11
王城内の一角。そこに神殿の色を示す紫紺の騎士服を身にまとうずいぶんと体躯の大きな中年の男が足早に突き進む。名はエドヴィン・ブラックバーン。大神官、ヴィンセントの護衛兼側近兼お目付け役という男が何故一人、この王城へと訪れているのか。
日頃の苦労か、ヴィンセントによる無理な頼まれごとか。そうでなくても普段から険しい顔をしているというのに、今日はいつにもまして険しく、群青の瞳をより鋭くさせていた。金の短く切りそろえられた髪が、風が吹いていないのにわずかに揺れているほどに男は駆けていくかのように通り過ぎる。
足に迷いはない。周囲はその先にある場所がどこか察し、ああ、と納得した。
あの先は漆黒の隊舎だ。先の件で、漆黒を主とした任務があったのだ。とある貴族がおこがましくも聖女を捕え、監禁していたと。偶然そこへ潜入調査をしていた漆黒がいたおかげですぐに発覚したが、きっと何かその件でのことだろう。
聖女は幼い少女だと噂が流れている。何かしらの問題なりがあったのだろう。表には出ていないが、あそこはそういったものをうまく隠すことを得意としている。だからおそらくはそういうことだ。
決めつけた周囲はそっと知らぬ存ぜぬ、しかし聞き耳をたてつつ、いつも通りの日々へと戻っていった。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
エドヴィンが漆黒の隊舎へともうすぐ着く、という所で見知った者がすでに立って待っていたことに気づき、ようやく足を緩めた。
「アルベルト」
「そこらの猪みてぇにうちに向かってくる奴がいるって聞けば……。あれか、その、謝罪しなきゃならねぇ奴?」
「会って早々何馬鹿げたことを言っているんだ、お前。見た目通りもっと堂々としろと言っているだろ」
「俺は! お前と違って繊細なの!」
ほぼ二人の体躯は同じく大柄ではあったが、片やエドヴィンはどっしりと構えているものの迎えたアルベルトは、何故か妙に腰が引けているし、足も心なしか後ろに後退している。
自分の隊舎ということもあるが、特に昔馴染み同士だからこそ、隠さずに堂々と本性を見せてくるアルベルトにエドヴィンは小さく笑って見せたが、すぐに顔を険しいものにさせた。
「謝罪ではない。だが、聖女関連についてだ」
「まじかよ。ってか、なんでお前が」
「急ぎである事と、周囲に余計な情報が広まるのを避けるためにな」
「お前のせいであらぬ噂が一気に広まっているわ。今」
「それは悪かった」
軽口を言いつつ、アルベルトは近くで様子を見ていた漆黒の騎士の一人を呼び止めた。
「おい。ルイスとオリヴィアを呼んで来い。ちょうど戻ってきているだろ。執務室だ」
「いや、急ぎだからすぐさまに来てほしいんだが」
「呼び出しかよ。いや、今すぐここに呼んで来い。用がねぇ奴はさっさと戻れよ」
騎士は言葉なく頷き、姿を瞬く間に消した。それと同時、周囲から感じていた視線の類も一瞬にして消え去った。
「……相変わらず、お前のところの技術は素晴らしいな」
「隠密の任務もこなしているし、これぐらい出来ねぇと話にならねぇよ。で?」
腕を組み、アルベルトはエドヴィンに続きを促した。
エドヴィンは一つ頷く。
「確認だが、聖女様……静様は、お体に何かしら虚弱なところがあるという話は聞いているか?」
「いや、聞いちゃいねぇよ。そもそも俺の目の前であの男の顔面に綺麗に拳を入れたお方だぜ? どこをどう見て虚弱になるんだよ」
「話は本当だったのか。是非とも一目見てみたいところだ」
「惚れ惚れするくらいに気持ちの良い拳だった。ありゃあ絶対に手慣れてる。ってそうじゃなくってな」
「静様が倒られた」
「それを早く言えよ! っていうか、なんでそれなら呼びに来たんだ! 俺らが行ってもしょうがねぇだろ! あ、俺は違うよな?」
「部下にだけ行かすのか、お前」
薄情な奴だな、と言葉なく言われたアルベルトは隠すことなく舌打ちで返答をした。
