16

 まずは何をすべきか、静も内心未だにこの状況を呑み込めずにいたが、より自分よりも混乱している誰かを見ると冷静になっていく。

 そう言えば最初、巻き込まれたときも似たようなことがあったな、と思い出した。あの時は三人共焦っており、それを見て静は何とか外面だけでも落ち着きを保っていたにすぎない。成るようにしか為らない、なんて言って。真咲には諦めでは無いなんて言われたが、本当に諦めたうえでの言葉だ。なんせ今は変えられないのだから。

 しかし今、それを言うのは憚れた、というよりそのようにこの事態に対しては為るようにしか為らないという言葉すら浮かばなかった。リーリアのこの様子から事態は相当に大きく、そしてルイスの言うように静自身にも危険が迫るほどの出来事だ。このままに受け入れ、流れるがままに他に判断を委ねるということをしでかせば、何かしらの後戻りが出来ない状況に陥りかねない。

 今だ。今こそ、成させる為に、思考を回せ。湧き上がる苛立ちの意味に振り回されてはいけない。次に手を打っても、周囲や三人に危険が及ばぬようにしなければならない。

 そして何よりも先に、リーリアを落ち着かせなければならない。

「リーリア、座って」

「いえ、大丈夫です」

「うん、座って」

 有無を言わせずに静はリーリアを先ほどまで自身が座っていた椅子に座らせた。木の丸い椅子だ、正直座り心地というのは良くなかったが、無いよりはマシという物だった。

「し、静様……」

 座りが悪そうにするリーリアの隣にあるテーブルに行儀が悪いが軽く腰掛けた静は、白銀の瞳をちらりと向けて困ったように笑った。

「どうしようねぇ、リーリア」

「え、静様……?」

 まさか、静からその言葉が漏れるとは思わなかった様子のリーリアが目を丸くしていた。

「正直、何と言うか……、こうもあっさりと目に見えて分かるような歪みの一片を見つけちゃったからさぁ。うまいこと立ち回らないと勿体ないと思って考えてはいるんだけど、どうも思い浮かばないんだよね。最低限、ヴィンセントには耳に入れておいた方が良いだろうし、他の三人にももちろん伝えるとして、その後をどうするか。ここを出入りできることが出来るのは完全に神殿側に人間であることを意味しているから、誰が信じるに値できるか探らないといけなくなる」

 ああ、困った困った。静は己の今回している思考を隠さずに口に出す。無論、あえてだ。

 呆気にとられた様子を見せるリーリアはぽかり、と口を開けて見上げている。

「ねぇ、ルイス。ここを出入りしているのは管理者以外にどんな人達がいるの?」

「神官はもちろんですが、王城の者達も許可証が必要ですが出入りが可能です。そして出入りした者の記録は全て取られています。とはいえ記録は膨大なうえ、どこまで探らなければならないのか……いえ。あの場所は拡張された場所になりますので、その時以降の記録から探るべきかと。それでも数十年前までさかのぼる必要はあるかと思いますが」

「時期がある程度分かるだけまだ良いほうかもね。けど管理者が分からないなんてことはある?」

「……あれは、高等の魔術かと思われます。ただの幻術等々でしたら私も見れば分かるものもありますが、何一つ違和感なく、そこにあると思わされたので見逃していた可能性があります。静様はどうやってお気づきに?」

「なんとなく。なんかおかしいなぁって感じで」

「聖女のお力ということでしょうか」

「どうだろうね? それはともかくも、だ。いやともかくもじゃないんだけど、どこからやるべきか。なんだよなぁ。神殿内部については正直分からないことの方が明らかに多いのもそうだけど、進んで関わるつもりはないし」

「つもりがないのではなく、出来ないの間違いでは?」

「そうとも言う。ところでルイスは神殿の内部について、どの程度把握しているの?」

「静様が求められているものがどの程度のものであるのか分かりかねますが、主要の動きはおおよそ把握しております。それとヴィンセント様の動きは全て存じております」

「大神官だからか」

「それもありますが、静様付きとなる前、あの方の思い付きと職権乱用で兼任でヴィンセント様付きの騎士の一人でしたので、把握していなければひどく煩わしい事態になるので」

