10

「すごいね、もう覚えたんだ」

「覚えることだけは得意なのよ」

「掃除は?」

「あれはもう趣味というか、日課だからまた別ね」

 広く長い廊下を静と奈緒が並んで歩く。少し遅れ、後ろには静付の侍女、リーリアと、奈緒月の侍女だというレオナが並んでいく。リーリア同様に静の黒髪よりもずっとつややかな黒髪をひっつめた髪型をしており、垂れ目がちの紺の瞳はとても穏やかそうに見える。が奈緒曰く、笑顔で力に物を言わせるというたくましい人だと聞いて、とても話が合いそうだと静は思った。

 静よりも早くに大神殿に保護された奈緒は趣味というより習慣の掃除をこなしながら、大神殿の中をあらかた覚えたようだった。聞けば、だいたいのものは一回見れば覚えるという素晴らしい特技を持っていると言う。

 おかげで案内をするものがいなくとも、こうして奈緒が先導してくれているのだ。

「ごめんね。ネーヴェのこと持ってもらって」

「いいのよ。メルを持ってもらっているし」

 そして二人の腕の中。銀の子狼ことネーヴェは奈緒の腕に抱えられ、そして静の腕の中には紫の瞳をもつ黒猫がゆったりと大きな欠伸を一つこぼした。

 何故こうして逆に抱えているのかと言うと、最初は二匹とも自分の足で歩いていたのだ。それはもう仲良く遊びながら。見ている側からすればほほえましいがしばらくして、メルが疲れたのか抱っこと奈緒にせがんだのだ。

 持ち上げた前足をぐっと上まで上げて、奈緒の足にてい、とついた。

 奈緒は渋い顔をしつつも拒まずによいしょと持ち上げようとして、ふと静を見た。

 持つ? と言いたげに。

 静は迷いなく頷き、今に至っている。

「そんなことよりもよ。静の話が聞きたいの」

「えーっと、どこまで聞いてる? っていうか、真咲と伊織は?」

「ゲーム盤でお遊び中。最近流行っているものらしいのだけど、二人もすっかりはまったわ。おかげでこうして話が聞けるわけなのだけど。さすがに内容的にも、二人にいきなり聞かせるのはどうかと思って」

「ああ、そっか。っていうことは、ある程度は聞いているんだ」

「少しよ」

 監禁されていて、助けだされて、夜通し馬車でやってきた。

 静から言ったのはそれだけだが、奈緒の様子から見るに他の事も少しばかり耳にしたのが険しい表情から読み取れた。

「ここに来る前、というか落ちた場所か。よく分からない森の中にいてね。あ、すごくきれいな花が一面に咲いてる場所だったよ」

「あら、良いわね。私なんか、きったない閉じた部屋の中だったわ」

「それは災難。確か掃除をしたとか」

「ええ、頑張ったわ。あ、ごめんなさい。話の腰追って。それで?」

「うん。それで、とりあえず森の中歩いてたら、えと」

 森の中を歩いていたのだ、ネーヴェを抱え。そして、それで、出会ったのだ。あの恐怖に。

 あの時のことを思い出そうとすれば、あの時に知った恐怖がよみがえる。静よりも大きな体躯、黒い影、いくつもの手、痛み、そしてそれから――。


 きゃん。にゃおん。

「静、大丈夫よ」

 耳元に奈緒の声が聞こえたかと思えば、柔らかく温かいものが静の身体を包んでいた。

 一体何かと銀の瞳を瞬かせれば、奈緒が抱きよせたのだとすぐに分かった。そして二人の間にいるネーヴェとメルが静を見上げてきたかと思えば、それぞれ頭をそこそこ勢いよくこすりつけてきた。

「大丈夫、大丈夫だから。怖いものはないわ。ゆっくり息を吐ける?」

 大丈夫だと答えようとして、うまく声を発することが出来なかったことに今更ながら静は気づいた。奈緒の言葉の通りにゆっくりと息を吐きだして、そこでようやく呼吸がうまくできていなかったのだと気づいた。

