09

 長い長い廊下を歩く。奥に進んでいることだけは分かり、その分だけまばらにいた騎士の姿が多く見るようになった。

 橙に染まっていた空が少しずつ夜の色に染まっている。夕暮れになれば一気に夜が深まるのはここも同じなのだと、監禁されていた時では考えられなかったことが今、ようやく落ち着いて感じられていた。

「静様、迷いますよ」

「大丈夫。ネーヴェがいるから」

「もう、何度目ですか?」

 窓の外を眺めながら歩いていれば自然と歩みが遅くなる。それをもう何度目かリーリアが諫める、とはいっても少しばかり仕方がないなぁという表情が見え隠れしているから、静はついつい何度も繰り返してしまっていた。

「ごめんね。もう少しかかるの?」

「いえ、ここを曲がればすぐです」

 おや、ようやくか。

 リーリアに続いて廊下を曲がった時、これまた広い空間に出た。

 豪華絢爛とは言わないが、広い廊下の両脇にたっぷりとした美しい薄紫の布が飾られ、合間を縫うように金や銀の装飾ものがいくつも並び飾る。窓のない空間だが暗さはないのは、天井に吊るされた不思議な球体の明かりだろう。シャンデリアではなく、どことなくモダンな雰囲気があり、けれども金銀に装飾されたそれは見事に溶け合っていた。

「きれい」

「はい。紅星の間はもっと綺麗ですよ」

 厭味なんて感じられない、整然とした美しさだった。絨毯のない白い床を歩き進める。

 そして大きな両扉の前まで来た。扉の両脇には屈強そうな二人の騎士が並び立ち、リーリアと静を見止めるとそろいわずかに頭を下げ、無言で扉を開いてくれた。

 リーリアは何も当然のように中へと足を進める。静も少し遅れて中に入り、すぐに足を止めた。

 美しさがそこにあった。

 ドーム状の天上は青に染まっていた。そして中央、一番上となる箇所は赤を主にしたステンドグラスがはめられており、その模様はまるで大きな星のようだった。

「夜空だ」

 思わずつぶやいた静の声にこたえるように、男の声が次いで反響した。

「ああ、あれは星を表している。我らが国で言う所の、原書の星とも呼ばれているな」

 上を見上げていた静は銀の瞳を上から降ろした。

 円形状に作られているこの中は、あの廊下で見たきらびやかな装飾とは打って変わり、ずいぶんと物寂し気な空間だった。

 中央に先ほどいた騎士よりも倍くらいに大きな女性の像。一目見てすぐに、あれこそがアルカポルスなのだと理解した。口元は柔らかな笑みをたたえ、こちらを見下ろす姿。両腕は何かを向かい入れるかのように広がっている。長いローブのような、そんなものを身にまとい、地面についてしまっているほどにとても長い髪をもっていた。

 そして周囲をよくよく見れば、床は青や白といった美しい色合いの床石で彩られて、壁はこの調和を乱さない程度の青を基調とした装飾が施されていた。

 何もかも計算されたように美しい、夜空を模した部屋だった。

「おい、俺を無視とは良い度胸だな? ん?」

 室内をよりもっと見ていたい静は眉を顰めつつ、少し離れた位置にいた男に視線を向けた。

 男は神、アルカポルスのすぐ前に立っていた。

 白を基調としたゆったりとした衣服。上から金縁に紫紺のローブを肩に羽織り、落ちないようと金の細い鎖が連なっている。華美な衣装だと一瞬思うほどだったが、身にまとう男の姿を見て一切気にならないほどによく溶け合っていた。

 男はふん、と小さく鼻をならし気だるげそうに黄金に近い琥珀の瞳を細めた。本物の黄金かと見紛うばかりに美しい金の長髪は無造作に一つに結ばれており、後ろから前に流しているだけ。一目見た瞬間、性別が分からなくなる程に整いすぎた見目であったが、先ほど発せられた声と、痩躯な体躯ではあったが立ち姿がずいぶんと勇ましいもので、なるほど男だと判断出来た。