「ああ、だから胃痛の話になった時に過労とか言ってたのか。そんな有能な騎士をわたし付きにしてもらって申し訳ないな」

「全く思っておりませんよね」

「やったぁ、美味しい紅茶が飲める」

 リーリアに語り掛け続けず、静はそのままにルイスと話を始めた。テーブルに腰かけている静に、僅かに深緑を緩く細めるも何も言わずに受け答えをしてくれる。

 的確に、明確に、ただの侍女であったリーリアがいる前だというのにも関わらずに堂々とヴィンセント付の騎士も兼任をしていたという話すらも表に出してくるルイスだが、ルイスも何かを考えて話をしているのだろうと静は勝手ながらに思いつつ、横目でリーリアの様子を確認した静は、ゆるりと口元をあげた。

「さて、リーリア。落ち着いた?」

 リーリアは無言で椅子から立ち上がり、膝で大人しくしていたネーヴェを椅子に座らせてから静の前に立ち、姿勢を正した。

「先ほどはお見苦しい姿をお見せしてしまい、申し訳ありません」

「いいよ、そこは気にしていない。ただこれからのことを考えるとほら、ちょっと明らかに危ないことを巻き込むのは確実だし、見てしまったものを忘れることは早々に出来ることではないから、どうにか口止めをしないといけなくなるからどうしたものかと思ってた」

 表面上は落ち着きを見せられるかもしれないが、それでも見たものが何かのきっかけでリーリアが外に口外しないとは言い切れない。

 所詮という言い方も物寂しいものだが、リーリアや他の侍女達はおそらくは能力的なものを鑑みて選ばれた侍女に過ぎない。聖女と呼ばれる静に対し、ある種の信仰に似たものを抱いているに過ぎず、そして侍女として仕事を全うしているに過ぎないのだ。さらに言ってしまえば、所謂静達にとっての敵と繋がっていたっておかしくはなかったが、あの様子からおそらくはこれについては知りもしなかったことだ。そして本人がそのつもりがなくとも、何かを通じて静達を調べている可能性だってある。当たり前だがルイスもそのうちの一人。

 静は結局のところ、この二人に対して本当に信じていいのか分かってはいないのだ。けれども見たものが事実である以上、それ以上に一方的に信じているだけに過ぎない。例え裏に何があろうと、成す為にはその程度のことだと吐き捨てるだけのことだと覚悟していた。

 リーリアはわずかに空気が張り詰める沈黙の中、胸元に手を置いた。

「静様。どうかお願いがございます。私の懺悔を聞いてはいただけないでしょうか」

 突拍子もないことをいきなり言うリーリアだが、妙に穏やかな顔をするものだが静は無言でうなずき、行儀悪く腰かけていてテーブルから腰を上げて立つ。リーリアがそれにすぐに気づき、小さく困ったように笑みをこぼし、その場に両膝を躊躇することなくつき、両の手を組むように握りしめる姿勢をとった。

「私は、静様付きの侍女に選ばれた時、お恥ずかしい話ではありますが、私が認められたことに誰よりも誇ったのです。ようやく、全て、私がやってきたことが正しく認められたことを喜んだのです」

 静はこの短い日々で、リーリアの性格というのが分かってきていた。弁えつつも負けず嫌いで、相当の努力家。だからこそ、リーリアがその思いを抱くことに何ら静は疑問にも思わなかった。むしろ静自身も抱くようなものだったが、今この場で言葉を発する権利は持ち得てはいなかった。

「そして静様に初めてお会いした時、静様は多くをお尋ねなさいました。私はお尋ねなさったことを意気揚々と答え続けました。神殿にいる以上は知っておく必要があるものもありましたが、それ以上のことをお尋ねなさってくださったことに、我らが神に感謝を述べたのです。私の得た知識をより存分に生かせるお方に出会わせていただいたことを。しかし、それは静様が知らないということを喜んだことになることを、私は分かっていながらも感謝をしてしまいました」