 静は肺の中がからっぽになるくらいにゆっくりと長く吐き出した後、時間をかけて新鮮な空気を取り込み、もう一度大きく吐き出した。

「……うん、ごめん」

「そこはお礼言ってくれると嬉しいわ」

「そうだね。ありがと」

「ん。ネーヴェ返すわね。ほらメル、おいで」

 奈緒が静から離れる前に、腕の中にいた黒猫は軽やかに奈緒の腕の中へと移動し、代わりにネーヴェが静の腕の中に飛び込んできた。

 馴染みの良い銀の毛並みを指の間にくぐらせた静は、ふっと強張っていた口元を緩めた。

「……うん。あのね。ちょっと怖いことがあってね」

「無理に話さなくてもいいのよ?」

「いや、そのさ? なんていうかあの時、正直よく覚えてないんだよ。いろいろとあって」

「それなら思い出す必要ないってことじゃない? 嫌な記憶ってことでしょ」

「そうかもだけど。なんか負けた気がしなくもないというか」

「誰と勝負しているのよ」

「んー……、自分?」

「馬鹿ね」

「ねー」

 あまりも衝撃が強すぎて、本来であるならば記憶に強く残るようなものだったが、実を言えば静はたいして覚えていない。それほどまでに強烈に嫌な記憶として残ってしまった。

 話したくないなら話さない方が良い。なんせ覚えていないくらいだ。けれども静は、それが許せなかった。

 自らが暴力を使うような人間であるからだ。事実、こちらに来て対して知らない相手の顔面に拳を入れたくらいだ。暴力を使って相手を無理やりに屈服させている時点で、己もまた暴力を振るわれても仕方がない人間だとも自覚していた。様々な差はあれど、あれに屈服してしまっては己がただ一方的に弱いものを優位な立場から屈服しているとそう違わないのではないか、とつい考えがよぎってしまうのだ。

 目には目を。歯には歯を。

 ハンムラビ法典の有名な一説だ。

 それを用いて静は暴力には暴力を、と考えている。つまり暴力をふるえばそれなりのものが返ってくるということ。昔のツケが今に来たと考えれば自然だ。だからこそ、静は弱く甘えそうになる己に負けるわけにはいかなかった。

「あの……えーっと、あれだ。未遂の乱暴? 強姦? ちょっと遅かったら売り飛ばされてたかもしれない」

「賊に襲われた、っていうことしか聞いてないわよ。ちょっと」

「そっかぁ」

「そっかぁ、じゃないわよ! すっごく危ない目にあっているじゃない!」

「ね。けど本当にやばくなる前に助けてもらったわけだしさ。監禁されたけど」

「良かったとは言えないのがつらいわ」

「比較的良かったよ? と言うか、だいぶ良かったと思う」

「どこがよ。監禁されたんでしょ?」

 ストックホルム症候群とはこのことか。いや、違うか。静はどうだろうな、と思いながらもあそこで過ごした日々を思い返す。

 最初の出来事があまりにもひどすぎて正直比較するのもどうかと思うが、それを差し引いてもなかなかに条件、状況は良かったように思えた。

「食事が美味しかった」

「ああ、それは大事ね」

「部屋、すごく綺麗だった」

「とても大事なことだわ」

「それと、侍女さんと侍従さんが優しかった。というか、偶然なのかは分からないけど、二人の正体っていうのがあそこに潜入していたこの国の騎士の二人でね。おかげで数日あそこにいるだけで済んだから、だいぶ良かった」