 静はその他に誰かいないのか銀の瞳を左右に揺らし、音もなく後ろに下がり控えていたリーリアに振り返った。

「リーリア。あの、大神官様って」

「はい、大神官様でございます」

 静は改めてまた前にいる男を見止め、次の腕の中で大人しくしているネーヴェを見て、上を見た。

 男はずいぶんと年若い青年だった。想像していたのは大神官と呼ばれるくらいだから壮年、もしくは中年程の、勝手な想像であるが髭を蓄えて良そうな男だとばかり思っていたのだ。

 静はこの目の前の現実に対し、なるほどファンタジーってこういうことか、と無理やりに納得した。

「おい。俺はいつまで待てばいいんだ?」

「あ、すみませんでした。少し、その、驚いたというか」

「ほう、そうか。他の三人に比べればマシな反応だったから見逃してやろう」

 わぁ、どんな反応をしたのだろうか。後で聞かなければ。

「にしても驚いた、か。俺も驚いたがな」

「何をですか?」

「お前、ずいぶんと年を盛っていないか? 報告には聞いていたがこれほど幼いとは」

「正真正銘、二十一歳ですが?」

「俺と同じ年には到底見えんな」

 なんと同い年だったらしい。こんな見目麗しい同い年がいるのか、世界というより異世界はずいぶんと広いらしい。

 青年はくつくつと何故か楽し気に笑いながら数歩だけ歩み寄り、そしてその場に片膝をつき、頭を垂れた。あまりにも自然過ぎる一連の動きの美しさに静はつい見とれそうになりながら、すぐに驚きを隠せずについ、半歩片足だけ後ろに下がってしまった。

 そんな静に気づいている様子を見せながらも、青年はそのままの姿勢のまま口を開いた。

「お目通しが叶いましたこと、光栄でございます。我らが聖女。お迎えにあがることが遅れ、それにより御身を危険にさらしてしまったこと、この場を借りて謝罪をさせていただきたく。もちろん私の言葉のみでは不十分ではございましょうが、何卒」

「え、あ、まっ……! お、怒ってないというか、もう終わったことと言いますか! 遅れたとかそういうの、全く気にしていませんし、むしろ助けられた側なんでわたしがお礼を言う側だと思うんですが……!」

「……赦してくださる、と?」

 見目麗しい青年が、懇願するように静を見上げる。

 明かりの当たり具合のせいか、琥珀がわずかに揺れ濡れているように見えた。

「赦すというか……ああ、もう、めんどくさい……! 赦してます、赦してますから!」

「お前、いずれ誰かしらに騙されたりしないだろうな?」

「は?」

 叫ぶかのように応えた瞬間、青年はさっと立ち上がり、最初の時と同様に気だるげそうな態度で立っていた。しかもだ、その顔ときたら、ずいぶんと面白いものを見つけたと言わんばかりにゆるりと笑みを浮かべている。

 判断を早まってしまったのではないだろうか、と静は一瞬だけ後悔だけした。

「そんな嫌そうな顔をするな。面白くなるだろう?」

「……ねぇ、ネーヴェ。この人、本当に大神官だと思う? え、思うの? やだなぁ」

 ネーヴェはきゅんきゅん、とそうだと言わんばかりに鼻を鳴らし応えた。どうやら本当らしいが、一体どうして分かるのか、これも後でしっかり聞かなくてはなるない。

 くつくつとまた笑う青年は、今度こそ姿勢を正して胸元に手を当てた。

「ヴィンセントだ。敬語も敬称もいらん。楽に話せ。こちらもそのように話させてもらうというよりかは、他の聖女からそうしろと厳命されてしまったからな。一人だけ別にしてはかわいそうだろう?」

「ああ、だから最初からあんな感じだったんですか。それなら別に気にしていないんで大丈夫です。静です、よろしく」

 ようやく名を名乗った青年に、静はおそらくすでに知っているとは予測しつつも礼儀として名を名乗った。そう言えばこちらに来てから名字は名乗っていないことに今更ながら気づいた。が、誰も彼も名のみ名乗るものだからつい、同じようにしてしまっていた。

