第三話  黒蝶夕華

 陰陽師が使う術の基礎になる木火土金水、陰陽のいずれかも分からない無数のクロアゲハに、折笠の思考が一瞬止まる。

 迷走し始めた思考の中、折笠は左手を何かに掴まれた気がした。

 振り払うべきかと悩む内に、折笠は冷静さを取り戻す。


「……だれ?」


 取り囲んでいた陰陽師の気配が遠ざかるのだから、手を引いているのは陰陽師やその仲間ではない。しかし、折笠に仲間はいない。

 誰がこの手を引いているのか。

 左手を掴むのは誰とも知れない白い右手。折笠の左手より一回り小さい。その手の先へと目を向ける前に、黒い蝶が視界を遮った。

 足が止まる。このまま手を引かれるままについて行っていいのか、迷う。


 ぐいっと左手を引っ張られる。急かすようなその引き方に、折笠は思わず足を動かした。

 差されなければ存在価値を見出せない傘は、主人の歩みについていく。

 十分ほど走っただろうか。神社や駅から離れた市街地で足を止める。

 黒い蝶が飛び立ち、歩き出した手を引く主の姿が見えてくる。


「勝てたのかもしれないけど、勝つと逆に面倒なんだよ」


 折笠の手を引きながら手の主が言う。


「いま、市内に百人ちょっとの陰陽師が来てるみたいなの」


 空いている左手で主が髪をかき分ける。前髪の左側を左耳にかけるようなその仕草は姿勢か、左手の動きか、有する時間か、光の加減か、どの要素をとっても遊びを持たせた優美さがあった。


「陰陽師ったら好き勝手に動いてて、盗まれたのはうちのご神体だっていうのに、もう!」


 主が足を止めて、左足で思い切りコンクリートの道を踏み鳴らす。トンっと軽い音が鳴ったのも腹立たしそうに、ぐりぐりとつま先で踏みにじった。


「私たちとは別に動いて、やめてって言っても聞かないどころか『半妖だ、しねぇ!』って、もう信じらんない!」


 心の底から怒っているんです、と全身で表して、主は「ばーかっ」と捨て台詞を吐いた。


「話が逸れちゃった。えーっと、うちの神社のご神体を盗んだ奴を探している陰陽師に勝つと、盗んだ奴と同じか仲間だと思われて酷いことになっちゃうよって話なの」


 分かるかな、と心配そうに折笠に尋ねながら、公園の中へと手を引いていく。

 公園は無人だった。陰陽師はもちろん、一般人も子供もいない。

 広い公園ではないが、雑木林の中に入れば人の目は避けられる。折笠を引く手も雑木林の中へといざなった。


「あの陰陽師連中、呼ばれてもないのにしゃしゃり出てきて正直、邪魔なんだよね。うちのご神体を取り戻しても返してくれるか分からないし」


 雑木林の中に折笠を引っ張り込んで、ようやく向き直ったのは同い年くらいの少女だった。

 木漏れ日で減じた陽の光が勢いを取り戻すほど光沢のある黒髪が初夏の風に靡く。ここまで急いできたからか上気した頬は桃色で怒りを反映して少し膨らみ柔らかな丸みを帯びている。