「何それ、すごい偶然。え、じゃあ、前から目をつけられていたような人に監禁されてたわけ?」

「そうみたい。詳しくは全く聞いていないから分からないけど」

「そうなの? まぁけど、聞かないことが良いときもあるものね」

 世の中、知らないことが良い時があるというのがある。知ったことで今まで大事に抱えてきたものが一気に崩れることもあれば、不用意に巻き込まれることだってある。

 だから不必要に知る必要はない。例え、それが自分にどのような影響があろうと、知らなければ今のところは問題はないということだ。

「騎士かぁ。侍女ってことは女性の騎士? なんだかかっこいいわね」

「うん。かっこよかったよ。フリフリのドレス着せられそうになった、というか着せられたけど」

「着たの? 見たかったぁ。着ない?」

「絶対に着ない」

「えー、絶対に似合うのに。ねぇ、えーっと、リーリアだったかしら。似合うと思わない? ほら、すごい笑顔よ」

「……言わなきゃ良かった」

 そう、今の通り、知らないこと、教えないことが良いことだってある。

 自分の発言に首を絞めた静は、明日からの服がフリフリのドレスでないことを強く強く祈った。


 大神殿の中はいくつかの区画に分けられている。

 表門から中庭の中に設けられている祈りの間までの区画は信徒達が出入りする場所だ。騒ぎや混乱等々を避けるため、そこに近づくのは基本禁止されているとのことだった。

 大神殿の中には居住区画がある。リーリアのような侍女達はもちろん、神殿に仕えている騎士、神官と言った様々な者達が暮らしている。位によってあてがわれる部屋が異なるらしい。静達がいる場所は居住区画ではなく、さらに奥に続く離れのような場所ということもあって、近づかなければ会うことはない。

 外部からの来賓をもてなす部屋もある他、ただっ広い部屋というか広間もある。いざと言うときに使われるとのことだ。いざというときの内容について、静はあえて聞かなかった。

 もちろん食堂もある。広い空間に長机が並べられた場所で、併設されている厨房はいつも騒がしいとのことだが、奈緒がお菓子を作るときはそこを使わせてもらうらしい。

「お菓子作りは趣味よ。ちゃんと分量とレシピさえ守れば失敗なんとほとんどしないし」

「そうなんだ?」

「ええ。お菓子作りは科学よ」

 どこかで聞いたことがある言葉だ。確かに重曹なんて、学生の理科の実験とかで使われなかっただろうか。生地を膨らませる実験、だったような気がする。

「ホットケーキ食べたいかも」

 それを思い出したせいか、静の頭の中にぽん、とホットケーキが浮かんだ。

「良いわね、ホットケーキ。明日でも良いなら作るわよ」

「本当?」

「ふふっ、どんなのが良いとかある?」

「え、あ、えっと、よく見るやつ」

「分かったわ。美味しいジャムがあったのよ。それ少し分けてもらって食べましょ」

「やった。楽しみ」

 幼い子供のように笑った静に、奈緒は目を細め、困ったような顔を見せた。

「なんだか心配になるわ。静見ていると」

「なんで?」

「食べ物に釣られてどこか行きそう。ねぇ、なんで顔そらすのかしら?」

「……いや、ちょっと、一回だけだったし」

「いつの話よ、それ」

「小さい頃の話だから。後は我慢してるし」

「我慢って。そもそも我慢ってどういうことよ。後でじっくり聞かせてもらうから」

「はぁい」

 しかし目の前に美味しそうなものがあったら、自然と足を向けてしまうのは仕方がないと静は言いたい。が、そっと視線を奈緒に向ければ、じろりと紫の瞳を細めて見下ろす視線がばちりと合い、すぐさまそらした。

「良いわ。つまり美味しいものを作れば釣れるってことでしょうし」

「美味しいの作ってくれるの?」

「嬉しそうにしないの。静ってもっとしっかりしていると思ったけど、妙に素直っていうか、子供っぽいっていうか」

「もう成人してますぅ」

「そういう所よ」

 にゃにゃ。きゃう。

 奈緒の他に小動物二匹から、そうだそうだというような声が続き、静はきゅっと口をつぐんだ。

 違う。絶対に違うと言いたがったがすぐに、いや、これが子供っぽいとみられる奴だと自覚してしまった。けど仕方がないだろう。だって、違うし。大人だし。いや、化粧は苦手だけど。成人したから。