「おい、敬語はいらないと言っただろう?」

「あー……はい、うん。これで、良い?」

「明らかに面倒そうな顔をしやがって。まぁ、良い」

 妥協してやるという態度である。

 先ほどの謝罪時の対応から察するに、おそらくこの目の前の青年よりも自分の方が立場は明らかに上の可能性があるが、そんな立場は御免被りたい。静にとって、聖女なんて呼ばれるたびに肌がかゆくなってくるし、妙に落ち着かなくなってしまうのだから、むしろヴィンセントのような気軽な対応が一番良いさえあった。

「お前に聞きたいことがあったんだ。あの男をどうしたい?」

「……ああ、あの男って、わたしが殴った人?」

「本当に殴ったのか」

「うん、そう。殴りたくなって、つい」

 ヴィンセントの形の良い口元がわずかに引きつって見えたのは、見間違えか何かだ。

「理由は」

「ユフィアータを愚弄したから」

「……にしてもだ。殴る選択はどうかと思うが」

「そうかもね。しかもそれ、ただの建前だし」

「は?」

 言った通り、静はあの男に対して殴りたくなった。嘘偽りのない静が抱いた衝動であり、言い訳も何もなく、理不尽としか言いようがないそれを身勝手に実行した。

 それだけであったが、それほどのことでもあった。勿論のこと、静はこれがただの暴虐だとも自覚をしていたし、許されることだとは思ってはいない。

「理由なき、ただの暴力だよ」

「監禁をしていた首謀者相手にただの暴力だと? 仕返しや正当防衛なんて言い換えられることも出来るはずだが?」

「そうだね。けど、殴って良いものとは思わない」

「おい、殴っといてそれはどうなんだ」

 静は確かに拳を振りかぶり、男に向けて振り下ろした。ただの暴力だ。その暴力を振るっておきながら静は、この暴力は到底良いものではないと首を横に振るった。

 明らかな矛盾だ。とんでもない馬鹿げた話過ぎて、静はつい笑みをこぼしてしまった。

「良いものではないけれども、間違った行動でなければわたしの中では筋が通っているから、残念ながらそこまでおかしい話ではない、と思ってしまっているんだけど」

「ああ、なるほどな。お前、かなり捻くれているだろう?」

「さあ? ああ、で。どうしたい、か……だっけ」

「ああ。赦してはいないと聞いた。そうでなくともことが事だ。罰さなくてはならない」

「わたしに、その罰を決めてほしいの?」

「そういうことだ」

「え、やだ」

 ヴィンセントの表情はほぼ変わらなかった。むしろそうだろうと言うように、呆れ混じりに深く息を吐き出した。

「そうだろうな。この会話だけでよく分かった」

「それなら良かった、かな? 別にこの国の法の下、裁いてくれれば良いよ。と言うか、いきなり殴ったわけなんだけど、わたしもなんか罰せられたりする?」

「そんな程度で罰するか。まぁ良い、それならこちらで法の下、裁くことにしよう」

 ここは異世界。知らぬ国。ならば、とくに法に関わることは口にするべきではない。例え些細なことであろうと、突然現れたわけのわからない存在が脅かし、惑わしてはならない。余計な火種をまいてしまうから。