 静は答えない。口を閉ざし、銀の瞳を細める。淡く光る白い光が偶然にもリーリアの身体全体を照らすように集まっているように見えた。

「私は何も知らぬ聖女の方だから、とそのように思っておりました。故に監禁されてしまったのだと。ですが、静様は……その、最初に抱いた印象とは違って」

「拳が出るお方ですからね」

「ルイスは黙って」

「……大変、活発なお方だと」

「ありがとう、リーリア」

 言葉がつまったリーリアの言いたいことを、ルイスが横から遠慮なく言葉を選ばずに助け船を出した。雰囲気がぶち壊しだが、しかし静はおかげで自身の呼吸が楽になったような気がした。いつの間にかされたこともない懺悔に立ち会うことになり、緊張をしていたようだと今自覚した。

「……ヴィンセント様との会話に立ち会わせていただいた時、静様が剛毅な方だと知ったのです」

 剛毅。確か、不撓不屈と似たような意味のある言葉だった。意味は強い意志で不屈なこと、だった気がする。が、静は面と向かって言われた手前すぐに否定したい気持ちがあったが、それを信じて疑わないリーリアの純真な瞳にぐっと言葉を呑み込む羽目になった。

「また大変まっすぐなところがあり、少々心配になってしまいますが」

「それはごめん」

「ふふっ、静様の素晴らしいところでございます」

 横からルイスの無言の視線が痛いが、今、それに噛みついている場合ではない。

 小さくまた笑ったが、リーリアは顔をふい、と歪め、視線を僅かに落とした。

「皆様、共通して聖女でありながらも関係なく、公平に手を差し伸べ、お話をなさってくださいます。そして静様も同じく、聖女でありながらも、笠に着ることもせずに接してくださりました。私は静様に対し、盲目になっておりました。剛毅且つ、まっすぐなお方だと。ですから私は、この身に着けた知識全てを使い、迷われてもせめてわずかにお力添えになれるのではとばかりに思っておりました。故に、私は、静様がお倒れになってしまった時、何も、出来なかったのです」

 そんなことはない、と静は伝えたかった。リーリアは静の傍にいてくれた。それがどれほどに心強いものだったか。だが今それを言ったところで、ただの情けによる言葉だとばかりに受け取られるのは明白だった。

「私は、静様からお尋ねされたことばかりを知識をひけらかすようにお答えておりました。ずっと。私はあの時、本当にするべきだったのは、静様ご自身の対話だったのです。静様は私を、リーリアとして、見てくださったのに、私は何も知らぬ聖女様であると見るばかりで、静様が今何を思い、不安になっているか知るべきだったのです」

 ああ、確かにと静はそれまでの事を思い返す。距離感が分からなかったというのもあるし、何を話をするべきか分からずに、とりあえず当たり障りのないことを話したり、いくつかのことを聞いたりとしていた。

 その会話どれもが、静の内に宿る感情や思いまでに触れるものは何一つだって無かった。

「そして私が後悔している間に、ルイス様が静様付きとなったことで私は後悔をしたことをそのままに、愚かにも静様にとってより有能であろうと力を誇示しようとしたのです。そして今、静様が背負われるもののほんの一片を目の前にし、何もかもが信じられず、受け入れることすらも出来ず、それでいて強い恐怖を覚えたのです」

 ついに、リーリアは顔を伏せた。握る両手はわずかに震えていた。

「何もかも分かってはおりませんでした。聖女様付きになるということを。何故、聖女様が現れたかということも。身勝手にも、目をそらしたくなったのです。何もかも。ですが、静様がいつものように変わらずに困ったと申された時、抱いていた恐怖が何故か急激にしぼんだのです。そしてルイス様は……大変悔しいところではございますが、やはり騎士ということもございますでしょうし、まさか大神官様付騎士だったことを鑑みても、当然に冷静になされている姿を見て、私は強い恥を抱いております」

 心の底に抱いているルイスに対する負けん気はそう簡単に変わるわけではないが、それでも必死に認めようとしているのが言葉の節々で理解出来た。

 ばっと、リーリアが伏せていた顔を突如上げ、静はついうっかり、小さく肩を揺らしてしまった。

「静様。私は静様付きの侍女でございますが、利己的で、自己顕示欲が強いばかりではなく、気性も比べて強い方だと自覚しております。神殿より仰せつかっておりますが、静様がこの先、足手まとい等になると判断するのであれば、どうぞこの場にて暇を頂きたく思います。当然ながら、この場で見聞きしたこと全て、決して口外しないことを我らが神に誓います」

