第八話  本懐

 折笠は、自分の今までの人生が平穏だったとは思わない。

 中学校に上がる直前まで、折笠は半妖としての力を制御できなかった。

 何の前触れもなく半妖化してしまい、人形態への戻り方も分からずに右往左往する幼少時代、親の眼は不安と心配に彩られ、小学生になるころには諦観と軽蔑に変わっていた。


『いきなり行方不明になって、どれほどの人に迷惑をかけたと思うの!?』

『なんでいきなり授業を抜け出した! 担任の先生がどんなに心配したか。何度も頭を下げて……下げられる私たちの方が心が痛いんだぞ!』

『突然、誰からも見えなくなる? 何を馬鹿なことを言ってるの。そんな嘘を吐く口があるなら「ごめんなさい」って口にしたらどうなの!?』

『父さんたちをからかうのがそんなに楽しいか? なんど『おおかみ少年』を読み聞かせたと思ってる? 何も学べないか?』


 迫りくる大水を前にして、ろくでもない走馬灯に折笠自身も笑ってしまう。

 笑えてしまう。

 自分は唐笠お化けの半妖だ。傘は、誰かを雨から守るモノ。矢面に立ち――自分自身は守らない。


「――これは死んじゃうなぁ……」


 肩に留まったクロアゲハ、黒蝶が諦めを口にしたその瞬間――折笠の妖力が増大する。

 反射ではない本能が折笠を突き動かし、唐傘を生み出した。

 迫りくる大水が唐傘に激突し、跳ね返される。

 ほんの数瞬前まで勝てないと悟った本能が今は別の意志を湧き立たせる。


 ――負けてはならない。


 雨に穿たれ破られて、差し主を濡らすモノを傘と呼べるか?

 傘の下は必ず晴れるべきだ。水滴一つ落としてはならない。

 傘下にあらゆる不幸はあってはならない。

 傘の沽券に――本懐にかかわる。


 折笠の妖力が谷全体を覆ってもなお増大していく。

 増大していく折笠の妖力を前にして、呆気にとられる半死半生の妖怪たちを他所に、玄川がこれ見よがしに舌打ちする。


「これだから本懐持ちの妖怪は面倒なんだ」


 玄川が倒れて動けない妖怪たちへ目を向ける。

 瞬時に折笠は唐傘を発生させ、玄川の視線を遮って妖怪たちの姿を隠した。


「なるほど、これも大事になったか?」


 玄川が嫌味に笑う。

 玄川がポケットから出した札が燃え上がり、妖怪を守る唐傘に衝突する。火が唐傘に衝突して消えるまでを眺めた玄川は馬鹿にしたような顔で折笠を見た。


「そうか、そうか。理解した。木気ながら本懐を遂げるために強化される能力だな。ならば、貴様を倒すのは簡単だ」


 玄川が折笠を直視し、さらには指で示して標的を明確にする。


「俺、玄川悠善は唐傘お化けの半妖、お前しか狙わない」


 唐傘、傘は自分に対して向かう力には無力だ。

 自分以外に被害が及ばないのなら、傘としての本懐を遂げたことになるのだから。

 玄川の宣言は折笠、唐傘お化けとその半妖に対する特効――のはずだった。

 玄川も確信していただろう。彼自身が取り出した金箔入り紙札から生じた会心の火球が打ち消されるまでは。


「……は?」


 勝利の確信を込めて放った火球が無力に消え去るその光景に、玄川の理解が追い付かなかった。

 追いつくはずがない。

 ――事前に迷ってしまったのだから。


 折笠の肩でクロアゲハが『悪戯成功』と羽をぱたぱた。その姿さえ、蝶に迷う玄川には認識できない。

 玄川は自分自身が唐傘お化けの半妖だけを狙って勝てるのか、他の妖怪もまとめて狙うべきではないかと、深層心理で迷っていたことに気付かない。気付けない。

 無意識に排除する選択肢が如何に多いか――分からない。


 開いていた唐傘が閉じられていく。徐々に刺突に適して変形していく。

 もはや玄川に言葉を発する余裕はない。迫りくる唐傘の先端、石突きを逃れようと無理な体勢で仰け反る。

 折笠は容赦がない。傘下の危機に文字通りの全身全霊で迎撃する。


「おい、おい! 人に直接手を出すつもりか!?」


 玄川が情けなくも両手を突き出して命乞いをする。


「――なに言ってんだ?」


 自分も半分人間だと折笠は命乞いを蹴り飛ばして唐傘を突き出し、玄川の脇腹を穿った。

 玄川から吹き出す血も、苦悶の表情も、折笠には何一つ響かない。

 苦難の元凶がどんなに苦しんでも、響くはずがない。


「俺も人だぞ。俺を殺そうとした分際で喚く言葉がそれか?」


 玄川の顔を覗き込み、笑う。


「俺は人だ。それとも、血筋に妖怪が混じっていたら人でなしか? 何もしていない俺を一方的に追いかけ回して殺そうとするお前らの方がよっぽど人でなしだろ。自覚しろよ、陰陽師」


 思考が怒りと殺意で埋め尽くされている。

 なにかがおかしい。折笠自身も違和感に気付いているが止まらない。衝動ばかりが先走る。


「陰陽師は残らず死んだ方が――」


 視界の端に黒い蝶、クロアゲハが静かに舞った。

 思わず口を閉ざした折笠は無表情に玄川を小川に捨てる。

 頬にそよ風とも呼べないわずかな風を感じた。見なくても分かる。心配そうにクロアゲハがゆっくりと羽ばたいている。

 わき腹を押さえて苦しむ玄川が折笠を睨む。


「人社会に喧嘩を売る意味も分からん人外め。術者と式の区別もつかんのか」

「俺を人社会からはじき出そうとした人でなしが虎の威を借りるなよ。タイマンを張れないなら首突っ込むな、ザコ」


 虎の威を借る狐と呼ぶにはあまりにも弱弱しい陰陽師から視線を外して、折笠は周囲の妖怪たちに声をかけた。


「怪我をしている者が多い。助け合って、すぐにここから逃げろ。陰陽師の増援が来るかもしれない。急げ」


 折笠の指示に、自らの置かれた状況を思い出した妖怪たちが一斉に動き出す。すれ違いざまに玄川に蹴りを入れている妖怪もいたが、注意する気にはなれない。

 折笠も妖怪たちから離れて山のふもと、町を目指した。


「隣町まで行く。頭を冷やしたい」


 肩に乗ったクロアゲハにそっと呟いて、折笠は険しい顔のまま全速力で山を駆け下りた。

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