 なんて言い訳を黙って頭の中をぐるぐると巡らせていく。

「全く静ってば。なんて顔しているのよ」

 奈緒が笑っているが、静はぶすりと口を閉ざしたまま。そのせいかくすくすと笑い声が小さく響いた。

「ふふっ……ごめんなさい。ああ、そうそう。静って本は読むの?」

 急に変わる話題に静は一瞬理解が遅れたが、その問に間を置くこともなく頷いた。

「うん、読む」

「良かった。それなら良い場所があったのよ。一応出入り自由って聞いているから興味があったら行くと良いわよ」

「良い場所って……?」

「大書庫室。この大神殿の地下にあるの」

 奈緒がにんまりと笑みを浮かべた。

 長い、薄暗い階段を下りて行く。ずっとずっと下りて行った先にある厳重な扉の向こうに歴代の本が集められた書庫があると言う。

 首が痛くなるほどに背の高い書架がいくつも並び、もはや数えきれない本が蔵書されている。一体いつの時代の本なのかさえ不明の、触れれば崩れてしまいそうな本もあれば、真新しい紙の本もあるという。

 それはなんて面白そうな場所だろうか。静は無意識のうちに銀の目をくるりと丸くし、ついで口も丸くして、どこか目を輝かせていた。

「すごいなぁ、そんな場所まであるんだ。奈緒はもう本読んだの?」

「それがね、あそこ。すっごく埃っぽいからくしゃみが止まらないのよ。だから行ったのは一回だけ。中もよく見てないわ。体質だから仕方がないけど、掃除が日課になったのもこれが原因の一つね。それに私、あんまり本読まないし」

「うわぁ……。あれ、でも。奈緒って書店で働いていたんだよね。本とかはあんまり読まないの?」

 書店で働くくらいだ、だいぶ本が好きなのだろう。とド偏見も良いところだが、静は勝手ながらにそんなことを考えていた。奈緒はわざとらしく肩をすくませてみせ、苦笑を漏らした。

「あの時はどこで働きたいとか、そういう感じじゃなかったのよ。だから、バイトからそのまま正社員になっただけ」

「へぇ、そうだったんだ」

「けど向いてはいたわよ。この記憶力だもの、どこに何があるのかってすぐ覚えられるから、お客さんもそうだけど特に同僚とか先輩達に頼られてたわ」

「それは頼っちゃう。何かあったら頼るね」

「仕方がないわねぇ」

 駄目と言わない奈緒に、静はふへと、頬を緩めた。

 えい、と奈緒が軽く二の腕を静の身体に添えるように当てた。静もまたやり返すように体を寄せて見た。

 ちょっとしたじゃれあいのようなことをし始める聖女達。その後ろに控えている侍女達は微笑ましく眺めていた。


「さ、ここが最後。いろいろなお仕事をする場所、だそうよ」

「人がいないって思ってたら、ここにいたんだ」

「そう。私もびっくりしたわ」

 今日、奈緒が案内をしてくれる最後の場所。執務区画だ。

 あれほど大神殿内ではほとんど見なかった人影が、ここに入った途端一気に現れた。

 同じ廊下だというのに、神官の服を身にまとっている者達が何か本を抱えていたり、神の束をもってあわただしく移動をしている。

 扉が大きく空いたままの部屋が目に入った静はちらりと視線を向ければ、男女が何か険しい顔をしながら議論をしているのあろう、そんな様子もうかがえた。

 どの神官達も奈緒の姿を見て、そして横にいる静に遅れて気づきながら立ち止まり、一瞬頭を下げて、あわただしく通り過ぎていく。神官だけではなく、騎士の姿はもちろん、他にも衣服が違うことぐらいしか分からないが、おそらくは神官以外の役職の人間達も多く散見した。