だが、倒れただけというのであれば必要なのは医師だ。神殿お抱えの医師はもちろんいるだろうし、何かしらの病で対処が難しいようなら青藍だってすぐに動く。
それだというのに神殿は、迷いなくこの漆黒にやってきた。
アルベルトは増えた気配を肌で感じつつ、髪をかき乱して疲労を誤魔化すように深く吐き出した。
「ルイス、オリヴィア。神殿に向かう」
「は……?」
「え、ちょっと。説明とか何も無しってどういうことですか!」
「それはこいつから聞く。こいつのせいで変な噂が立っちまっているから、堂々と正面から行くぞ」
「それに関しては本当に悪い。説明は向かいながらでいいか」
「ああ、防諜がいるな」
アルベルトが片手を振れば瞬時に周囲の空気が重くなった。無駄がない繊細な魔術は、アルベルトの得意とする一つだ。エドヴィンは嫌というほど見ているし、いい加減にもっと己に自信を持てと幾度も伝えているが変わらない腐れ縁の男に向け、わざとらしくため息をつき、踵を返した。
「おい、なんで溜息着いたんだよ。おい、エドヴィン!」
「説明する」
「無視すんな!」
とりあえず部下達の前ぐらい体裁を保ったらどうか、と一瞬言いかけたが今更過ぎるので黙って足を進めることにした。
駆けるがごとく、早足にエドヴィンはアルベルト達を引きつれ来た道を戻るさなか、ようやく口を開いた。
「静様が昨日、倒られた」
「あ、昨日? それじゃあなんで今になって。しかも騒ぎになってねぇっていうくらいなら、そんな大げさな話になってはいないんだろ」
先ほどアルベルトに伝えた言葉にもう一つの情報を加えれば、隣を歩くアルベルトは顔を盛大にゆがめた。二人の後に続いて着いてくるルイスとオリヴィアの気配が揺らいだが、無用な口出しをせずに閉ざしたまま。よく教育されている、とエドヴィンは頭の隅で関心しながらアルベルトの問いに答える。
「ああ。こちらに来てまだ日が経っていないからな、その疲れが出た、ということにしている。実際そのように思われたが別の問題が発覚した」
「何が」
「部屋の外に出ない。というより、出れない。昨日は大事を取ってそのまま部屋で休まれたが、今日、部屋の外で出ようとしたとき、静様が酷く怯えていたらしい。何かに恐怖している、と。伊織様がそのように話をしているから間違いはないだろう。ご本人はその理由が分かっておられない様子で、無理に出ようとして過呼吸になりかけた」
二人の後ろから、深く息を吐きだした音が聞こえ、もう片方がからあー、という声が聞こえてくる。わずか数日、侍従、侍女として側にいた二人が納得してしまうような出来事のようだ。
今もこうしている間に侍女や他の聖女達が見張っているに違いない。
「つまりなんだ。俺達、というよりこいつら二人を呼んだってのは、静様を部屋の外に出すってことか?」
「とにかくその怯えている理由が分からん以上、繋がりがある者を呼んだ方が手っ取り早い。あのままではまた無理に出ようとしかねない」
「俺、いなくてもいいんじゃないのか?」
「念のため、ということもあるだろう。顔つなぎは必要だろう? 何を甘えたことを言っているんだ」
漆黒だからこそ、顔つなぎというのは必要だ。エドヴィンの言いたいことが分かるアルベルトではあるが、正直なところ、顔を合わせにくいことがあった。
「俺、あの方を最初に子供って言っちまったんだよなぁ……」
「ん? 子供じゃないのか?」
「二十一だと」
「……まさか」
「そのまさか」
エドヴィンが無言で驚くのも無理はないだろう。
あの見目等々から人種からしておそらくはここから遠くの東の地の生まれであるのは見て取れた。名前もそちらの響きに近い。小さな背丈に手足。ゆったりとした口調と、幼さがほんのわずかに残る声質。丸い銀の瞳。そしてあの無警戒さ。ただ面白いことに思考の仕方はずいぶんと捻くれているおかげか、見ようによっては成人したばかりと言っても差し支えないが、見目はやはりどうやってみても幼い子供にしか見えなかった。