「え、困る」

「……え……こま、る?」

 素でつい、静は必死に伝えてくれたリーリアに対して、とんでもなく似合わない返答をしてしまった。

 いやしかし、急に言われても、静はとても困ってしまうのだ。

 静は目線を合わせるために片膝をつき、目をまくるするリーリアと向き合った。

「最初から、わたしはリーリアに頼るつもりでいたから、ちょっと暇とかそういうのは止めてほしいなぁ。というか、いや、本当に暇が欲しいとかなら、仕方がないとは思うんだけど」

「い、いえ! 私は、静様のお力になりたいのは本心でございます! ですが、私は……、私は……静様に対し、何も出来ず……」

「何も? リーリアはたくさん教えてくれたのに?」

「しかしそれは」

 自己顕示欲の為。自分の能力をひけらかす為。だが、それがどうしたかと、静は言いたい。

「おかしいと思わない、リーリア」

「……何を、ですか?」

「本当にこの世界の住人なら、知っておかなければならないいくつかの事を、わたし達は何一つだって分かっていない。ルイスだって何かしら感づいてはいるだろうし、ヴィンセントもそう。そして何一つだって知らないくせに、言葉は問題なく通じているし、文字だって読めている。何一つ、知らないくせにね?」

 リーリアの顔が困惑に満ちていく。静は立ち上がり、椅子で大人しく座っている銀の子狼に視線を向けた。正しくは、子狼の姿に扮した愛娘を見据えた。愛娘は、ゆるりと尾を揺らし、こくりと頭を上下した。

「静様……?」

 自分はなんて狡い人間なのだろうか、と自嘲の笑みがこぼれた。こんなにもまっすぐに慕ってくれるリーリアに、なんだかんだとここに来てからずっと世話を焼き続けてくれるルイスに、ある種の裏切りをするのだから。

 呼ぶリーリアから一歩離れ、二人の姿を視界に入れた。

「わたし達は本当に、聖女なんかじゃないよ。そして、そもそもとして、この世界の住人でもない。何故か聖女と呼ばれているけれども、曰く、わたし達を守る為の名称として使ったと聞いている。そして何故、こうも首をつっこんでいるかっていうと、元の世界に帰る為だよ。全部ね」

 リーリアが言葉を無くし、ずっと表情を崩さなかったルイスがようやっと大きく表情を崩し、全面に驚きの色を見せていた。

「わたし達は偶然、この国に……それこそ歪みの原因となっている者達が行ったとされる魔術と言えば良いのかな。それに巻き込まれ、こちらの世界に飛ばされそうになったところを愛娘達が間に入り、一時的には助かった。けれども、愛娘達の力もほとんど枯渇している状態で、わたし達を元の世界に戻すことも出来ず、この世界に落ちるしかない状況だった。だからわたし達はこの国に落ちてきた。愛娘達はそんな状態だというのに、力を分け与えてくれた。結果、苦労なく言葉が通じるようにしてくれたし、文字も読め、そしてずっと

 ルイスは何かを察したのか、瞬時に膝をついたままのリーリアを半ば無理やり立ち上がらせ、子狼から距離を取らせた。

「……警戒されたんだけど、どうする。ユフィアータ」

『静の語り口調が良くないと思うぞ』

「雰囲気って大事かなって」

『それは大事だな』

「ねー?」

 静がその名を呼べば、子狼の姿に扮したユフィアータはさっそく静に少々小言を漏らした。とはいえ、おおむね同意をもらったので良しとし、再度二人を見やれば、リーリアはまた両ひざを付き、握りしめた両手を額にこすりつけるようにつけ、頭を伏せていた。ルイスはそこまでの姿勢は取らずとも、片膝をつき、顔の前で両手を組むように握りして、顔を軽く伏せているだけに留めていた。だが、全身から緊張と畏れが伝わってきていた。