 無難な答えをした静に満足下にうなずくヴィンセントは、上をふと見上げた。

 静もならい、見上げる。

 ここには天井のステンドグラス以外、窓がない。ぼんやりと光を放つ、球体の灯りが室内を薄らと照らすだけだ。

 外はもう暗くなっているだろう。そろそろ腹が空いてきた。

「最後に聞きたい」

「何を?」

 ほぼ同時、二人は視線をおろし、向き合った。

「我らが神、アルカポルスから言葉等々、預かってはいないか?」

「いや、ないね」

「本当に?」

 疑うように向ける琥珀に、静はわずかには視線を落として長く息を吐き出した。

「無いよ、何もね」

「では、愛娘達からは?」

「聞いてどうするの? 他、三人からもう聞いているんじゃないの?」

 問に問を返せば、ヴィンセントはわずかに言葉をつまらせた。

「聞かなかったの?」

「いや、聞いたさ。だか聞けたのはほんの一言程度といったところか」

「天罰云々?」

「なんだ、聞いているじゃないか」

 ほっと息をついたように見えるヴィンセントに、静は目を細めた。

「聞いてどうするの?」

「何が起きているのか。起ころうとしているのか」

「もうとっくに起きているというのに?」

「……とっくに、か。それほど前なのか」

「さてね、どうだか」

「今は捻くれられても仕方がないんだがな」

「捻くれてなんていないよ」

 なんせ何も知らないのだから、分からないものは分からない。とは言え、言えることはあった。

「言葉は知らない。けど」

 神たるアルカポルスがどう考えているのかは静の預かり知らぬところ。だが、この銀の小狼に扮したユフィアータが望んでいることを静は感じとっていた。ずっと、最初から。

 静は腕の中で大人しくしている銀の毛並みを撫でる。

「あの子達が、ユフィアータが……、守りたいと望んでいる。何を守りたいかまでは分からないけど。どうかな?」

「十分だ」

 あやふやな答えでしかないのに、ヴィンセントは何故か今ので満足をしたようだった。

 不思議だね、とこちらを見上げていたネーヴェに視線を向けてそろって静は首をかしげた。

「すまなかったな。俺の都合に合わせてもらって。本来なら俺がそちらに合わせて話を聞かせてもらう立場なんだがな」

「……そう」

「お前達、そろいもそろって嫌そうな顔をするんだな」

「慣れていないから、とか?」

「慣れていないか。せめて何故、この者達を聖女にお選びになったのか教えていただきたいものだ」

「偶然じゃない?」

「偶然であってたまるか」

 本当に、嘘偽りなく偶然だ。ただ、本当に何故、ちょうど偶然にも四人一緒にいるときに落ちることになったのかまで偶然の産物なのかは判断は出来なかった。

「それじゃ、もう戻っても? お腹空いちゃって」

「ああ。ここの食事はうまいと他の聖女達が言っていたから期待していいぞ」

「そうする」

 静はまだここに居座る様子のヴィンセントを尻目に、控えていたリーリアを連れ、紅星の間を出ていった。


 -*-*-*-*-*-*-*-*-*-


 残されたヴィンセントはアルカポルスを模した像を見上げ、そして恭しく祈りの姿勢をとる。片膝をつき、両手を握りしめ、額にあてるように頭を垂れる。

 耳が痛いほどの静寂の中、響くのは己の鼓動と呼吸音のみ。

 しばらくし、立ち上がったヴィンセントはゆるりと足を進め、紅星の間を後にする。

 綺羅びやかな廊下を抜け、人影すらない広い廊下に出る。窓から注ぐ星明かりが琥珀を照らした。

「――ルイス」

「ここに」

 間を置くことなく、声が返ってきた。

 ヴィンセントは驚く様子を見せず、背後に姿を表したルイスに振り返り、顔をしかめた。

「お前、相変わらずどこにいるんだ」

「近くにおりましたよ。さすがに紅星の間には入りませんでしたが」

「別にいても良かったんだがな。会わなくて良かったのか?」

「……そのような立場ではありませんので」

「あの聖女、そこまで気にするようには見えなかったがな。それにお前、俺付きの騎士なんだからその立場はあるだろう?」

「兼任ですし、正式なものではありませんが?」

「なぁ、いつになったら正式に付くつもりだ?」

「ありません」

 ピシャリと言い放ったルイスに、ヴィンセントはくつくつと笑い声をもらした。

 大神官たるヴィンセントは神殿側、神たるアルカポルスに仕えるものだ。もちろんそのヴィンセントに仕えるとするならば、神殿側に属する人間になる。

 だが、ルイスは別だった。ルイスはれっきとした王に仕える騎士の一人だ。だと言うのに、現状は王と、神殿、それぞれに仕える騎士となっている。しかも大神官付きなのだから、名誉なことではあったが、ルイスは今すぐにでも辞退したいところではあった。