 静は無意識のうちにネーヴェを抱える腕に力がこもり、ほんの僅かだけ奈緒の影へと体を引いた。

「……わたしは、ここはあんまり来ないかも」

「人が多いものね。戻る?」

「良いの?」

「ええ。ちょっと歩き疲れたし、さっきから静、歩くの遅くなってると思ったらちょっとつまずきかけたりしているし」

「そこは気づかないでよ。恥ずかしいじゃん」

「ふふっ、気を付けないよ。それに何よりメルをずっと抱えていると肩がこるのよね。ねぇ、もう歩かない?」

 んにゃ。

「いやって何よ。仕方がないわね」

 奈緒の腕に未だにくつろいでいるメルはちゃっかり眠っていたのか、紫の瞳を細く瞬きながら尾を大きく揺らした。絶対に嫌だ、と言いたげなメルを奈緒は大きく息を吐きだしながら抱え直し、来た道を戻ろうと踵を返す。

 静も習ってすぐに踵を返す、返そうとした。

「奈緒様!」

 誰かが奈緒を呼び、奈緒は足を止めてそちらを見やった。静もその視線の先を見れば、複数の男の神官が歩み寄ってきている所だった。

「この前はありがとうございました。本当に助かりました」

「いえ、ただ単に掃除しにお邪魔しただけなので」

「それでもです! おかげで書類の整理が大変やりやすくなって……!」

「そうですよ! 毎回書類探す羽目になっていたこいつがようやく……」

「今日はどのようなご予定でこちらに……、っと、そちらにいるのはもしや?」

 奈緒の前に集まっていた三人の男達がそろって静に視線を向け、静はびしり、と身体を固くした。

「ええ、そうなの。私達が待っていた子よ。静と言うの。今日は静にちょっとだけ案内をしていたところなの」

「そうだったのですね。しかしここは見ての通りあわただしい場所ですし、あまり面白味はないかと」

「そうですね。であれば、もし平気であれば騎士が訓練をしている場所なぞはどうでしょう?」

「おい、女性にそれを勧める馬鹿がいるか。薬草園と言った場所があるだろう。まずはそこだ」

 やいのやいの。目の前の男達がそれぞれ一斉に話す。奈緒が何とか止めようとするが、その間に一人、また一人とこの騒ぎを受けて人が増えていく。ちょっとあぶれた男達が周りに囲うように立ってくる。

 人のよさそうな空気を纏う男達だ。けど男達が増える度、静はおかしな感覚になってきていた。

 いや、あそこはどうだ。

 いやいや、今あそこはまずい。というよりもいつまでもこうしたままはまずいだろう。

 もてなすのが先決じゃないか。

 そうだそうだ、お茶を用意せねば。

 どうでしょう、部屋を開けますので休憩などなされては。お茶をご用意いたします。

 そんな。わざわざ……。静、どうする? 静?

 奈緒の声は確かに聞こえるし、呼びかけられている。しかし静はおかしいことに、妙に呼吸がしにくくて、聞こえてくる声が変に歪んでいるような気がした。

 奈緒が心配そうに顔を覗き込み、近くにいる神官の男がそして、静へ手を。知らない手が静に伸ばされる。

 きゃんっ、がぅ!

 ネーヴェが歯を見せるように唸りを上げ、小さな身体に似つかぬ声で幾度も吠えた。なるで触るな、というように。

 ネーヴェ。どうしたのよ、静。え、ちょっと静っ?!