『顔をあげよ、人間。私は今、そこまでの力なんぞない。見ての通りの子狼だ』

「昼寝が趣味らしいよ」

『あれはいいな。後、食事も良い』

「満喫してらっしゃるようで良かったよ。つまり、なんだ。こういうことなんだよね。ちょっと立っているの疲れたからそこ座るけど良い?」

『良いぞ。だが静の膝の上より、リーリアの方が良い。静は触りすぎる』

「はいはい、ごめんねぇ。ってほら、リーリアがびっくりしてるよ」

『なぁ、静。これでブラッシングしてもらえなくなったら、泣くぞ? 夜に永遠と泣くぞ? 遠吠えしても良いのか?』

「地味に嫌な奴だな、それ」

 きゅんきゅん、きゃん、と鳴き声交じりに訴えてくるユフィアータを身体を持ち上げて静は椅子に座り、膝の上に乗せた。無論、もしゃもしゃと毛並みを撫でまわす。

 威厳も何もないユフィアータと静とのやり取りをしている間に顔を上げた二人だが、リーリアは呆気にとられ茫然としており、ルイスはなんと言うか、あんまりにも若干残念なものを見るかのような視線を向けて来ていた。

「……静様」

「うん?」

「……ネーヴェ様……、いえ、ユフィアータ様が嫌がっておいでなので控えた方がよろしいのではないか、と。と言いますか……、狼のお姿になられることも、そちらの名前のことも、文献には何もなかったはず、ですが」

 ルイスが迷いながらもユフィアータの名を呼び、この状況だというのに静のその手を止めさせることを遠慮なしに言うのは流石だ。そして気になるであろうこの姿と名を問われ、静は少しだけ罰の悪そうに顔をゆがめた。

「わたしのせいだね。こっちに落ちる前に、狼の……なんだ、絵を見てたっていうので。ネーヴェという名前も、わたしが仮でつけた。元の世界の、異国の言葉で雪という意味だよ。だから他三人のところにいる小動物達も、あれ皆愛娘。伊織と一緒にいるリディアータは蛇が好きだからって理由で、ヨルっていう名前の由来は……分からないけど」

『正式にはヨルムンガンド、らしいぞ。リディ姉上はその意味を知らないようだが、静は知っているか? 何かの名称らしいが』

「あー……蛇の姿をしている伝説の生き物だねぇ。世界蛇と呼ばれるくらいに巨大な身体を持っていて、海の底に横たわって世界を巻き、自身の尾をくわえて輪になり世界を守る蛇らしい。わたし達がいる国の神話ではないけれども、そういう話がある。それとだけど、わたし達の国では白い蛇は幸運を意味しているものだから、とても良いものだと思うよ」

『おお、それは良いものだな! それに世界を守っているものの名とは心強い!』

「ね。メルはたぶん、そのままメルヴェアータからとったんだろうけど、猫かぁ」

『奈緒が猫好きらしい。真咲は鳥が好きらしいし、ラウディ姉上はあのディーヴァという名前をいたく気に入っていた。歌姫という意味があるそうだな』

「そうそう。ぴったりだよねぇ。こうしてみると、一番まともなのが伊織のところっていうのがさすがというか」

『私はこの名を気に入っているぞ。まさしく、この私のことだろう? 違うか?』

「違わないね」

 静が肯定すれば、ユフィアータは大変機嫌が良いのか、尾をぶんぶんと振っているし、顔は満面の笑みを浮かべているかのように大きく口を開けている。

 顔が一気にだらしなくゆるみそうになりかけ、静はつい片手で顔を隠した。

『どうした?』

「なんでもなぁい。ユフィアータ……ああ、もうその姿だしネーヴェで良い? で、リーリアに抱っこしてもらう?」

『うむ。この姿の時ならばネーヴェで良い。リーリア、リーリア。抱っこしておくれ。静がまた毛並みを乱してくれたのだ』

「ひゃいっ?!」

 何もかもが突然過ぎて追いつけていないであろうかわいそうなリーリアだが、そんなことは全て無視をし、子狼は静の膝から逃げ出し、リーリア目掛けて駆け出した。その姿は小さな子供が先生だかに言いつけに行く行動と対して変わらず、静はついに両手で顔を覆った。