 きっかけは偶然が重なり、その結果としてヴィンセントがひどくルイスを気に入り、稀に見る職権乱用を使って半ば無理やりにヴィンセント付きにさせた。

 兼任で且つ、正式なものではない理由は、ヴィンセントの職権乱用ということと、ルイス自身の問題が絡んだ結果、妥協して今の形に落ち着いたのだった。

「あの聖女もそうだが、我らが神はなかなかに癖のある聖女をお選びになったものだ」

「報告書には軽く目を通しておりますが、そんなにですか?」

「ああ、なかなかだったぞ」

 止めていた足をようやく動かし、長い廊下を歩き始める。ルイスも続くが、聞こえるのはヴィンセントの足音のみだ。

「伊織とかいう奴だが、あれは面倒だ。会ってすぐに腹の具合を心配された」

「一目見て、ですか?」

「ああ。全く、余計に胃痛がひどくなった」

「胃薬、そろそろ変えられては?」

「これ以上は胃が荒れると言われた。あれはおそらく、リディアータの力だろうな。あの黄金の瞳で見られた日には何もかも、見通させるだろう」

 不遜な態度をいつも取っているヴィンセントではあるが、まさか胃痛持ちだなんて誰が思えるだろうか。

 胃薬は手放せないし、人前に出てしまった後はだいたい腹を無言でさすりながらうずくまっている。勿論そんな姿を知っているのはほんの一部でしかなく、ヴィンセント自身そんな弱ったところを見せたがらない。

 だからこそ、まさか一目見てそれが分かってしまうだなんてルイスは思わず、ひどく驚いてしまった。

「ただあいつ、アルカポルスについて何一つ知らなかったほうが驚いたがな」

「俺もそれを呼んだ時驚きましたが、本当なんですか。聖女、なんですよね」

「本人曰く、我らが神たるアルカポルスの聖女ではなく、愛娘達の聖女らしい」

「ああ、なるほど。だから四人も」

 確かに言われてみればその通りだ。アルカポルスは一人に対し、聖女は四人。愛娘の聖女と言われればすぐに納得してしまった。

「そういうことだ。で、真咲はあまり人前で歌わせない方が良いだろう。理由は報告書に書いてあっただろう?」

「はい。歌を聞いていたら眠ってしまったと」

「ああ。魔術でも防ぐことは出来なかったらしい」

 伊織はこの大神殿内に姿を現したからこそ、すぐさま保護をすぐことが出来た。だが三人はそれぞれ別の所に姿を現した。真咲は城下町に、奈緒は王立開発局に、そして静は森の中深くに。

 次に近い場所にいた真咲を向かいに神官の騎士達が行けば、彼女は小さな食堂にいた。泣いている赤子を腕の中に抱き、異国の歌を歌っていた。美しい旋律、こそばゆいほど柔らかな声と紡がれる言葉。つい耳を傾けていたが、気づけば寝入ってしまっていたという。しかもそれは騎士達だけではなく、歌を聞いていた全員だ。

 騒ぎはもっと大きくなり、原因となってしまった真咲は訳も分からずに慌てふためき、一つ二つの悶着があったと報告書には上がっていた。

 愛娘達には固有の力があるが、それがどのようなものかまでは詳細には語り継がれたことはない。何せ今までそのように、力を与えられたものはいなかったからだ。しかしあると伝わっていたからこそ、そこまで驚くことはなく、しかしその強さにそこはかとなく脅威を覚えたのは誰しもがそうであった。

 リディアータの力を与えられた伊織を前にすれば、虚像、虚構、虚偽すら全て形は成さない。否、もっと別の何かすら見通しかねない。

 ラウディアータの力を与えられた真咲は歌を媒介にしたものとあった。普段の会話によって影響はでないだろうがしかし、歌という特定条件下ではあったが、些細な子守唄さえ周囲に莫大な影響を及ぼすほど。

 今はまだ、この国の人間に対して、そして神殿側に対してそれらの力を向けられることはないだろう。だが、力を向けられるようなことがあれば、それは大きな戦火にさえなりえるものだった。

「そう怖い顔をするな、ルイス」

「……はい。いえ、しかし」

「まだ彼女達はこちらを敵とは見なしていない。加えて、真咲が言うには天罰はまだ落とされないらしいからな。まだ時間はあるだろう」

「天罰とは、一体」

「さぁな」

 あまりにも不穏な言葉だ。ルイスは人知れずに息を吞み込んだ。

「それで奈緒だが、メルヴェアータの聖女だと見ている。まだ力を使ってはいないようだが、おそらく想像するに治癒の類だろう。あの瞳が証明しているしな。それにしても、本当にあれは驚いた」

