第二十話 大蛟
背中から地面に落ちた折笠は即座に上半身を起こして飛んできた方向、無説坊達がいる宿泊所へ目を凝らした。
「……なんだよ、あれ」
山を水が覆っていた。
否、蛟(みずち)が覆っていた。
水の身体を持つ巨大な、あまりにも巨大な蛇が山を締め付けるようにとぐろを巻き、周囲を睥睨している。
邪魔をする者があればただちに呑む。チロチロと覗く好戦的な二股の舌だけでも折笠の身長の数倍ある。
大河堰きを初めて前にしたとき、折笠の思考は『勝てない。格が違う。勝負にすらならない』だった。
あの蛟は違う。
「なんなんだよ、あれ……」
理解ができない。
勝てる勝てない、格が違う、勝負にならない?
すべてが違う。
理解できない。
存在の一端ですら、理解が及ばない。
超越した存在。
抱いているこの感情の名前はおそらく、畏怖だ。
山が大蛟に覆われている以上、無説坊達の生存は絶望的。あれを呼び出した陰陽師でさえ、あの膨大な水量に呑まれて無事とは思えない。
当然、折笠や黒蝶があの場にいたとしても何もできなかった。
「客人だから巻き込めないってことかよ。ばか野郎」
結果的に、無説坊の判断は間違っていなかった。
折笠は視線を巡らせる。
「黒蝶さん、怪我は?」
山の大蛟から視線を外せないでいる黒蝶に声をかける。大蛟の力に呑まれていたのか、はっとした様子で黒蝶は折笠を見た。
「折笠君、怪我は?」
「同じこと聞いてる」
苦笑して、折笠は立ち上がる。
「無事だよ」
「私はちょっと、羽が痛んじゃった」
黒蝶が背中に具現化していた蝶の羽を振り返る。木の枝で破ってしまったらしく、あちこちに穴が開いていたり千切れてしまっている。
本来であれば黒蝶自身の美しさも伴って妖精の女王にも見えるだろう立派な羽が無残な有様だ。
「それ大丈夫? 痛くない?」
「神経は通ってないからね。明日までは元に戻らないだろうけど」
蝶への変化も難しいらしく、黒蝶は背中の羽を消すと浴衣を気にするように視線を下げる。
「破けたりしてない?」
「そっちは大丈夫だね。妖怪の宿の備品だけあって丈夫だ」
折笠の浴衣もほつれ一つない。
二人で山の大蛟へ視線を戻す。
「……どうする?」
黒蝶が折笠の隣に立って、顔を覗き込んできた。
無説坊達の救援に行くのは無理だ。手遅れなのは間違いない。せめて無説坊達の妖核を奪取して弔ってやりたいが、返り討ちに遭うだけだ。
だが、そう簡単には割り切れない。
「どうするって言われても……」
黒蝶と一緒にあの山の大蛟に挑んでも確実に殺される。どんな選択肢を選んでも即死させるだけの力が大蛟にある以上、黒蝶を連れて行くのは論外だ。
唐傘を可能なだけ量産して姿を隠して近付くか。まとめて薙ぎ払われるだけだろう。
作戦を立てようとしても圧倒的な戦力差の前には意味をなさない。
その時、黒蝶が折笠の腕を引っ張って無理やり注意を向けさせた。
「私が聞いているのは、どんな道を選んで出雲に行くかだよ! あんなのに挑むのはただの自殺行為。迷うことじゃないの!」
黒蝶の言う通りだ。
冷静にならないといけない。そう自分に言い聞かせて、折笠は大蛟に背を向けた。
「……行こう。霧が晴れる前に距離を取って、それからどこかで服を買おう」
幸い、財布は肌身離さず持っている。
「ご神体は持ってきてる?」
「もちろん。財布もあるよ。着替えはないけど」
口を閉じればすぐに重い空気になりそうで、折笠はあれこれと話題を変える。同じ気持ちなのか、黒蝶も話題に乗ってくる。
「陰陽師も私たちの行き先は予測がついてるはずだから、ちょっと遠回りをしようよ」
「そうだね。寄っていきたいところとかある?」
言葉を交わしている間にも、無説坊や鞍野郎たちの顔が脳裏をよぎる。
たった一日の付き合いだったのに、かなり濃い時間を過ごしたせいで思い出と呼べるものが確かにあった。
いつの間にか黒蝶からの返事がなくなっているのに気が付いて、折笠は彼女の横顔を盗み見る。
彼女の白い頬に一筋の透明な線が描かれる。柔らかな曲線に合わせて落ちる水滴をそのままに、黒蝶はまっすぐ前を見ていた。
一緒に温泉に入ったり、あだ名で呼んだり、同じ部屋で寝たり。そんな龍燈もあの大蛟の餌食になった。
悲しくないはずがない。寂しくないはずがない。悔しくないはずがない。
でも、何もできない。
「必ず、高天原参りを成功させよう」
逃がしてくれた無説坊達の死を無駄にはしない。その覚悟を込めた折笠の言葉に、黒蝶も頷いた。
「――必ず」
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これにて一章終了。
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