無駄になることが多いもの。嫌になっちゃう。だからってお役目を投げ出したりは一回もなかったのだけども』
「……すごいのね、ディーヴァ……ううん。ラウディアータって」
『そうよ。もっと褒めてくれてもいいのよ?』
何度も。それはもう何度も、幾千、幾万、幾億とあったのだろう。幾度も裏切られたのかもしれない。けれども、そえれも彼女は愛娘である。祈られれば、願われれば、その役目の通りに果たそうとした。否、しているのだ、今も。
しかしだからこそ、彼女は、そして彼女達は期待などと言ったものをしなくなったのだろう。全てが水の泡になることを彼女達はもうすでに悟っていたのだ。だからこそ何もしない。静達がこうして巻き込まれていなければきっと、歪むがままに彼女達はそれをずっと黙って見ていたに違いがなかった。
「……ああ、文献に、そのような記録が残っている。まさしく、ああ、そうだな。そうなるだろうな」
ヴィンセントが独り言のように、深く息を吐くように言葉を漏らした。
いつの頃かの出来事か分からないが、今この場にいる人間が生まれてすらいない出来事もあったはずだ。だがヴィンセント含む誰もが己事のように険しい顔を浮かべていた。全ての責は己にあると言わんばかりに。
その中、ヨルが即座に声を響かせた。
『人間、どうか己を責めないでください。人間は間違う生き物であると私達は知っています。それにこうして人間と言葉を交わせたことを、私はとても嬉しく思っているのです。ですからどうか、責めないでください。ねぇ、ラウディ』
『……リディ姉様がこう言ってんのよ。ほら、さっさと陰気なそれ止めなさいよ。やるならあたしを褒めたたえるなり、祈りを捧げなさいよ。そしたらちょっとは見直してあげても良いわよ』
『ふふっ、ラウディったら人間の傍に一番いるものねぇ。いつもお話が出来ないか様子をうかがっていたぐらいだもの。良かったわねぇ』
『う、うるさいわね!』
姉二人に少しばかりいじられる妹は、ちょっとばかり素直ではないらしい。それに妙に納得した真咲がにんまりと笑みを浮かべた。
「へぇ、ディーヴァ。嬉しいんだぁ。なぁんかおかしいなぁって思ってたのよね。妙にこう……なんていうか、ウキウキ? している感じがしたのよ。へぇ?」
『あ、頭突いてやるわよ!』
「ちょっと、それ狡くない?!」
嘴は凶器に近い。真咲が慌てて両手で頭を覆い、膝のいるディーヴァが空色の翼をあわただしく広げてその場でばさりばさりと大きく動かす。
一気に明るく騒がしくなったおかげで、重く沈んでいた空気がようやく解ける中、静もその様子を朗な気持ちで見つめる一方、より深く、思考を回していた。
引っかかるのだ、それが。
異世界から巻き込まれた静達を守る為に、こうして人間に諦めを向けていた彼女達が静達の為に傍に来てくれ、言葉を交わした。そこには何も違和感がなく、まさしく神話にあった通り、人間のそばにいつもいる彼女達だからこそ、多少の違いはあれども問題なく言葉を交わせる。
祈れば、願えば、彼女達は傍にいる。そして天の神、アルカポルスはいつも天にいる。そう、それこそだ。
それこそ、空間を歪ませるほどに強大な魔術を用いてまで神を召喚する必要なんてなさそうなのに、人間はそれを実行したのだ。
「静……? なんだか、難しいこと考えてる?」
「……ああ、うん。ちょっと。変なの見えた?」
「うーん。どろどろじゃないけど、なんだろう? あの、マークシート? チェックシート?」
「ああ、確認しないといけないこと考えてたから、それだな。というか伊織のそれ、どうやって見えるの?」
「なんかね、私が知っているものじゃないとちゃんとそれっぽく見えないんだって」
便利なようで不便そうな伊織の力だが、つまりは伊織の想像力によって見え方が決まっているということだろう。
静は一つ一つ確認をしなければならない事柄を考えていた。そして伊織は一つ一つを確認できるチェックシートのようなものを知っていたから、偶然にもそれがイメージに合ったというところあたりだろう。静はそうあたりを付けつつ、膝のいるネーヴェに視線を落とした。
「ネーヴェ」