「確か……、開発局の巣窟の主を外に追いやった、と」

「そうだ。あそこの汚さはここまで聞こえるほどに有名だったが、まさか聖女自らいきなり掃除をやり始めるとは思わんだろう。誰も」

「そうですね」

 王立開発局。日夜、魔術や魔具を開発、研究をしている場所だ。内容によっては繊細な作業を求められるというのに、何故かどうしてあそこは衛生管理が二の次になっていると言う。

 ある意味恐ろしい場所だ。そんな場所でとくに有名なのが件の巣窟の主だ。名の通り、与えられた部屋を巣窟としている開発局一、衛生環境を恐ろしいものにしている輩だ。本当に碌でもない。

「しかも掃除が終わるまでここに来ないと来たものだから、暇そうな奴を掃除に手伝わせに行かせたぞ。そのかいあって開発局内部では奈緒のことをすでに心酔している者達がいる上に借りを作れたがな。今後、融通が利きやすくなるはずだ」

 素晴らしいつながりを得たとヴィンセントは喜びを見せた。なんせ開発局と直接繋がりを持っているのは王であって、神殿ではない。例え相手がヴィンセントであっても、王に属していない限り従うかは開発局次第だ。

 こればかりは良かったと言わざる得ない、とルイスもほっと胸をなでおろした。

「にしても、奈緒はなかなか隠し事が上手いな。全て笑顔でかわされた。突っつけばいろいろと出てきそうだが、そうすると開発局の奴らを敵に回しそうだ」

「是非とも止めてください」

「もちろんだ。で、静だが……力の方はまだ使っていないんだな?」

「はい」

「……殴ったんだよな? その時はどうだった」

「無傷ではありませんでした。行動を起こすまでのあの躊躇の無さと、的確な狙いを見るに、元から慣れているように思われます」

「とんだ聖女だな」

「面白がらないでください」

「無理だな」

 いつにもましてよく笑う大神官の肩が上下している。静まり返る廊下に響く笑い声はしばらく続き、数度の呼吸音が続いた。 

「それでルイス、聖女を襲った賊はどうした?」

「すでに処分しております」

「なら良い。憂いは取り除かなくては」

 この歪み進む国の唯一の要であり救いとなるであろう聖女だ。それを傷つけようとする者ならば、排除をしなければ。

 あの聖女の様子から、賊に関しては一切興味がないというより、記憶から抹消しているようにさえ見える。聞かれなければ好都合、聞かれても罰を与えたと伝えるだけだ。

「働いてもらうぞ、ルイス」

「漆黒の方もあるので程々にお願いします」

「やはり正式に神殿にこないか? お前がいないと不便でならん」

「反感を買いたくありません」

「そうだな。お前、あの聖女の侍従の真似事をしていたんだろう? 付くか?」

「話を聞いてください」

「しかし、あの聖女達の傍ならば、周囲は黙るだろう?」

 大きく床を叩くような音が響き、ヴィンセントが振り返る。立ち止まったルイスは強い光を放つ琥珀から逃げるように視線を反らした。

「……あれは、致し方がなかったことです。本来であれば、俺なんて側にさえいることすら烏滸がましい」

「頭の硬い奴め。いいか、お前は俺が見つけた原石だ。それを忘れるな」

「さすがに目と頭を医者に診ていただいたほうがよろしいかと」

「頑固者め!」

 話にならん、とヴィンセントはまた歩き始めた。足音は無くとも、ルイスが後に続いてるのを知っているルイスはそのまま口を開いた。

「聖女達の側にいる小動物達にも注視しろ。あれは我らが神か、もしくは愛娘につながる何かかもしれん」

「承知しました」

「行け」

 ひらりとヴィンセントは右手を上げる。

 背後にわずかながら風が通り過ぎたのを感じ、ヴィンセントは深く息を吐き出した。

「……くそっ、どいつもこいつも」

 キリリと痛む腹部を一つなで、暗闇が続く廊下にヴィンセントの姿は溶けていった。

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