 奈緒の妙に焦りがにじむ声が耳の奥に響く。答えなければ。答えなければならないのに静の視界は一気に暗くなる。

 届かない。どうして、ねぇ。ここにいるのに。

 なんで、どうして。

 静は消える意識の中、深い深緑の瞳を思い出す。

 またね、と言ったのに。会いたいのに。願ったのに。

 今度こそ、静は暗闇の中へ落ちていった。


 -*-*-*-*-*-*-*-*-*-


 香しい紅茶はもうすでにすっかり冷え切ってしまい、山のようにあった焼き菓子はもうすっかり姿が消え失せていた。

「うぐ……っ、もぉおおお! もう一回よ、もう一回!」

「真咲ぃ、これで何度目? 私疲れちゃった」

「あたしが勝つまでよ!」

「だからハンデあげるって言ったじゃぁん!」

「駄目に決まってるでしょ!」

「真咲メンドクサイ!」

 テーブルを挟んで座る真咲はせっせと遊戯盤の駒を整理する。相手をしている伊織は顔をきゅっとしかめつつも、大人しくけどもわざとらしく、ゆっくりとした手つきで駒を整理し始めた。

 二人は巷で流行っているという遊戯盤で朝からひたすら勝負を続けていた。チェスに近いようなものだが、駒の数は多いし、それにともなって盤も大きい。かなり戦略を練る必要がある知的遊戯盤だ。

「少し休憩なさった方が良いと思いますよ。ねぇ、アリッサ」

「真咲様。負けは負けです」

「ちょっとアリッサったら」

 壁際に控えている侍女二人。金髪に緑の瞳を持っている方、クレアは伊織付の侍女だ。そしてもう一人、茶髪に美味しそうなヘーゼルナッツのような瞳を持つアリッサは真咲付きの侍女だが、これが何とも妙に真咲を煽るようなことをよくするのだ。

「アリッサ! あたし付の侍女なのよね! さっきから妙にきついんだけど!」

「先ほどから同じ手で負けていますよ」

「……え、本当?」

「はい。紅茶を入れなおしますので、一先ずその間に違う手でも考えた方がよろしいかと思います」

「ねぇ、言い方どうにかならないの?」

「申し訳ございません。なんのことだかさっぱり」

 無表情で答えつつ、慣れた手つきで紅茶の準備を始めるアリッサに、クレアは小さく肩をすくめた。

「もう。真咲様がさっきから疲れが見えているからって、素直に言えば良いのに」

「クレアは黙って。紅茶を一度下げさせていただきます」

「疲れてなんかないわよ。ちょっと待って、飲むから。これ、冷めても美味しいのよね」

 残り一口、二口程度の冷めた紅茶を迷わず真咲は飲み干し、はい、と手を伸ばしていたアリッサに渡した。

 無表情だったアリッサの顔が、ほんの少しばかり歪んだが何も言わずに紅茶を入れなおす準備に入る。クレアも同様に伊織の空のカップを下げた。

「最初はあたしが勝っていたのに」

「だって真咲、分かりやすいんだもん。あ、えっと」

「友達にも言われたことがあるわよ、分かりやすいって。次はディーヴァの羽で顔でも隠した方が良いのかしら。ね、どう思う、ディーヴァ」

 真咲の肩に止まっていた握りこぶし大ほどの空色の鳥、ディーヴァはくり、と頭をひねらせ片方の翼を広げてみせた。

「それだと逆に目隠しにならないの? ヨルもそう思うよね」

 伊織はそう言って、首にぐるりとまきついていた金の瞳を持つ白蛇に声をかける。白蛇は頭をゆっくりと持ち上げ、しゅるり、と舌を伸ばした。

「確かにこれ、ただの目隠しになるから駄目だわ。良い考えだと思ったんだけど」

「見えなくなっちゃうもんね」

「ほんと、それ。っていうかあれよ、だから別に伊織のそれで見られても今更って感じだから気にしちゃいないわよ」

「……うん、ごめん」

「謝ったら怒るわよ、って言ったわよね」

「難しいこと言わないよぉ」

「言わなきゃいいだけでしょ。お茶飲んで休憩したら続き、やるわよ」

「はぁい」

 不本意げな返事をする伊織は、黄金の瞳を小さく揺らした。それを真咲は見逃しはせず、けれどもとくに何も言うことはなかった。

 ようやく集まった四人の中で、伊織と真咲だけが今のところ力を使えている、らしい。

 奈緒はまだ使っていないと、二人そろって聞いている。静についてはまだ詳しい話を聞けてはいないが、そんな話はまだ聞いてはいない。だからおそらくまだ、力を使ってはいないのだろうと真咲は勝手ながらに想像をしている。