『うん、なんだ?』
小さく欠伸をかみ殺した子狼がゆったりと見上げた。先ほどからずっと静かだったのか、ちょっとばかり眠かったのかもしれない。それを邪魔したことに少しの申し訳なさを感じつつも、躊躇することなくそれらを問いかけた。
「貴方方は、祈りや願いだと言った」
『ああ、そうだな』
「ここの神話では、愛娘である貴方方は側にいると書いてあった」
『まさしく』
一つずつ確実に問う。そして子狼は同じように端的に答えた。
「この国には、他の神がいる」
『ああ、存在するとも』
「それはネーヴェ達にとって何?」
『そうだな。人間でいう所の、友に近いものもいれば、配下に近いものもいる。が、どれも大切な我らの一部だ』
視界の端で奈緒達が驚きの表情をしたのが見えたが、静は顔をあげずに続ける。
「けども、この国の人間は公な場所において名を出すことを禁じている……に、近いことをしている。それらは混乱や余計な諍いを避けるため。それでも祈りたいものは、このように言う」
これは問いではなく、ただの確認だ。そして静はその言葉を続けた。
「
白銀の瞳がきゅるり、と細くなった。
口を開かない子狼の代わりに、静はまだ続ける。
「貴方方は、この国の人間が神を召喚しようとしている、と言った。祈りさえすれば、側にいてくれるというのに、次元を超えるほどのものを用い、結果的にわたし達にまで届いた」
『そうだな』
「そこで確認をしたい。アルカポルスは、人々を直接話すことが出来ない。この理由は? 貴方方のように、祈れば側にいてはくれないの?」
『いいや、母上はいつも側にいるとも。ただ、話せない』
「眠っているから?」
『否。関係がない』
「眠っていなくても話せない?」
『そうとも』
「どこに?」
『人間達は言うだろう? 天だと。故に話さない。話せない。母上は見守り続けるが役目であるから。それにだ、一度言葉を交わしてしまえば余計な諍いなりが起きることは人間達がすでに証明している』
ひとおしく、正しく、天の神たるアルカポルスは全てにおいて平等なのだろう。平等であるからこそ、手を差し伸べることなく、ただ見守るということをしている。
けれどもやはり、何かしら思うことがあれば愛娘達が変わりにその手足となり動くのだ。メルヴェアータが個の人間の願いを聞き入れたということも、そのうちの一つ。だが、それは神自らが動いているわけではない。一つに対し、傾倒しているわけではなく、あくまでも平等であることの姿勢は保ったままだ。平等だ、絶対的な平等だった。
「……それならいつも目にするし、いるなぁ」
『だろう?』
「それは分かった。それならば、だ。その人間達は、何を召喚しようとしていた?」
『言っただろう? 神だと』
あの時と同じ、答えは変わらない。
しかしネーヴェは、ユフィアータは、それを神と呼んだ。
愛娘達はアルカポルスを母と呼ぶ。そして他の地域の神については一部と呼び、神という名称は使わないようにもうかがえた。
突如として静は、ふっと浮かんだその思考に対し、ある種の確信に近いものを覚えた。
「……ネーヴェ」
『うん?』
「この国の人間は、アルカポルスではない神を、召喚しようとしている?」
恐る恐る問う静に、白銀の子狼は頭を僅かに傾けた。
『ああ、最初からそう言っただろう?』
「圧倒的に言葉が足りない……!」
『む?』
確かに最初からそう言っていた。だが、この国の事情や、彼女達が使う言葉の意味なんぞ、今の今まで全く理解していなかったのだから分かるはずがない。
知る必要のないこともあるが、こればっかりは確実に知らなくてはならないことだった。
静は片手でこめかみを抑えながら、若干の八つ当たりをもってして綺麗な白銀の毛並みをこれでもかともさもさに仕立て上げた。きゃんきゃん聞こえるが無視だ。
静とネーヴェのやり取りを口を挟まずに聞く体制に入っていた奈緒が、深く息を吐きだし、身体を少し脱力させていた。
「全く……とんでもない話になったわね」
「召喚って、その後何すんのよ」
「この状況から考えるに、新たな神の挿げ替え、あたりかな」