「そうか……。いや、あんなにも泣いておられたのもあったから、余計にそう思ってしまったのかもしれない」
「泣いて……? あ、申し訳ありません」
口を閉ざしていたルイスがついぞ、信じられないと言わんばかりに声を漏らした。
前の二人はそろって首だけ後ろに向け、すぐに視線を前に戻した。
「一瞬だけ見えただけだが、声がな」
「……おい、エド。近道とかねぇのかよ」
「もう少ししたら人目が無くなる場所に出る。屋根伝いで行くぞ」
「真面目な顔してそういうのはちゃっかり知っているんだな」
「当たり前だ。誰の護衛だと思っている」
「そりゃそうだ」
軽口をいうアルベルトだが、表情はより険しいものになった。そして後ろ二人からの空気も、どこか殺伐としている。
エドヴィンはより、最短となる道を計算しつつ、ようやく王城から神殿へと続く長い長い渡り廊下へと足を踏み入れた。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
すんすん、と鼻を鳴らす音が響く。
「ほら、静。あんまりこすると駄目よ」
「いらない」
「お水飲む? 見て見て、クレアが果物入れてくれたの」
「のむ」
「ちょっとせめてハンカチとか使いなさいよ。ああもう、袖がぐちゃぐちゃ」
「うぇえ」
「なんであたしの時だけそんな声出すのよ」
文句を言いながらも真咲は濡れた袖をハンカチでぬぐい、静を挟んで隣にいる奈緒は濡れた静の顔を綺麗なハンカチでやさしくぬぐった。
目の前に座る伊織がグラスに入った水を手渡してくれ、静は両手でそれを受け取り、こくりこくりと喉を潤す。
「静、ちょっと落ち着いた?」
「……ん、ごめ……ぅう」
「あーもう、無理に話さなくていいから。ほら、伊織が全部なんとなく察してくれるから!」
「私も静のお隣行きたい!」
「あんたはそこじゃないとよく見えないんでしょうが」
「うわん! そうなんだけど!」
口を開こうとすれば涙があふれるのはもう何度目か。
あらあらと奈緒が銀からこぼれる雫をぬぐい、真咲が慌てて静の両手からグラスを受け取る。二人が静の両隣にいるせいであぶれた伊織が目の前に座っている構図だが、ちゃんと理由がある。
口を開けば言葉の変わりに涙が出てくる静が何を思っているのか。伊織が得た黄金の瞳の力を利用して何とか会話、意思疎通を試みている最中なのだ。真正面、とくに静の目が見える位置にいる方が良く見えるということらしいので、伊織が真ん前にいるが、そろそろと隣に移動しても良いじゃないかと伊織が不満の声を上げ始めてしまっていた。
「で、どんな感じよ」
「なんか、こう。ぐちゃぐちゃ?」
「はーい、頑張って」
「うぐぅ! 静ぅ、一個だけ! 一個だけ、欲しいものとか! 思い浮かべたりとかして!」
心にない応援の言葉を真咲から貰った伊織は、ばふばふ、と自身のスカートを叩いてこうなれば無理やりにでも見せてもらう手段に出た。
両脇にいる子狼はそれは、と前足をちょこんと伊織の足に乗せたり、黒猫が大きく尾を揺らしてパシリと伊織の身体を叩くが無視だ。視界を塞ごうとする空色の鳥の翼をのかし、顔面に迫る白蛇の姿ににへら、と頬を緩ませそうになるも耐えて黄金の瞳をまっすぐに向けた。
こすりすぎてすっかり腫れて赤くなってしまった目元。濡れている頬。何か言葉を発しようとしているのに、出てくるのは喘ぐ声ばかりでそれで余計に涙が溢れだしている様子が、伊織の心をこれでもかと抉ろうとする。
それは黒いものだった。それは大きなものだった。それは小さな箱だった。それは何か、人の形を模して、すぐに消え去った。
あわただしく姿かたちを変える何かが、静の身体を覆ったり、胸の内へと戻ったりとせわしなくうごめいている。正直見ていて気持ちの良いものではない。だが、見なければならない。