 真咲は歌。厳密に言えば言葉だというらしいが、歌に乗せた方が力が使いやすかった。それだけだ。ただ不用意に歌わない方が良いというのは分かっていた。この世界に落ちて、最初に助けてくれた食堂にいた赤子をあやすのに子守唄を歌った。そしたら聞いた全員が眠っていた。それを見て、歌うことが恐ろしいと思ってしまった程度に、真咲はあれ以来一度も歌ってはいない。歌うことが好きなのに。

 伊織はその瞳に力が宿っていた。見るもの全て、何もかもが見えているらしい。はっきりとはしていないが、考えていることに対しての感情であったり、嘘が意思関係なくに見えてしまうと言う。だから伊織はあまり人が多い場所へは行きたがらず、よく庭や、こうして真咲達と一緒に過ごすだけだ。今度からは静もそこに加わるだろう。

「いいから付き合いなさいよ。あんたが誘ったんだし」

「それは、そうだけど」

「責めているわけじゃないからね。そりゃあ、この口調だけども違うからね」

「分かっているって。真咲がとっても優しいの、知っているんだから」

「とってもは余計よ。で、なんだっけ。奈緒が静と二人で話をしたがってたんだっけ」

「そう。あんまりついてきて欲しくなさそうだったから、たぶんそうかなって思って。奈緒だけ何か知っているっぽかったし」

「へぇ、さすがにあたしは分からなかったわ」

 最年長の奈緒は社会人ということもあってかは分からないが、何かと笑顔でかわすのが上手い。あはは、うふふ、と当たり障りのない対応をして気づけば話は終わり。深く聞こうとしても未だに分からないことが多かった。

「けど静とおしゃべりしたかったなぁ」

「蛇について?」

「それは絶対にするんだけど。ほら、監禁されてたって。大丈夫そうに見えたんだけど、なんていうか」

「何か見えたの?」

「うぅん……よく分かんない。静あの後すぐ寝ちゃったし、あれからなかなか会えないし」

 伊織の長い蛇愛についての話に付き合わせられることが確定している静に同情しつつ、真咲は再会した時を思い返す。

 動きやすいようにこちらの男物の衣服を着ていた静は、ずいぶんと疲れている様子をみせていた。ほとんど話すことなくに疲れからか急に眠ってしまうほどだ。直前に監禁されていて、助け出されて、と夢うつつの状態で話されたが、そんなにひどいことはされていたわけではないようだった。

 伊織はそれについて聞きたいようだったが、真咲はそのまま聞いていいのかと考えてしまう。誰しも触れられたくない話があるのだ、自分ならば言いたくはない。

 きっと奈緒はその辺りうまくやるのだろう。そう、だから二人きりで話そうとしたのかもしれない。伊織には悪いが今は耐えてもらい、後で奈緒から聞いて、それから話をした方が良い。

 真咲はそこまで考え、口を開こうとした時、部屋の外が騒がしくなったのが聞こえた。

 一体どうしたのか、真咲と伊織が扉へと視線を向ける中、アリッサが誰よりも先に動いて扉を開け外を確認する。

 と、奈緒付きの侍女、レオナのよく通る声が過ぎ去った。


 静様が倒られました! 自室へ運びます!


 真咲と伊織はすぐに立ち上がり、顔を見合わせた。

「静の部屋ってどこよ」

「分かんない。クレア、案内して!」

「はい!」

 今はすぐに駆け付けられる。このことにひどく安堵を覚えながらも、真咲と伊織は一刻も早くに静の元へと駆け付ける為、足早に部屋を飛び出した。

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