「えーっと、つまり、アルカポルスじゃなくて別の神様を一番にしようとしている? けどなんで?」
奈緒を口火に真咲が首を捻る。そして静がこの現状と照らし合わせつつ、一番最悪な出来事を上げ、それでも分からないと伊織が首をひねった。しかしそんなこと誰もが今、分かるはずがない。伊織の問いに、奈緒が口元をゆがめつつ答えた。
「理由なんて考えても仕方がないわよ。ただ分かることは、これに負けたら私達は一生帰ることが出来ないってことね。それと……仮によ。仮に、その別の神が、この国の神になった時。私達は帰ることが出来ないどころの話じゃなくなるかもしれないわ」
「そ、それってどういう……?」
「……命の危険があるってことよ。これ以上は言わなくても分かるわよね?」
地球上の歴史において、信仰の違いによる衝突は幾度もあった。そしてその結果の末路というのは、どれも悲惨なものになっていることを歴史が物語っている。
学生とはいえ伊織も知っていてもおかしくないような話だ。もちろん真咲も。二人は顔を見合わせ、どちらともなく手を握り合っていた。
二人の視線が大きく揺れている。奈緒も不安が強いのか、顔を俯かせたまま動かない。控えている侍女達は各々の聖女達に対し、どうすれば良いのかと顔を見合わせ、ヴィンセントは片手で顔を覆ったまま動かず、エドヴィンはなんと声をかけようか、迷っているそぶりさえ見えた。
静はその中、ぐっとちょっとだけ気合を入れ、思い切り柏手を打った。
パァンッ、と大きく響いた音に誰もが顔を上げて静に視線を向けた。なんとも呆けた顔をしているなぁ、とか思いつつ静は困った顔を浮かべた。
「お腹減った。とりあえず今日はここまでにしたいのだけど良い?」
全くこの場に似つかわしくないことを言ってのけた静に、ヴィンセントはぐっと顔をゆがめた。
「お前……こんな時に言うことか、それ」
「こんな時だからだよ」
いきなりの大きな音でひどく驚いたらしいネーヴェが前足を伸ばし、テシテシと静の手を叩いている。静はそれを黙って受け入れながら、銀の毛並みをゆっくりと整えてやる。
「もうすでに事は起きているし、相手はきっともう何年、何十年と事を進めてきている。それをいきなり相手にするには準備不足が過ぎる。正直、今更焦ったところでどうしようもない」
「……お前が言えるのか、それを」
なんとも言えぬ顔を見せるヴィンセントに、静は笑って見せた。
「わたしね、売られた喧嘩は全部買う主義」
『静、これは喧嘩とは違うと思うぞ』
「静様、さすがに喧嘩は違います」
「それはちょっと違うかと……」
「例えだって……!」
下と後ろからそろって言われ、静は若干顔をくしゃりとゆがめた。
「とにかく、焦っても仕方ないでしょ。正直わたしもいっぱいいっぱいだし、不安でいっぱいのままで良い考えなんて思い浮かぶはずなんてない。まず必要なのは美味しいものをたくさん食べて、たっぷり眠ること。以上。というか本当にお腹空いた」
「静、食べること好きだものね」
「うん、好き。美味しいものたくさん食べたい。ので、今日はここまでにしてほしいです。で、確実にその相手をぶん殴りたいです」
「ねぇ静? 喧嘩のそれとは違うのよ?」
「喧嘩は例えだってぇ。ぶん殴るのは本当だけど」
「静、ちょっとやり方変えましょ?」
奈緒がそっと静を抑えようとしている中、あんなにも不安がっていた真咲と伊織の表情はいつの間にか和らぎ、そして小さく呆れて笑いあっていた。
張り詰めていた空気もいつの間にか解け、緊張感のきの字すらなくなったこの場に、ヴィンセントは肺の空気を全て出すかのように吐き出し、天井のステンドグラスを見上げた。
「……まぁ、確かに。今日はここまでとしたほうが良いだろうな」
赤い星を模したステンドグラスの向こうはすっかり暗くなり、僅かな月明りが差し込もうとしていた。
ああ、そうだ、とヴィンセントは解散となる空気になる前にまた顔を正面に向けた。
「静、喧嘩はするなよ。後、全部買うな」
「喧嘩は例えだって……!」
うわん、と静は声を荒げたのだった。
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