静は何かに怯えている。再会した時、静の中心にはきゅっと何かが詰められているような透明の箱のようなものがあった。色が混ざり合ったが故の、あまり綺麗とは言い難い色だ。あまりにもみっちりと中身がつまっていて、紐だか鎖だかでぐるぐるにまかれていたのに、蓋の隙間から中身がうっすら漏れ出していたのは少しだけ驚いた。だからつい、誤魔化すように勢いつけて蛇の魅力について語りたいなんて言ったのだ。本当はそんなことよりも先に静のそれをどうにかするのが先決だったと、今になって後悔する。
今思うに、あれは静がこちらに来て耐えてきた感情なのだろうと伊織は思う。耐えて、じっと耐え続けた。そしてここに来て、再会し、何かのきっかけで耐えてきたものが弾けた。
何に耐えたのか。監禁されていたということはそのことか。けれども奈緒の話を聞くに、監禁中はなかなかに良い日々を過ごしていたと聞く。それならばその前、未遂ではあったが暴力を振るわれそうになったことか。それならば合点がいくが、これはまだ想像の域だ。静に聞けば間違いがないだろうが、この状態で聞いたらもっと悲惨なことになることを伊織はこの惨状を見て、すぐに理解した。
とにかく落ち着いてもらわなくてはならない。そしてこの中は、安全だと、怖いものはないのだと知ってもらわなければ。
それがまた姿を変える。が、一瞬それは黒から別の色に染まった。丸い写し鏡のようなものになったかと思えば、そこには深い森が映った。
伊織はぱちり、と瞬けばすぐにそれは消えた。
森だった。それもかなり深い森。一体そこに何があったのか。それとも、そこに行きたいのだろうか。
静は確か、森の中に落ちたと奈緒から聞いている。綺麗な花が一面に咲く、けれども深い森の中。そこに何かがあったのだろうか。
「伊織、どうなのよ」
黙っている伊織に、真咲がせっついた。伊織は黒いそれから目をそらして、真咲の空を見た。
「見えた、かもだけど……。よく分からないというか」
「どんなのよ」
「木、というか。たぶん、森」
「森ぃ? 後は?」
「うーん。ぐちゃぐちゃしてるぅ」
あれは一体何なのか。ふい、と奈緒が顔を上げた。視線を追えば、クレアとリーリアがあわただしく扉の向こう側で控えていたレオナとアリッサと顔を突き詰めてこそこそと話をしている。
何かあったのかと見ていると、リーリアが迷いを見せながらも頷いていた。そしてなるべく足音を立てず、四人が座るソファの傍らまで歩み寄った。
「静様。その」
「何があったの?」
答えられない静の変わりに奈緒が聞く。リーリアはわずかに頷いた。
「漆黒の方々が面会のご希望をしております。いかがいたしましょう」
「漆黒?」
「え、誰?」
「えっと、静。知り合い? あれ、静?」
奈緒、真咲が準に首を傾げ、伊織も同様に首をかしげつつ、答えられない静に駄目もとで聞こうと見て、伊織は目を丸くした。
今までずっと俯き、ずっと涙を流していた静が顔を上げ、赤く泣きはらした銀の瞳をこれでもか丸くしていた。
「ぅえ? え? や、やだ」
「え、ですが。静様」
良く見なくても分かるほどに動揺を隠せず、ようやく言葉を発したかと思えば、まさかの否定だった。
リーリアが何とか会ってもらおうとしているのか、口を開きかける前に、扉が勢いよく開いた。
「おい、邪魔するぞ」
「ヴィンセント様。お願いですから、ここは女性の部屋なので」
「ああ、知っている。おい、静。こいつら連れて来てやったぞ」
「ええ。私が、ですが」
「お前一々うるさいな、エドヴィン」
それなりに大きい両開きの扉が、今や全開に開ききっている。おかげで廊下にいた全員の姿が良く見えた。
扉の向こうにはヴィンセントが堂々仁王立ちをしており、その後ろをエドヴィンと呼ばれた神殿の大柄の騎士が一人。それと奈緒、真咲、伊織が知らぬ、神殿では見ない黒い騎士服を身にまとった三人。人は神殿の騎士の男とそう変わらぬ体躯。もう一人は美麗な女性の騎士。そしてもう一人が褐色の肌の青年の騎士。と、何とか止めようとしていたアリッサとレオナの二人だ。
「ほぉ、静。なかなかにいい顔しているな。そんなに驚いて声も出ないか、うん?」