「本題に入るね」


 少女が怒りを呑み込んで頬の丸みを減じさせる。怒りによる近寄りがたさが鳴りを潜め、少女本来の柔らかさが膨らんだ。


「あの陰陽師の敵ならうちの神社の味方だと思うの。ご神体を取り返したいから、協力してくれないかな?」


 あの陰陽師とは、どの陰陽師か。普段ならすぐに結びつく言葉と単語が迷走する。 

 かつてない感覚に、折笠は頭を振る。これまでの思考を振り払い、一から考え直すために。

 折笠の動きを見て、少女が小首をかしげ、はっとしたように周囲に散っていた蝶をかき消した。


「ごめん。迷わせてた! 一から説明した方がいい?」


 心配そうに顔を覗き込む少女に、折笠は顔の前に持ってきた手を左右に振ってみせる。


「君の神社のご神体が盗まれて、それを取り返しに来たのかよく分からない陰陽師連中と戦っていた俺は、敵の敵は味方理論で君の味方かもしれないって話でいい?」

「おっ、すごい! 迷わされてたのに状況把握が完璧だ!」


 少女が拍手をするたびに、色とりどりの蝶がふわりふわりと舞い飛ぶ。折笠の唐傘と同じ妖力で作り出された仮初の蝶たちだ。

 その蝶を見る度に思考がかき乱される。

 折笠は目を閉じて、俯いた。


「俺、神社でお守りを買っていたら急に陰陽師から狙われだしたんだ。ご神体って奴とは完全に別件だと思う」


 高天原参りという単語を口にしたのが陰陽師に狙われるようになった原因だろうと、折笠は言わなかった。

 口ぶりからして、少女はどこかの神社の人間だ。高天原参りという単語を口にした瞬間に何が起こるのか分からない。陰陽師と敵対していそうだが、敵味方の判断材料としては足りない。

 少女の同情的な声がする。


「あちゃあ、ご愁傷様すぎるね……。うちの件がなければ陰陽師がこんなに町にくることもなかっただろうから、ある意味、被害者かも」


 演技ではなさそうだが、目を閉じているのもあって確証にはいたらない。表情が分からないだけでこうも判断に迷うのかと、折笠も悩む。

 目を開けるべきか、否か。

 少女が折笠に一歩歩み寄る気配がする。反射的に、折笠は一歩後ろに下がった。


「被害者って言ったけど、うちの神社は加害者じゃないよ? 呼んでもいない陰陽師がシャシャリ出てきて、君に危害を加えたんだから、陰陽師が加害者。私たちは陰陽師の被害者で、あいつらと敵対している点では一緒だよね」


 少女が確認するように首をかしげる気配。衣擦れの音。肩先をかすめて舞う蝶の気配。


「陰陽師の敵なら、利害が一致すると思うんだよ。うちの神社から盗まれたご神体を一緒に取り返してくれないかな? お礼は……ちょっと思いつかないや」

「お礼が思いつかないって、そこが一番大事じゃね?」

「だよねぇ。うちの神社のおみくじ引き放題年間パスポートとか、どう?」

「年間パスポートって、毎日引くの? そんなにころころ結果が変わるおみくじって信用して大丈夫?」

「ダメかも?」


 こらえきれなかったのか、少女がくすくすと笑いだす。

 完全に少女のペースに呑まれていることに気が付いて、折笠は咳払いを挟んで自分のペースを取り戻す。

 自分が置かれた状況を考えれば、少女の提案したお礼の内容は関係がない。


「陰陽師連中は君の神社のご神体を盗んだ奴を追いかけてるんだよね?」

「そうだよ。どこから嗅ぎつけたのか分からないけど」

「ご神体が神社に戻れば、陰陽師はいなくなる?」

「多分、ね」


 断言はできないのだろう。折笠という半妖を見つけた陰陽師は、ご神体を自分たちの手で取り戻せなくても、せめてもの手土産に折笠の首を持ち帰ろうとするかもしれない。

 だが、可能性を潰すことに意味がある。


「分かった。ご神体を取り戻すまで共闘しよう。その後も陰陽師が襲ってきたら、一緒に戦ってくれると助かる」


 期待はしていないけど、と言葉には出さず、折笠は少女の返答を待つ。

 少女はこくりと一つ頷いた。


「じゃあ、よろしく。お互い、利用し合うだけで信用しない方針でいいよね」

「そうだね。不信と共闘で」


 言いながら、折笠は目を開ける。

 共闘相手の少女を初めて正面から見た。

 艶やかな黒髪が背中を覆うほどに伸びている。細い眉はわずかに垂れて反比例するように持ち上がった悪戯っぽい桜色の唇に八重歯がのぞいた。


「不信感があっても、礼儀は必要だよね」


 少女が折笠の顔を見上げる。


黒蝶夕華くろちょうゆうかです。君は?」


 そう自己紹介する少女は――夢の姫と瓜二つだった。

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