 リーリアの焦りの声が聞こえるが、きゃんきゃん、くぅん、というその姿に大変似合う甘えた鳴き声を出すあざとさを覚えた子狼の声に負けたらしく、リーリアが情けない声を溢れ出しながらも抱えたようで、大変ご機嫌な子狼の声が続けて聞こえた。

「……よし。話がだいぶそれた気がするけど、こちらの事情は今話した通り。なんであれだ、聖女云々言われるのは正直勘弁したい」

『静、それは駄目だぞ』

「え」

『お前達を示す言葉だ。それは覆せん』

「リーリアに腹見せながら言うな、クソ」

 鋭い言葉を放ったネーヴェではあるが、その姿はというと腹を見せながら抱えられおり、毛並みを整えられていた。リーリアは静とネーヴェのやり取りに信じられないものを見るかのように世話しなく間を往復するが、手は迷いなくなれた様子で整えていた。さすができる侍女である。

「分かった、それは良いよ。で、なんで話したか、っていうのだけど……。なんていうかな、これ完全にこちら都合の話なんだよ、結局のところはね」

「……今のお話を聞く限りですが、静様達は、巻き込まれた結果、現状に至っているとのこと。であれば、この現状になっているのは完全に、こちら側の責になるのではありませんか」

「それはそう。大きく言えばね。けど個人として、リーリアとルイスに対して言えば、わたしの都合と言っても差し支えないと思っている。とくにルイスに関しては……まぁ、いろいろと正直世話になりっぱなしなところではあるのだけど。今日も部屋から出してもらったわけだし」

 昨日に引き続き、今朝も同じくルイスに手を引かれてようやく部屋の外に出ることが出来たのだ。情けないったら仕方がない。

「リーリアがわたしに懺悔をしたいと言って、思いを伝えてくれた。そしてルイスはこのようなわたしに手を差し出してくれている。だからわたしは、わたしが出来る最大限に信頼しているっていう意味として、今の事を話をした。そしてその上でのお願いって感じにはなるんだけど……」

 正直言えば気が引けるやり方だ。だってこれは、無理やりに真実を開示し、状況がこれなだけに感情に訴えたやり方に過ぎない。これもある種の方法の一つではあるが、もちろんのこと拒否されたときのことを考えるとしばらく完全に部屋に閉じこもる生活になるのは目に見えた。

「あの……、その、うん。さすがに、この状況で二人が離れると、困ると言うか……完全に終わると言うか」

「端的に申し上げてください」

 そしていざ言うとなると妙に緊張してしまい、言わなくて良いことまで若干口走ってしまう中、ルイスがぴしゃりと言葉を投げた。ので、静は慌てて、頭に一番の浮かんだ言葉をそのままに伝えた。

「たすけてほしい」

 静はずっと思考をまわしていた。けれども何もかもが手探りの状態で、手掛かりである愛娘達でさえ、この現状のせいもあってか力はほとんどないに等しく、せめてもの静達に己の力の一部を渡しているだけ。もちろんそれだけでもありがたいが、だからと言って協力者がそう簡単に見つかる訳ではない。聖女という立場を使い、ようやっと内部に入り込み、ここでその一片が確認できた。が、たったそれだけだ。

 奈緒のように器用に立ち回ることなんて出来ない。真咲のように明るく、誰からも好かれるような振舞いなんて出来ない。伊織のようにあの瞳に何かを見ようとも姿勢を崩さずに笑う嫋やかな心を持つことは出来ない。

 静は実際、かなり不器用だ。物覚えも実際の所、良いわけではない。何度も何度も間違い、読み直し、覚え直し、そして今こうしていられるだけだ。常に不安が付きまとい、ネガティプばかりの思考が回り、最悪どうしようもなくなれば暴力に手を出す始末。それでもかっこつけたくて大前切るばかりの禄でもない奴だ。

 そういえば、こう言う時前にもあったと思い出す。

 喧嘩をきっぱり止め、その為に母を一人残して地元から離れる時。静は友達に母をお願いしようとし、けれども身勝手にも程があると自覚していたが故に、はっきりとは言えなかった。が、そのうちの一人が、今のルイスのように聞いてきたのだ。そして同じように言った。たすけてほしい、と。