静だけではなく、室内にいた全員が驚きで声が出ない中、ヴィンセントがそれは面白いと言わんばかりに口角を上げていた。
誰もが次、どうやって動けばいいのか分からず、沈黙が訪れそうな気配がしたかと思えば、ヴィンセントの綺麗な顔が歪んだ。
「なんだ、これも駄目か?」
「本当に静かにしましょう。ヴィンセント様。こちらに移動して」
エドヴィンに促されたヴィンセントが不服でしかないと言うほどに腕を組みつつ中央から退かせられた。
そして半ば強制的に前に出てくる他なくなった黒い騎士達だが、大柄の男が女性と青年の背中を押して自身は後ろに下がっている。というより、腰が引けている。図体の割になんて臆病なのか。三人が無言の押し問答が繰り広げられているようだった。これは一体どうすべきか、と周囲が戸惑いを隠せずにいると噴き出すような小さな笑い声が部屋に響いた。
「……え、あ、ごめ……んふっ」
ふふ、んふふ、と先ほどまで涙をあれほど溢れ出していた銀がゆるりと細まり、耐えようと口元を小さな手で押さえているが、肩が小刻みに上下している。そして耐えきれなかったのか奈緒の肩に顔をうずめて、くぐもった笑い声が続いた。
「……し、静? し、知り合い?」
「んふ、くふっ……そ、そう。ごめ、お水」
「はい、お水ね。あ、もしかして、助けてくれた騎士って」
「そう」
奈緒からグラスに入った水を今度こそちゃんと受け取り、一気に半分まで飲み干した。
「後ろにいる方が漆黒の隊長のアルベルトさん。それと、監禁されていた時に傍にいて入れたのがあそこにいるルイスとオリヴィア」
「隊長なのに腰引けてるように見えるんだけど」
「ちょっと繊細さん?」
「ほら。ルイスさんとオリヴィアさんが静のことを良く知っているし、守ってくれていたから。そういうことよ」
真咲が呆れ、伊織が図星を貫き、奈緒が角が立たないようにしようとする。が、件の隊長はそっと視線をそらし、部下であるルイスとオリヴィアから無言の圧をかけられていた。
「なぁ、俺って来る必要あったか?」
「見たところあったと思うぞ」
「良い働きだったな、隊長殿」
情けない声が聞こえたがこの場は無視だ。
ようやく張り詰めた空気が程よくとけたところでオリヴィアが満面の笑みを浮かべて手を大きく振った。
「静さまぁ! オリヴィアとルイスが会いに来ましたよ!」
きゃあ、と黄色い声をあげるかのような目が覚めるようなほど綺麗な声で静を呼ぶ。中に入らずにいるのは同性であろうと、中に入る許可をもらっていないが故だ。静は一瞬手を上げ、迷うように奈緒や、真咲、伊織と順に見やった。
伊織はすぐにその意図を知り、小さく首をひねった。
「うーん。まだ静と一緒にいたし……けど、あの人達の話も気になるし。一緒にお部屋移動する?」
「ああ、そうね。ちょっと空気の入れ替えとかも必要だもの。談話室もあることだし、そこに行きましょ」
「あそこ良いわよ。庭が良く見える方」
伊織と真咲が先に立ち上がり、それぞれ自身の小動物と黒猫、銀の子狼を抱える。奈緒は静の手を引いて立ち上がり、そのまま手を引いて部屋の外へと向かう。静の足取りは軽く、嫌がるようなそぶりがないことに奈緒達が内心安堵して、そのまま扉の枠をくぐり、そして奈緒の手は強く弾かれた。
「え、静?」
奈緒が振り返り見て、紫の瞳をこれでもかと見開いた。
今朝と同じく、変わらない静がそこにいた。両手を胸の前で強く握り、身体を大きく震え、顔は血の気がなくなっているほどに何かに怯えていた。遅れてうまく呼吸が出来ないのかひゅう、ひゅう、という音が聞こえ、銀の瞳が涙に溺れる。
伊織の黄金が、それを映す。黒いものだ。黒いいくつもの何かが静を見降ろしている。見下ろすほどに大きなそれは、人だ。大きな人の形を模した黒いそれが、静に伸びていくのが視え、伊織が静のもとへと駆け寄るよりも先に、より黒い、漆黒の影が静の前に移動した。
「静様」
凛とした青年の声が、まっすぐに静を呼んだ。静がルイス、と呼んだ青年は恭しく手のひらを向け、もう片方の手を自身の胸元に添える。