 友達はそしてすぐに分かったと、引き受けてくれた。

 そして今、あの時と同じく、静は言った。

 打算なんてものはない。ただひたすらに、どうしようもなくて、だから助けて欲しくて。たったそれだけ、それだけの願いでしかない。この沈黙がまるで永遠の如く、長いものだと思いそうになった時だった。

「え、あ、リーリア、なんで泣いて?!」

「私はぁ! 私、は……! 静様ぁ……!」

「あー、えっと。お、おいでー?」

 突如、リーリアが泣きだした。抱えられていたネーヴェは驚き、しかしすぐに流れる涙を拭おうと頭を押し付けている。あれやられた後、顔中が毛だらけになるが仕方がない。なんせ相手は子狼である。

 そして静はなんとなしに両手を広げてみれば、リーリアが飛び込んできた。

 今回は椅子に座っていたのと、一人ということもあって倒れる心配も受け止めきれないという心配もなかった。

「静様ぁ……私、私は、絶対に静様をお助けいたします……!」

「うん、うん。ありがと。涙ふこうね。ほら、ネーヴェはこっちね」

 こすらないように静は自身の服の袖口をリーリアの目元を抑えながら、軽く背中を叩く。

 そしてリーリアの背中越しにいるルイスと言えば、完全に呆れた顔をしており、何故か若干苛立ちが見え隠れしていた。理由は不明である。

「……ルイス……?」

「馬鹿な事を申し上げないでください」

「え、ば、馬鹿……?」

「そんなことを願いたいが故に信頼だのと言って、今この場で話されたことです。もっとも、それを開示するのであれば先です。今ではありません」

「ルイス、ちょっと厳しいかも。わたしが泣く」

「ああ、そうですか」

「あれ、冷たくない? え、もしや八つ当たり?」

 冗談っぽく、静は若干ふざけていってみたら、案の定図星だったのか、さらにルイスの不機嫌さが増した。

「よろしいですか、静様」

「何かな、その」

「個としての私達に願われるなら余計に、その願いは不要です。私達を信頼しているというのであれば、私達が貴方に向けているものを重々把握なさってください」

「こ、言葉でください。せめて、言葉……!」

 意味が分からない。とくにルイスに関しては普段から表情が読めないのだ。これをどうやって分かれと言うのか。せめて伊織を側につけさせて欲しいところだ。

「静様、私は、静様のこと大好きなんですぅ……!」

「わ、わぁ、嬉しいな。ありがとうね、リーリア。で、えっと、ルイス、は」

 また涙をこぼすリーリアの涙を拭きとりつつ、ルイスに視線を向ける。と、ルイスはまるで虫を嚙んだような顔をしている。全くもって意味が分からない。

「……静様だから、です」

「……えっと」

「静様、が……」

 ルイスは何かを言葉にしようとする。が、どうしても戸惑いがあるのか、静の名を繰り返すのみで口を閉ざしてしまいかけては、また口を開閉させようとしていた。

 様子をしばらく見ていた静は、抱き着いたままのリーリアにまた落ち着くまで椅子に座るようにと言い、ネーヴェを預かってもらう。そして静はルイスの元へと歩みより、軽く握った右の拳をルイスの胸元にあてた。

「とりあえず、だけど。信頼、のようなもの、なのかな。それを寄せてくれているのは分かった。ただ、ちゃんと言えるようになったら教えてね」

「……申し訳ありません」

「そういう時もあるよね。ってことでさ、ルイス。助けてもらっていいかな」

「当然です」

 一瞬、罰の悪い顔を見せるもすぐに、無表情に近い顔に戻り強く頷いて見せてくれた。

「頼りにする」

 言葉と共に静はぽん、と右の拳でルイスの胸元を軽く叩いた。

「とりあえずあれだ、この後ヴィンセントに報告するのもうだけど、君ら二人に包み隠さずに話しちゃったから、他三人から怒られるか何かしら言われるので、わたしの精神安定の為に美味しい紅茶をお願いします」

「……承知いたしました。それと、戻る時に抱えるのは変わりませんので」

「そこはさ、信頼してよ」

「転んで落ちるのが目に見えております」

 静自身もその未来が簡単に予想出来てしまったので、静はついぞ口をぴしりと閉じ、そっと視線をそらしたのだった。

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