「お迎えにあがりました」
迎えに来たというより、会いに来たというのが正解だろう。あまりにも似つかわしくない台詞だった。それだというのに、静は一瞬呆気にとられるも、ああ、と小さく声を漏らし、迷わずにその手を迷わず取った。そしてそのまま手を引かれ、静は何も怯える様子すら見せずようやく部屋の外に出た。
「自力で、と前おっしゃられておりましたが」
「いや、あの、あれは」
「談話室はどちらでしょうか」
「え、ルイス? あの、ルイス? 手、あれ、離れない。あれ?」
アリッサ達があちらです、と先導をする。ルイスは静の手をしっかりと握ったまま、後に続き、静と言えばなんで手が離れないの。あれ、おかしいな。ルイス、ルイス? と呼びかけつつも大人しく手を引かれたまま連れられて行ってしまう。
「面白いものが見れた」
「ほぉ、なかなかやりますな」
当然のごとくヴィンセントも着いて行くようで、控えているエドヴィンも当然ながら後に続いて行く。
「男だなぁ、ルイスは」
「まぁ、すごい。ルイスってばだいたーん」
アルベルトが何故か感心し、オリヴィアがわざとらしく両手を頬にあて、きゃ、きゃ、と声をあげる。
一体何事か。いまいち状況を理解できない奈緒と真咲だったが、伊織はそれを見て、ようやく分かった。
漆黒の青年が静の前に立った時、その瞬間、黒いそれが動きを止め、なんとも呆気なく散り、姿を崩して消えた。そして静が彼の手を取り、部屋の外に出る。横顔しか見えなかったが、銀の瞳はまっすぐに彼を無垢に見上げていた。一切の躊躇なんてない。ただ、目の前に彼がいるという絶大な信頼のもと、静が抱えていた何もかももようやく溢れ出すのを止めた。
伊織は静の信頼を勝ち得た青年を見やる。一体どうやってそこまでしてなったのか。どうして静は彼を選んだのか。それを知りたくて。
彼は周囲を一切目を向けることなく、静に無理がない範囲ではあったが足早に横を過ぎ去った。よく、よぉく、その顔を見て、伊織はあ、と口を丸くした。
森だ。森が、そこにあった。彼の青年の瞳の中に、深い森に似た深緑があった。
そして続いてみたのは、僅かに耳を朱に染めた色で、伊織はおや、と器用に片方の眉尻を上げた。
「ちょっと伊織、いつまでぼうっとしているのよ」
「伊織、行かないと」
「あ、ごめーん」
慌てて伊織は二人の間に並び、伊織の腕の中にいたメルが器用に奈緒の腕の中へと移動した。
「もう、メルったら。伊織、大丈夫? その」
「あ、うん。大丈夫。あのね、たぶん。静、あのルイスって人が来るの、待ってたかもって思って」
「何か見たの?」
「そういえば森とか言ってたわよね。それに関係でもするの?」
こそこそと周囲に聞こえないよう、顔を寄せてくれる二人にだけ聞こえるように声を潜めながら伊織は答えた。
「うん。あの人の目、深い森の……深緑の色だったから。たぶん、そうかなって」
あの彼を表すのが森であるならば、静はあの時、ちゃんと伊織の言葉を聞いて欲しいと思ったものを一瞬だったが思い浮かべてくれたのだ。
二人は顔を見合わせ、真咲はにんまりと口元に笑みを浮かべ、奈緒は片手で口を覆う。
「へぇ、面白いじゃない」
「え、うそぉ」
「ほらほら、二人とも。行こ! 置いてかれちゃう!」
伊織はよーいどん、と先に行く集団へと小さく駆けた。これ以上は秘密だ。きっとその方が良い。
そうでないと、またきっと静が困ってしまうし、せっかく迎えに来てくれた彼が来なくなってしまうかもしれない。だから今は秘密にしよう。
「静、嬉しそうで良かったぁ」
何はともあれ、静の心が穏やかになったのだ。原因は不明ではあるが、今は喜ぼう。そして一緒に甘い甘いお菓子を食べよう。
そう決めた伊織は、クレアに甘いお菓子を頼むための算段を考えることにした。
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